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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 大洲街道


 『松山叢談』付録第六の松山より諸国道法の項をみると、次の如く記している。

温泉郡南江戸村・竹原村・小栗村、久米郡和泉村、伊予郡保免村=伝馬継場一里二丁五十間。余戸村・重信川・高  柳村・庄之内(昌農内)村・北河原村・筒井村=伝馬継場一里十丁二十五間二尺。大洲領 伊予郡 郡中=伝馬継場一里三十四間。大洲領 喜多郡 中山村=伝馬継場三里二十一丁。内之子=伝馬継場三里七丁。大洲三里八丁〆十三里二十丁九間二尺。但大洲領五十丁一里なり。

とある。
 駅逓は保免―松前の筒井―郡中―中山―内子の五駅である。松山札の辻より一里の里程石は、移動して伊予鉄の余戸駅の近くの支所の前にある。二里の里程石は今のところ不明である。北黒田と南黒田の藩境の碑は、現在伊予市の五色浜公園の彩賓館の前に移されている。中江藤樹先生筆跡、「従是南大洲領」とある。しかし、この書体は藤樹先生の筆跡でないという書家(西岡盛続)もある。
 さて、松山市札の辻の元標より各地への距離を、松山市教育委員会社会教育課発行の、『松山案内』(明治四二年版)の複製版(昭和五〇年三月発行)は一〇頁に次の如く記している。

郡中三里十丁、中山七里十二丁、内子十一里一丁、大洲十四里十五丁、八幡浜十八里十四丁、卯之町十九里廿五丁、宇和島廿五里、久万八里廿丁、北条四里三丁、波止浜十一里九丁、今治十一里十六丁、西条十三里十八丁、三島二十二里廿二丁、川之江廿四里二丁、多度津三十四里十八丁、長浜十六里廿三丁、高知三十六里三十丁

 この距離は現在の改修された国道と若干違っている。『伊予史談』の第一六巻三号(昭和五年九月)に西園寺源透の「松山城と其最古の地図」の研究論文がある。その中に寛永四年(一六二七)八月一〇日から一一日にかけて、内子から松山までの隠密の旅行記に次の如き文がある。

八月一〇日大津から、うちのこへ三里、出羽殿(大洲藩主加藤泰興が出羽守)領分家二百計、同日とまり申侯。いづぶち(中山町出渕)へ三里、此間に千ぶの坂あり、一一日満崎(松前)へ五里、長谷迄二里出羽殿領分、此間に犬よせ坂有、中務殿領分家二百計(長谷とは何処か、中務とは蒲生忠知のこと、当時松前には二百戸計あったことが知られる)。同日松山へ二里半、満崎より十町計松山の方に重信と申大川あり、水の上は四十間計に候へ共、河原二町計有

とある。
 大洲街道は犬寄峠の水準点三二九mと竹内二七一mのところ(図7-21)を、藩政時代から通っていた。久保田一雄(明治三六年生)所蔵の天保九年(一八三八)の犬寄番所の絵図(安芸藩の隠密士の菅原正筆)をみると、八軒の家の間取りが描かれ、各家に片桐様・平岩様・三枝様などの本陣が明記され、御用人・御目付・御足軽・御徒士・御近習・御中小姓の部屋割まで書かれている。
 この佐礼谷の竹内経由の道路は、明治三六年(一九〇三)陸地測量部が作図したころはメインルートであったことは、二㎞毎の水準点をみればわかる。明治三八年(一九〇五)にできた国道の犬寄峠の鞍部は三〇六mで、集落三五戸のうち中山町分二六戸、双海町分九戸である。現在双海分の児童は中山の学校に通っている。昭和四五年国道五六号線の七四九mの犬寄隧道ができて、道路が三・五㎞短縮され改装されて、松山―大洲間はバスで一時間三○分の距離になった。さらに標高一七〇mの犬寄トンネル国鉄内山線(四国一長い五四九〇m)が開通すれば、内山―松山は約四〇になり、通勤・通学は一層楽になる。
 中山町の泉町の庄屋玉井家の棟札に宝暦四年(一七五四)とあり、街村の形成時代が分かる。中山町の永木部落は、昔の街道筋で、三島神社の鳥居には応永九年(一四〇二)と刻まれている。泉町よりも早く開けた集落で、三島神社は中山町全域一一部落の氏神である。
 今では東峰のおきよ池が犬寄越えの国道の頂上である。大洲藩主加藤泰武の乳母の真心のおかげで、おきよ池は寛延年間(一七四八―一七五〇)に築造された。池畔に記念碑が建っている。

図7-21 中山町の街村と犬寄峠

図7-21 中山町の街村と犬寄峠