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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 革新技術の開発と普及②


 人造肥料

 明治の後期に、稲作の反当収量が急速に増加した要因の一つは人造肥料の普及である。人造肥料の本格的製造が始まったのは明治一八年(兵庫県の多木久米次郎が燐酸アンモニア、過燐酸石灰の製造を開始)であるが、本県に初めて人造肥料が導入されたのは明治二〇年である。
 この年の四月に、県が大阪市の金丸商店から濃厚性人造肥料(東京市井田商店製造の過燐酸石灰を主体とした配合肥料)を購入し、過燐酸石灰の効用と用法、使用上の注意事項を県農商工特報第三号で印刷し、肥料とともにこれを各郡に配布して甘蔗と稲作の現地試験を実施している。
 農民心理の不動性に阻まれて当初はあまり普及しなかったが、系統農会の指導により土壌肥料に関する知識が向上し、明治三〇年ころから過燐酸石灰その他の人造肥料の施用が漸増し始め、明治三六年六月に松山市大字末広町一丁目に本県で最初の肥料専門店―伊予肥料販売合資会社―が設立され、人造肥料時代が開幕した。
 需要量の増加に伴い、不正粗悪肥料の流通と奸商の横行が目立つようになり、明治三二年に肥料取締法(明治三二年四月六日法律第九七号)が公布され、県に肥料検査官が設置された。
 初期の人造肥料で最も注目され、多く施用されたのは多木調和肥料(前記の多木久米次郎製造)と大阪硫曹株式会社製造の硫曹調和肥料であった。硫曹肥料には第壱号過燐酸肥料、第三号完全燐肥料、第五号過燐酸窒素肥料の三種類があり、いずれも在来の干鰮・〆粕などの高価な肥料に勝り、(一)増収(一〇貫の施用で三割~五割の増収、品質も向上) (二)廉価 (三)虫害防止 の利点をもつ三得肥料として宣伝されていた。
 以上のほかに窒素燐酸(甲乙丙の三種)・トーマス燐肥・重過燐酸肥料・可溶骨粉などがあったが、明治三三年に創立の農事試験場が実施した第一年度の肥料試験は表2-41の「肥料同価試験」で、当時の人造肥料で最も注目されていたのは多木調和肥料と硫曹調和肥料であり、特にその経済性に農家の関心が集まっていたことを知ることが出来る。
















表2-41 肥料同価試験

表2-41 肥料同価試験


図2-37 明治30年代の人造肥料

図2-37 明治30年代の人造肥料