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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 海上交通


1 入港船舶

 入港船舶数の推移

 松山港は古くから中予地域における海上交通の中心的な港であった。このことは帆船時代から機帆船時代を経て汽船時代となった現在においても変わっていない。新しい海上交通の時代に対応することのできる港として、カーフェリーをはじめ、旅客船・水中翼船・高速艇・貨物船等さまざまな船舶が発着し活況を呈している(写真2-20)。
 入港する船舶の総数は大正三年(一九一四)には三万九一二七隻(汽船一万三九六七、機帆船・帆船二万五一六○)であった。しかし、昭和一五年には社会情勢の急変もあり、入港船舶数は急増し一〇万六〇九〇隻(汽船三万四○五、機帆船二万五一六六、帆船五万五一七)で総トン数は八〇八万九七九三となった。


 進む船舶の大型化

 終戦となった二〇年には七万二〇五九隻(六七七万三九八四トン)に減少したが、臨海工業地域の形成や全国的な経済復興に伴い、松山港へも大型船の入港が増加した。三一年には入港船舶の総トン数は八一五万一二八七トン(五万三九七七隻)となり、戦前の最盛時をしのぐまでになった。
 入港船舶数はその後も五万~八万隻で推移しているが、総トン数は急増し、船舶の大型化傾向を示している。総トン数は三六年には一〇〇〇万トン、四二年には一五〇〇万トン、四五年には二〇〇〇万トン、四九年には三〇〇〇万トンを超えた。帆船は三五年に一〇八隻が入港したのを最後に姿を消してしまった。長年にわたって入港船舶数の一位を占めて来た機帆船も三六年には汽船にその地位を追われ、四一年に二万五七三四隻入港したのを最後に統計上から姿を消した(表2-46)。
 五五年現在、約六万隻、総トン数約三四〇〇万トンの船舶が入港し全国屈指の港湾に成長した松山港は、現在も船舶の大型化のみならず高速化に対応するために継続的な整備が行なわれている。


  2 乗降人員

 乗降人員の推移

 大正時代から昭和初期にかけて年間乗降人員はほぼ三〇万人程度であったが、昭和一〇年以後急増し一五年には六〇万人を超え、港は乗り降りする人々でにぎわった。終戦となった二○年にはやや減少したが、その後再び増加し二五年には九〇万人近くにまでなった。二七年には六一万人に激減したがこれは国鉄予讃線の配車整備と増強により陸上交通に人々が吸収されたためであった。翌二八年には再び九六万に回復しており、一時的な利用人員の減少であった。三〇年には一〇〇万人を超え、また三九年には二〇○万人に達した。


 フェリー時代を迎えた海上交通

 四〇年には乗込み人員一六九万八九六二人、上陸人員二七三万五四〇二人となり合計では四○○万人をはるかに超える人員が記録された。これは三九年の東京オリンピックや東海道新幹線の開通とともに、当時の高度経済成長の波に乗った観光ブーム等のほかは、フェリーの本格的就航開始も原因している。四一年には二五三万三七三〇人に減少したが、その後徐々に増加し四九年には三〇〇万人を突破した。この頃からいわゆる経済の低成長時代に入り、それとともに人々の旅行熱も下火となった。このような情況のもとで、乗降人員は微増・微減し現在にいたっている。


  3 航路及び航路別乗降人員

 明治~戦前の航路

 松山港に定期船が最初に寄港したのは、明治四年(一八七一)一二月から態本の汽船「舞鶴丸」が、一か月に三回三津浜港に寄港したことにはじまるとされている。しかし、本格的な定期航路は大阪商船会社の設立にともない明治一七年(一八八四)五月に開始された大阪-伊万里線、大阪-博多線、大阪-馬関(後の下関)線、大阪-宇和島線等の船舶が寄港するようになったことに始まる。これらの航路以外には、山口県の大島汽船が開設した柳井-三津浜航路、長浜町末永回漕店の三机-高浜航路などがあった。大阪-宇和島航路は大阪商船と宇和島運輸の間で競争がくりひろげられたが、明治四年(一九〇七)に協定が成立し、昭和四年一〇月からは宇和島運輸が単独で経営するようになった。
 松山港に寄港する定期航路のうち最もその名をはせたのは大阪商船の大阪―別府航路であり、これは明治四五年(一九一二)より高浜港への寄港を開始した。しかし、昭和一六年の太平洋戦争の始まりとともに、政府は海運業界の統制も強化するようになった。その代表的なものとして、一七年五月に、大阪商船を中心として宇和島運輸等の会社が合併し、関西汽船株式会社が設立されたことなどをあげることができる。


