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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 稲作改良の誘因


 産米改良と同業組合

 明治六年の地租改正で貢租が物納から金納に変り、封建的桎梏から解放されると同時に稲作の肥培管理が粗放となり、品質を軽視した多収品種の増加、廉価な石灰肥料の多用、乾燥・調整・俵装の粗略化などにより、米質の低下が顕著となり、県は明治八年一一月に米穀製法告諭(資料編近代1 三四三頁)を布達し米作の粗放化を戒めている。
 この風潮は西南戦争後の一時的な好況による需要の増加、米価の高騰によって助長され、明治一五年以降は農家経済の窮乏でさらに促進された。明治一三年一二月に開催された県勧業課主催の第一回農談会で、米質の低下に関して、乾燥不足・無乾燥・量目増加のため俵を水に浸して俵装するなどの事例が紹介され、同一七年に開催の第四回農談会では「近年小作人が小作米麦の増量を図るがため其俵に水類を注浩するの悪風各地到る所 然らざるはなく(中略)奸商が船にて水を注ぐ者が多く、また上米に下米を混和する」実態が報告されている。
 前記の明治一三年の農談会で、実情の報告、談論が続いた後で米穀改良の案件が提起され、翌一四年一二月に開催の第二回農談会で「米穀の俵装改良」について次の事項が決議された。

       米穀俵装改良決議
第一条  各町村内又は各組に米穀俵製取締人を設くる事
第二条  取締人に於ては品位等級を分ち俵面に標記する事
       但別に品位等級及び耕作人の住所姓名を記せる紙片等を米穀中に入れおくべし
第三条  小作米は地元に於て米製等級の別に依り米金を賞与し漸次改良を奨励する事
       但 一郡又は一村内は区々ならざる様一定すべし
第四条  俵は一般編製の法を設けざるとも町村適宜の方法は設くるものとす
       但内俵は古藁を用うべし
第五条  各村取締人に於て製法に格別注意したるものと若し粗漏にして改良に心を用いざるものと有るときは該姓名を
       郡役所に報告する事
第六条  取締人手当金は協議費を以て適宜支給する事

 当時、桑村郡・周布郡では、すでに俵製改良を実施し、俵の重量五百目、四か所編みとし、繩の重量三百匁、五か所縛りとし、内俵は必ず古藁を用い、実践者には村会から賞与を出していた。
 政府はこうした全国的弊風を打破し、産米の改良を図るため、明治一七年一一月に同業組合準則(一一月一九日農商務省達第三七号)を府県に通達した。この通達に準拠して本県では翌一八年二月に、愛媛県同業組合準則(資料編社会経済上 三~一三貢)を定めて産米改良組合の育成指導を開始したが、県令の積極的な勧奨により、同年に早くも道前平野の米穀商による「今治米穀商組合」(資料編社会経済上 一〇〇頁)と道後平野の生産者、米穀商協同の「風早・和気・温泉・下浮穴・伊予米質改良組合」の二大組合のほか、中小の組合が相次いで県内各地に設立された。
 今治米穀商組合は設立直後から顕著な実績をあげ、その後も永続して好成績をおさめ「組合の審査を終へたるものは主として兵庫に向けて輸出せしが、漸次に信用回復し、後には審査表のみを郵送して売買契約をなし得るに至り、価格も漸々に騰貴して三宝米の如きは豊筑米と同等に位し、備前のアタレ米に比して一五銭内外の高値を出すを得た」(『愛媛県誌稿』下六九〇頁)が、他の組合は数年にして行き詰まり、農談会の復興、系統農会の成立した明治二〇年代の後半には、ほとんど姿を消した。
 道後平野の風早・和気・温泉・下浮穴・伊予米質改良組合も「改良せざる米穀に比し、三〇銭の高値にて売捌容易」(同六八一頁)の実績をあげた時期もあるが、永続せず数年にして解散した。
 米質改良組合によって指導された稲作改良の技術的側面(品種・施肥・刈取適期・乾燥・俵装など)は、明治二九年に確立した系統農会に移行し継承されたが、産米の全県統一の県営検査が実現したのは大正四年(一月一九日、県令第五号で検査条令公布)である。

