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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 港湾

  1 松山の港湾

 松山港
 
 松山には現在、通称三津浜内港、同外港、高浜港、観光港、今出港、吉田浜港、和気港、堀江港、泊港、由良港などと言われる港がある。港湾法ではこのうち三津浜内港、同外港、高浜港、観光港、今出港、吉田浜港、和気港の区域を総称して松山港と言う。同港は松山市の北西部に位置し、瀬戸内海の本航路に接する交通の要衝にあたっている。港湾法による港湾区域は松山市堀江町の花見川河口左岸から大ノ頭鼻を経て、同市興居島神崎鼻にいたる線と同市西垣生町重信川河口右岸から興居島黒崎鼻にいたる線に囲まれる水域面積一七〇〇万㎡の範囲である。
 松山港は、西は興居島を自然の防波堤として伊予灘に面し、南部は大可賀・吉田浜地区の工業地帯を有し、北部は標高一八二mの太山寺丘陵に限られ、東部は松山市の市街地へと続いている。この地域は西南日本内帯に属しており、花崗岩を基盤とし洪積層に属する密度の大きいシルト質砂及び沖積層に属する海成粘土や砂などで履われている。
 松山港のうち三津浜内港地区は万葉集にうたわれた「熟田津」に関連づけられる土地であるとも言われ、古くから商港として発展して来た。内航船及び小型船舶の集結地として知られて来たが、自動車交通の進展に伴い、昭和四〇年にフェリー接岸施設が完成したことによってフェリー基地の性格が強くなって来ている。また、昭和四四年には一〇〇〇トン級船舶の接岸施設も増設され、松山と広島・柳井・岩国などを結ぶ航路が開かれている。
 三津浜外港地区は昭和二六年度から運輸省や愛媛県などの手により整備が行なわれ、輸移出・輸移入港の機能を有するとともに工業港の機能も有している。しかし、貨物輸入量は昭和五六年度に丸善石油松山精油所が操業を中止したこと等により減少している。
 今出港地区は昭和四九年度より垣生漁港に接して木材専用港の整備が進められ、マイナス一Om岸壁二バースをはじめ、木材集積地の造成が行なわれた。五六年の貨物取扱い量は三七万八〇〇〇トンに達している。吉田浜地区は、帝人や大阪曹達等の主要臨海工場を控え、化学工業の原材料及び製品の出入が盛んである。この地区では将来の需要増大に備え、五二年度から拡張工事が行なわれている。
 高浜地区は明治二五年(一八九二)に伊予鉄道高浜線が開通して以来旅客船基地として発展して来た。昭和四二年には従来の高浜港(旧港)の北五〇〇mの所に新港の「観光港」が開かれた。観光港には松山と阪神・中国並びに九州を結ぶフェリー、水中翼船、高速艇が就航し活気を呈しているが、旧港は興居島航路・中島航路の基地港に変化した。新港・旧港を合わせると昭和五六年には、自動車一四万台、旅客一九九万人の利用実績がある。


