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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 土佐街道

 土佐街道

 風の場合は東風といえば東から吹いてくる風である。しかし街道の場合は、土佐に向かって行くので土佐街道といい、土佐から同じ道を松山に向かって来るのに俗称久万官道と称している。ここは中予の土佐街道であるが、東予にも南予にも土佐街道はある。東予で最も有名な土佐街道は、川之江から新宮を経て立川御殿を通って、土佐の国府に至る官道である。土佐ではこれを北山越えという。南予には有名なのが二つある。一つは宇和島から鬼北盆地を通って、今の国鉄予土線に平行する街道であり、一つは大洲から五十崎を通って梼原に至る土佐街道である。梼原ではこのルートを大洲街道と称する。
 『松山叢談』第四巻(予陽双書)の巻末の付録第六に、松山の札の辻から久万経由で、土佐境に至る河川と村名と伝馬継場の里程を次のごとく誌している。


 土佐街道の里程

松山札の辻より道法 温泉郡立花村・久米郡浅生田村・吉木川・石井村・居相村・浮穴郡井門村=伝馬継場一里二十九丁・内川・森松村・重信川・荏原川・上野村・荏原町村=伝馬継場・一里六丁二十一間・浄瑠璃寺村・久谷村=伝馬継場二十丁三十九間・井手口川・榎川・窪野村・東明神村=伝馬継場二里二十八丁・久万町村=伝馬継場=二十七丁・宮野前川・菅生村・有枝村=伝馬継場一里十七丁・高橋渡瀬・七鳥村=伝馬継場一里十六丁・吉野瀬川・東川村・土佐境・二里十八丁・〆十二里十八丁

 『松山叢談』第二巻(予陽双書)の第六代の顕徳院殿定喬公の寛保元年(一七四一)三月(六五頁)の項をみると、次のようにある。

同月御領界郡界並里塚、立木に有之候故、数か所に付年々御修復御手も不離侯へば立石に相成、御領界立石伊藤浅右ヱ門雪旦、里塚立石祐筆水谷半蔵、郡界立石は書簡荒井又五郎認之、又五郎老年に至り郡と言字の竪棒二寸長過たるとて後悔せしと也(『垂憲録拾遺』)


 里塚石

伊藤義一の「埋れた土佐道」(伊予史談二〇七・二〇八合併号昭和四八年一月)によれば、次のごとくである。

二代将軍秀忠の慶長九年(一六〇四)に街道整備のため江戸日本橋を起点として、三十六町を一里につもり、五畿七道残る所なく一里塚を作ったと『慶長見聞録』に出ている。これは一里ごとに道の両側に、五間四方の塚を作って、上に榎を植えて目じるしとするとともに、旅人の憩いの場所とした。これにならって各藩でも主な街道に一里ごとの目じるしを作ったらしい。

また『松府古志談』によると、

元文五申年(一七四〇)、御領境、郡境、里塚、石ニ改、里塚四十基ハ左之五人書之、御祐筆水谷半蔵、間屋又六郎、鹿田又左ヱ門、秋山六左ヱ門、山ノ内万右ヱ門

とある。現在当時の御領境や郡境や里塚の若干が残っている。
 『松府古志談』の土州道の項に、次のごとく里塚の場所が書いてある。

一里…久米郡尼山村 二里…浮穴郡森松村 三里…浮穴郡荏原村 四里…久万山馬次久谷村 五里…同窪野村之内桜休場 六里…同東明神村 七里…同久万町村 八里…同菅生村 九里…同有枝村 十里…同七鳥村 十一里…同東川村 十二里…同縮川村


 里塚の現況 起点「札の辻」

 松山市の本町三丁目の電停はもと「札の辻」と称していた。札の辻とは高札場(掲示板)のあったところである。現在松山城の西堀端を北に上った、お堀の北西の角に「札の辻跡」の標石が立っている。公衆便所の脇で、お城の建物も見え、西と北の堀端の街路樹も整然として景色がよい。昭和四六年の復旧である(図7-20)。