 林遠里と小幡健吉

 明治後期における本県の稲作の改良に最も大きい影響を与え、その端緒を開いたのは、福岡県の老農林遠里と、農商務省農事試験場四国支場(徳島市に所在)の技師小幡健吉である。

  1 林   遠 里

 林は天保二年(一八三一)に筑前国早良郡鳥飼村に黒田藩の銃術指南役林家の三男として生まれたが、発芽、生育する植物を観察して自然界の偉大さに感じて農業の研究に志し、既述の種子の予措技術―寒水浸、土囲法―を考案し、明治一〇年に解説書の『勧農新書』を著して普及に努めるほか、自宅の近くに私塾の勧農社(明治一六年設立、同三〇年活動中断)を設立して農家の子弟の養成に情熱を傾けた農事老練家で、上洲の船津伝次平、大和の中村直三と並び称せられた明治の三大老農の一人である。
 県は明治二三年に、食糧農産物の増産奨励―主として稲作の改良―の方針をたて、その第一着手として林遠里を招き、県下一四か所で稲作改良の講話会を開催し、続いて前記の勧農社から社員を農業教師として招へい(明治二三年二名、二四年四名、二五年一名)し、これを各郡に配置して徹底した現地指導を行うとともに、松山養蚕伝習所構内に試験畑四〇〇坪、試験田四七〇坪を設け、明治二六年から同三一年まで林式農法の圃場試験を実施した。(養蚕伝習所は明治三二年に廃止)
 林の講話は苗代の改良が中心で、特に薄蒔。(反当播種量一升五合)の効果を力説しているが、当時県内の播種量は反当五升内外の極端な厚蒔が慣行となっていた。改良された後年の苗代から見ると、その内容は幼稚なものであったが、この講話と勧農社員による現地指導、展示圃を兼ねた養蚕伝習所の圃場試験の三面から、直接に遠里の農法に接触した県下の稲作は、米質の改良、商品価値の向上に終始していたそれまでの稲作改良(乾燥、調整、俵装の改善、石灰の施用禁止など)から脱却し、苗代の改良を出発点として本来的な生産分野の改善へ大きく前進することになった。
 『愛媛県誌稿』は顧みて「明治二三年は本県の農界にとりて記憶すべき時期なり」と記しているが、林遠里の招へいと来県は、稲作に対する意識革命の起因となった意味で特筆に値するものであった。
 ちなみに林遠里は農商務省から派遣され、明治二二年に欧洲の農業を視察している。本県が招へいしたのはその翌年で、新鮮な泰西の農学、農業に接して知識を広めた直後の円熟した老農であった。
 なお林が明治の三大老農の一人に列したのは二年後の明治二五年である。

  2 小 幡 健 吉

 小幡健吉は明治三〇年三月に越智郡農会が催した農事講話と、同三三年二月に県農会の主催で開催された農事講話の講師として二度来県している。
 小幡はこの講話で試験研究の成績を存分に駆使し、稲作の改善点を選種・苗代・挿秧(田植)・水管理・除草・害虫と防除法の六項目につき体系的、具体的に詳述しているが、国立農事試験場の研究成果を教材とした小幡の講話は、経験に立脚した老農の体験談とは自ら異なる説得力をもち、受講者に少なからぬ感銘を与えた。
 特に小幡が最も時間を費した二化螟虫、三化螟虫に関する講述の内容は、多くの受講者にとって驚きに近い新知識であった。小幡はまだ田植の項で正条植の利点を力説し「然るに御当県に於ては真直に稲を植える者は極めて稀なようでありまして」と本県の後進性を指摘し奮起を促しているが、本県の正条植は小幡のこの一言から始まったのである。
 老農林遠里によって眼を開かれた本県の稲作は、国立農事試験場の技師小幡健吉の二度の来県により、本格的な改良に向かい前進することになった。