  2 松山港の生成と発展の過程

 明治期以前

 松山港の中で中心的役割を果たしている三津浜内港・外港地区と高浜地区を中心に、港の生成と発展にふれておこう。
 日本書紀に「斉明天皇七年(六六一)正月六日難波を船出し給ひ、同月一四日伊予熟田津に船泊り石湯に行宮し給ふ」とあり、また万葉集には額田王の「熟田津爾、船乗世武登、月待波、潮毛可奈比沼、今者許芸乞菜」が見られる。一三〇〇年前に伊予に熟田津(「荒れることの少ない波静かな港湾」の意とされている)のあったことが示されている。また、『伊予風土記』には景行天皇及皇后等多くの貴人が伊予に行幸啓されたとの記録が見られる。このように行幸啓が多かった所から、熟田津を「御津」と称するようになり、後に「三津」と呼ぶようになったとする説がある。しかし、熟田津の位置についてはいくつかの説があり、現時点では三津浜と断定することはできない。
 慶長八年(一六〇三)に加藤嘉明が松山藩主になるとともに御船衆が西港山に置かれ、藩の港としての性格を持つようになった。また、寛永一二年(一六三五)久松定行は三津浜に船手四〇〇戸を配するとともに船奉行を置き政治・経済の取り締まりを行なうようになった。三津浜港の整備については、元禄八年(一六九五)に港の西北端にある洲崎(須崎)の鼻へ、長さ七〇間、水上の高さ五尺、根置き三間の積石波止が築造されたのが最初のものである。これは後に古波止と言われるようになったものであり、時の普請奉行は林源太兵衛と土居三右衛門であった。
 享保元年(一七一六)には三津浜の御船場で御召船「長成丸」が進水している。すでにこの頃から、風波が高く三津浜港から乗船できない時に備え、隣接した入江の高浜を港としていた。寛政九年(一七九七)には高浜に御船作業場が新設されている。
 その後、藩は天保七年(一八三六)に三津浜の海岸を埋め立て(現在の三穂町、栄町)、埋め立て地の払い下げを行なった。払い下げの地代一八八貫二一匁二分六厘と借入金一一〇貫で港湾を充実するために外港計画を立てた。工事は天保一五年(一八四四)に施工されたが、これは海に向かって南北七〇間、東西八五間の鍵形防波堤を作るものであり、元禄時代の防波堤と合わせて桝形となった。この工事は藩の御船場を中心とする従来の内港重視から外港重視への変化を象徴したものであり、その後の商港としての発展を決定づける画期的な事業であった。これ以後帆別銭(入港税)の取り立てを開始するようになった。


 明治期

 明治元年(一八六八)藩政改革に伴い、従来の三津町奉行を市政司に、船奉行を主船司と改め、属司は大船頭役と小船頭役を兼務するようになった。明治三年(一八七〇)には三津小船頭より無格にいたるまで一統御暇(解雇)となり、さらに翌年には番所が払い下げられた。この結果、三津浜港から軍事的要素が完全に払拭され、商港として運営されるようになった。明治六年(一八七三)には石崎平八郎が大阪で新造した汽船「天貴丸」を用いて県下で初めて汽船回送業を始めるようになるなど、商業活動が活発化していった。しかし、明治一七年(一八八四)の大暴風雨によって欠壊した桝形防波堤の復旧に際して、県議会では三津浜港は自然条件が悪く汽船時代の港としては適していないとした。そして、高浜に新港を築造すべきであるとする意見が大勢を占め、高浜港の築港問題がクローズアップされてきた。
 これ以後高浜港の築港は具体化され、明治二一年(一八八八)には小規模ながら桟橋も設置された。同年には伊予鉄道の松山―三津線が開通し、さらに二五年(一八九二)には松山―三津線が高浜まで延長開通した。このような情勢を受けて、明治三〇年(一八九七)は県議会において、高浜港を特別輸出港として指定するよう内務大臣に建議することを可決し、翌年には高浜港を開港外における外国貿易港とする建議も可決した。明治三六年(一九〇三)には伊予鉄道の姉妹会社である高浜機業株式会社によって現在の南桟橋が架設され、山陽鉄道、大阪商船、伊予鉄道の三社により宇品-高浜航路が開設された。同年に「豊浦丸」が高浜港に寄港し、船車連絡が始まった。明治三八年には北桟橋が架設され、翌年九月一一日に高浜港開港式が行なわれた(写真2-18)。これ以後大阪商船の定期便は全て高浜港へ寄港することとなり、三津浜港の衰退は決定的となった。
 このような事態に対応するため、三津浜町は町長を中心に三津浜港築港に全力を注ぐこととなり(図2-37)、明治四二年七月一三日に安藤謙介知事によって工費一〇〇万円という巨額を要する三津浜港築港工事の起工式を行なった。しかし、政変により同年七月三〇日に安藤知事は休職、伊沢多喜男の知事就任により工事は取り止めとなった。


 大正期から昭和期(終戦まで)