 鉄道連絡航路

 鉄道連絡の定期航路としては明治二三年(一九八〇)に、三津浜の石崎汽船が伊予鉄道と山陽鉄道との連絡を目的として三津浜-宇品航路を開設したのが始まりである。その後、三〇年(一八九七)には大阪商船の宇品-三津浜航路、三八年(一九〇五)には三津浜-尾道航路も開設された。この三津浜-尾道航路は東京への最短コースとして松山地区の人々が多く利用した航路であった。


 戦後の航路と航路別乗降人員

 終戦直後、定期航路は混乱をきたしたが、二八年には松山港に寄港する定期航路は一一となり、年間乗降人員も一〇〇万人近くまで回復した(表2-47)。その後三九年には二〇〇万人を超えるとともに、四九年には三〇〇万人を超えた。この間経済性の乏しい定期航路が姿を消す反面、水中翼船や高速艇の就航など海上交通の高速化に伴い新航路も開設され、五七年現在一一航路(由良-高浜、泊-高浜のような同一港内の航路を除く)が開かれている。


4 松山のもう一つの港

 堀江港

 松山市の北部に位置し、古くは神功皇后の三韓征伐や万葉集にうたわれた「熟田津」と関連づけられる港であるとも言われている。また、中世には福角港と呼ばれ河野氏が国外に赴く場合に利用するなど、中予の要衝の地として栄えて来た。自然の良港として知られ、江戸時代には松山藩の貢米積出港となるなど、荷物の積みおろしは堀江、客は三津浜という時代が帆前船から汽船に代わるまで続いた。


 仁堀航路の沿革

 仁堀航路は昭和二一年五月一日四国鉄道局所管で開航した。同年五月には一万八〇〇〇人もの利用客があり、一〇月には三万三九〇九人に達するなど、年間を通しての日平均利用人員は六八五人となった。しかし、二四年から二六年にかけて、それまでの一日二往復が一往復に減ったこともあり、日平均利用人員は一〇〇人前後に減少した。二六年一二月から定員二四二人の五十鈴丸が一日二往復で就航したため、利用人員も一時は増加したが、この傾向も長くは続かなかった(表2-48)。
 松山-広島航路が整備されるとともに利用人員は減少し、さらに呉-松山フェリーが開設されるに及んで国鉄連絡仁方-堀江航路は存在の意義を失ってしまった。五六年の日平均利用人員は一二一人、自動車航送台数はわずか一七台であり、これらの状況をふまえて、国鉄当局は同航路の廃止を決定し、五七年六月三〇日をもってその歴史に終止符を打った。この間、仁方-堀江航路に就航した船舶は長水丸・水島丸・五十鈴丸・安芸丸・瀬戸丸等であり、総輸送人員は二三七万人、総輸送自動車は一一万台に達した。
 現在は、昭和三九年に開設された民営の呉(阿賀)-松山フェリーが一日一六往復就航している。

表2-46 入港船舶総数及び船舶乗降人員 1

表2-46 入港船舶総数及び船舶乗降人員 1


表2-46 入港船舶総数及び船舶乗降人員 2

表2-46 入港船舶総数及び船舶乗降人員 2


表2-47 航路及び航路別乗降人員の推移(1)

表2-47 航路及び航路別乗降人員の推移(1)


表2-47 航路及び航路別乗降人員の推移(2)

表2-47 航路及び航路別乗降人員の推移(2)


表2-48 仁掘航路年度別旅客・荷物・自動車輸送実績

表2-48 仁掘航路年度別旅客・荷物・自動車輸送実績