 一里 天山

 (尼山)場所は現在の上吉木橋あたりと推定されるが、標石が紛失して見当たらない。『松府古志談』に「宝暦三癸酉年、久米郡尼山、天山卜改度旨村方ノ願ニテ御免」の記事がある。小野川の堤防の上吉木橋の北西の袂に、現在弘化四年未二月一五日に建てた「一字一石塔」(大きさ幅三〇㎝、奥行二〇㎝、高さ一一五㎝)がある。横に「天下泰平・当橋永久・五穀成就・往来安全」と刻まれている。


 二里 森松

 松山市森松町下河原五六〇番地武田忠好宅の前に、「さぬきみち」の道標があり、その五m東に「松山札の辻より弐里」の里程石が建っている。道標の石は花崗岩で、幅、奥行とも三〇㎝、高さ地表部分が一六七㎝。文字は正面がさぬきみち川上江三里・右に大洲宇和島道郡中江百町・左に村中安全、世話人は夫婦泉を掘った吉良彦九郎ら六人の名があり、石工は松前の中矢又吉である。郡中江二里とせず百丁としたのは、当時大洲藩では五十丁が一里、松山藩では三十六丁を一里としたためであろう。建立は明治四年(一八七一)である。さて、二里の里程石は前幅一九㎝、奥行一六㎝、高さ一七五㎝で、石は角閃安山岩である。
 土佐街道は森松から重信川の堤防に沿って約一㎞上り、尾海武応宅の前から、重信川を横切って広瀬を通って恵原に向かった。広瀬が重信川の左岸(南)でありながら、旧浮穴村高井分であったのは、重信川の旧河道が村界を示すものである。森松の重信川橋が架かったのは、明治三六年(一九〇三)で、昭和二五年生まれの故宮脇先は、橋が架かるまでは、広瀬の渡しを小舟で渡っていたと話してくれた。


 三里 荏原

 「松山札の辻より三里」の里程石は、一時紛失していたが、現在は上の半分が見つかって、復旧した。松山市恵原町一二四三番地の佐々木温所有の田の畦に移されており、三〇mほど昔の位置より動いている。文珠院に近い道路ぶちである。下半分は水口保一が保管している。


 四里 旧久谷村丹波の榎橋(戦後紛失)

 四里の里程石は戦前は久谷川の左岸にあり、藤の花が美しく、旅人の休み場で、十一面観音もまつられていた。当時を知る石材店の相原ハル(一八九五―)は、標石を近くの谷川の橋に利用していたこと、橋の袂にあったのを、久谷川の中に青年がいたずらに落とし、行方不明になったことを語ってくれた。筆者は紛失した標石を探し、四里と五里の標石を復旧するよう希望し、寸法も文字も相原石材店に指示しているが、まだ実現していない。


 五里 三坂峠中腹の桜休場(紛失)

 この五里の標石も窪野村の桜の集落にあり、休場になっていた。いつのころからか行方不明となった。どうも電話ケーブルを埋めたとき、心なき人夫により取り去られたか、砕かれたらしい。その位置は距離から考えて三坂峠の頂上に近い所であった。
 三坂峠には戦後伊予鉄のドライブインができ、展望台には子規の詩碑が建てられた。峠には、明治二二年(一八八九)に三坂新道の開通に尽力した桧垣伸郡長の功労碑がある(数百m南にあったのをここへ移した)。旧道と国道三三号の、岐路に遍路道の道標があり、浄瑠璃寺へ二里とある。


 六里 東明神の田圃の中

 「松山札の辻より六里」は国道三三号の、東明神バス停の西方三〇〇mの旧道に立派に残っている。このあたりで標高五六〇mで、標石のすぐ近くに常夜燈もある。六里の標石の大きさは、高さ二三〇㎝と幅一九・五㎝と奥行一五・五㎝である。


 七里 久万町藤の棚

 七里の標石は、国道三三号の、バス停の藤の棚と久万中学校前の中間にある。民宿の一里木の前にあり、標石の大きさは一七〇㎝と一九・五㎝と一五㎝である。注意しておればバスの窓から東側に見ることができる。


 八里 旧菅生村はじかみ峠

 「松山札の辻より八里」の標石は、昭和四三年(一九一〇)までは、久万川の左岸の宮前から、有枝川の右岸の上谷に至る、はじかみ峠(標高六〇〇m)に立っていた。昭和四三年ころ、テレビ塔の工事のとき倒れた。しばらく久万町役場の軒下に持ち帰っていた。標石の大きさは一八〇㎝と一八・五㎝と一五・五㎝の安山岩である。はじかみとは山椒のことで、恐らく山椒の木が多かったのであろう。