 三津浜港の築港は政変により大幅に遅れることになったが、築港の必要を説く、名誉町長大原右一郎・松田定五郎らの尽力により、大正五年起工の運びとなった。明治四二年(一九〇九)に起工式をあげた当時のものに比べるとはるかに小規模であり、しかも町主体の施工であった。工事は天保時代に造られた桝形の南辺湾曲部から防波堤の一部を三三三m余り延長し、在来の防波堤の不要部分を取り除くものであった。また、同時に港内の水深を二mから四mになるよう浚渫し、浚渫土砂をもって御幸町地先海面一万九七〇〇㎡の埋め立ても施工され、大正一二年(一九二三)に竣工した。この結果、港内の水面積は従来の桝形港湾の二万一二○○㎡から七万四三〇〇㎡に拡大された。なお、同年から三津浜港・高浜港の両港は同一港湾としての扱いを受けるようになるとともに指定港湾ともなった。
 当時の内港は旧御船場をめぐって流れる堀川(宮前川の下流)の両岸を繋船岸壁として利用しているにすぎなかったため、築港完成後は内港の改修問題が重要になって来た。昭和三年三津浜名誉町長久松定夫は町議会に内港拡張縦続工事費二〇五万円を提案し、町議会はこれを可決した。三津浜町はこの多額の工事費を捻出するため、三〇〇年の歴史を持った三津の魚市場を二五万一五〇〇円で買収し町営とした(写真2-19)。内港改修工事は昭和五年から七か年の歳月を費し完了した。この結果、宮前川下流の堀川は付け替えられ、内港はきわめて安全な港になるとともに、完備した港湾施設を誇る三津浜内港が出現した。
 昭和一二年三月一七日新浜村が三津浜町に合併しだのに伴い、翌年一月高浜港は三津浜港に統一改称された。しかしこのころになると大型船舶時代に対応しきれない面が目立ち始めていた。このような状況を踏まえて三津浜町長高橋惣太郎は大三津浜港の港湾計画を作成した。これによると長大な沖防波堤や、六〇〇〇トン級の大型船舶の接岸荷役の可能な埠頭の築造をはじめ、港内の大規模な浚渫や埋め立てを行なおうとするものであった。巨額の工費を伴う工事を遂行するためには、松山市との合併が必要であり、合併を実現させるためには、まず工場の誘致が必須であるとした当時の町長黒田政一らの努力により、国策会社共同企業の貯油所の誘致が実現した。
 昭和一五年三津浜町は六か村とともに松山市に合併し、以後三津浜港は松山港と称されることになった。一六年には丸善石油の精油工場の誘致にも成功した。丸善石油は、会社単独の工事(二か年継続)として四五〇万円をもって防波堤の延長築造(三五〇m)や仮護岸の築造(八五〇m)を行なうほか、防波堤内の水面四一万三〇〇〇㎡の浚渫を行ない、泊地を得るとともに、その浚渫土を利用して大可賀地先北岸を埋め立て資材荷上げ場の造成を計画した。これらの工事と並行して県も昭和一九年から三か年継続事業として防波堤の延長三〇〇m、一一万三〇〇〇㎡の用地造成、および浚渫を施工する予定であった。しかし、いずれも終戦と同時に本格的工事を行なうこともなく中止となった。これらの工事が戦後の大松山港建設を実現させる第一歩であったことからその持つ意義は大であった(表2-44)。


 昭和期(戦後)