 九里 有枝(美川村)の色ノ峠

 「松山札の辻より九里」の標石は、程野部落に近い色ノ峠の西斜面で、峠から三〇〇m西の標高六〇〇mの杉林の中に立っている。「松山札の辻より」までが地上に出ていて、下は埋もれている。大きさは一一五㎝と一八㎝と一六㎝で、安山岩である。今は人通りの少ない旧道である。


 十里 美川村七鳥

 「松山札の辻より十里」の標石は、美川村大字七鳥にある東光寺の西方八〇m、旧道の山の側に立っている。下を面河行の県道が通っており、松岡ガソリンスタンドの上にある。標石の大きさは一九〇㎝と一八・五㎝と一五㎝である。この標石は十里の里の字が欠げて、十一里のように見える。旧道は、このあたりは平坦で、道幅も一m近く、草も余り生えておらず、昔の面影がある。ここから土佐街道は面河川を渡って、二箆の集落に上る。十里の標石のある地点の標高は四〇〇mであるのに対して、十一里の簑川の標石は標高八八〇mの山腹にある。


 十一里 美川村蓑川

 「松山札の辻より十一里」の標石は、テレビ塔の標高九四八・五mの山頂より北方三〇〇mの林道に「天下泰平」の頌徳碑があり、この大正八年(一九一九)八月一五日建てた立石から、東方へ一〇〇mほど下った杉山の中に建っていた。筆者は十里から十一里への旧道を歩かず、美川村教育委員会の田中盛重主任の車で、御三戸から迂回し、二箆小学校の前からテレビ塔に出て十一里の標石に辿りついた。案内者がないとわからない。標石の大きさは一七五㎝と一九㎝と一七㎝であった。


 十二里 美川村黒藤川

 「松山札の辻より十二里」の標石は、地形図の猿楽石のある標高一〇九〇mの旧道に立っている。このあたりはもっぱら尾根の道であるが、山仕事の人のほかは、旅人は全く歩かない山道である。猿楽石は四mに五mぐらいの一枚岩で、猿が集まって踊りをしたという伝説がある。標石のすぐ北側に、三間に二間半の営林署の山小屋があった。大師堂には弘法大師・薬師如来・成田不動を祭っており、つづら(くさかんむりに縮)川部落の正泉寺の出張所で、昭和三四年と同四七年に修理している。ここから西方二㎞に「盗人石」という五mに三mに一・ニmの巨岩がある。石鎚山の賽銭を盗んだ男が天狗につかまり、落ちて石になったという伝説がある。猿楽石の十二里の標石から約二㎞東が県境で、舟形の天保十二年に建てた石像が二基あった。大きさ四六mと二五㎝と一〇㎝、四〇㎝と二五㎝と一〇㎝で、国境碑はなかった。
 土佐街道は、これから標高一三二七mの雑誌山の北を通り、水ノ峠(標高一一二七m)を通って、池川町の土居に出るか、吾川村の大崎に出た。土居からは伊野を経て土佐の城下へ、大崎からは越知・佐川を通って伊野で合流した。なお土居から用居の番所を通り、伊予の東川を経て七鳥に通じた。
 久万官道すなわち土佐街道は、この里標石を結ぶ道のほかに、枝道・裏道が平行して何本もある。天明七年(一七八七)二月の有名な土佐の「池川名野川の紙一揆」には、七百余人が、「池川郷ヤスの川原に集結し、竹の谷村に向かい、池川口番所の上の山を通り、水の峠を越え、雑誌山の峰伝いに松山藩領に逃散した」とある。
 『伊予古蹟志』をみると、松山より高知へは二五里一八丁とある。そのコースは松山札の辻―恵原―久万―有枝―七鳥―池川―横田―越知―佐川―高知である。現在の国道三三号の、国鉄バスの走る距離、松山―高知間は一二三㎞約三一里で、旧街道に比して二〇㎞迂回している。

図7-20 土佐街道の里塚石の位置(村上原図)

図7-20 土佐街道の里塚石の位置(村上原図)