 昭和二一年に第二期内港改修工事として内港地区の第三船溜り築造工事が開始され、二五年に工事は完了した。この結果内港は小型船泊地一〇万㎡(水深二mから四m)、物揚場延長一七〇〇m(水深二m)、防波堤三六七m、浮桟橋一基、荷役機械一二基を持つ安全性の高い機帆船・小型汽船の基地となった。
 終戦とともに中止された外港修築工事の一部は運輸省の手により二二年度から再開されたが、本格的工事は内港改修の関係上二六年度から五か年計画で着手した(図2-38)。この工事は三〇年までの五年間に二億四一八〇万円を投じて防波堤の築造や浚渫等を行なうものであった。これと並行して、・戦時中に基地施設の一部として築造しつつあった、吉田浜の掘り込み式船溜りの修築工事が松山市の直営で施工された。この背景には臨海工業地帯の形成があげられる。大阪曹達松山工場の操業開始(二七年九月)や帝人松山工場の操業開始(三〇年一〇月)等、相次いで大規模工場が操業したのに伴って、原料の輸移入や製品の輸移出を円滑にするために二六年八月から施工されたものであった。
 しかし、五か年計画が行なわれている間にも松山港は商港、工業港として、また観光港として大きく発展し続けたため、港湾計画の新たな見直しに迫られて来ていた。運輸省第三港湾建設局は三〇年に松山港の将来性について検討し、三〇年度を初年度とする六か年計画を策定した。これによると「(松山の)臨海工業地帯は着々整備され、海運貨物量は激増し、昨今では荷役が不可能な状態に立到っている。これを打開する為に外港を緊急に整備して、外貿船舶(三万トン級)及び内貿船舶(二〇〇〇トン級以下)の繋留・荷役を可能にしなくてはならない現状である……」とし外港地区の整備のみならず吉田浜地区及び高浜地区の整備の必要性も説いている。吉田浜地区については防波堤の完成が、また高浜地区については桟橋の増設が今後に残された課題であると指摘している。
 外港地区ではフェリーの就航に伴い、四〇年及び四四年にフェリー桟橋(可動橋)が設置された。高浜地区では従来の高浜港の施設が老朽化し、海上交通機関の大型化・高速化に対応しきれなくなったため、旧高浜港の北五〇〇mの地に新高浜港(通称観光港)が築造された。四二年三月二一日から新高浜港の使用が始まり、四五年六月には同港にフェリー基地も完成し、松山港の中では旅客船の基地港となっている。今出地区では四九年度から本格的に木材専用港が運輸省の直轄事業によって築造され、マイナス一〇m岸壁二バースの完成に続いて五三年度には木材集積地も完成した(写真2-6参照)。
 松山港は観光客の往来が激しく観光港的な性格が強いが、戦後は吉田浜地区の旧海軍航空隊跡地一六五万㎡に石油・薬品・繊維などの大規模工場が相次いで誘致建設され工業港的な性格も強くなって来た。現在操業中の主要工場には帝人松山工場、同愛媛工場、丸善松山石油松山製油所、大阪曹達松山工場、レンゴー松山工場などがある。これら臨海工業地域の活発な産業活動と後背地域の諸活動の発展に伴い、松山港の取り扱い貨物量は五六年度実績で、外貿一八七万トン、内貿五四三万トン、フェリー九一一万トン(合計一六四一万トン)にも達している。松山港は松山市を中心とする地域経済の中心的機能として総合的性格を有する都市港湾としての整備が現在も進められている(図2-39)。


 行政上の指定

 松山港は、大正一一年(一九二二)五月二七日に内務省訓令による指定港湾となり、昭和二六年一月二九日には港湾法による重要港湾に指定されている。当時、全国四七の重要港湾の一つであったが、現在では一〇六重要港湾の一つとなっている。二九年三月一日には愛媛県管理港湾となり、続いて同年七月一日には関税法による開港に指定され、さらに三八年八月一日には港則法による特定港にも指定された。


  3 松山港の港湾施設

 泊地およびけい留施設

  昭和二五年の調査によると松山港の大型船泊地面積は一〇一三万八八〇〇㎡、小型船泊地は一二万二二〇〇㎡となっている。現在の大型船泊地についてみると被覆内のものは外港防波堤・内港防波堤・吉田町南防波堤・一文字防波堤・和気防波堤・垣生外防波堤等であり、被覆外のものと合わせて三四三万八五〇〇㎡となっている。また小型船泊地は和気泊地・内港第一~四泊地・由良泊地・泊泊地等で、泊地面積は四九万二五八〇㎡である。二五年当時に比較して現在の方が大型船泊地面積が狭いように示されているが、これは泊地面積の算定方法が異なっているためであり、小型船泊地面積の増加を見ても明らかなように施設の整備は大幅に進んでいる。
 二五年当時のけい留施設は高浜北桟橋・同南桟橋・三津桟橋・丸善桟橋・日石仮桟橋があり、それらの総延長は四五二mである。これに対し現在は大型船けい留施設(水深四m以上)が岸壁、桟橋、ドルフィンを合計すると総延長は五〇五三mで六八バースにも達し、また小型船けい留施設(水深四m以下)も物揚場・船揚場、桟橋、ドルフィンを合計すると総延長五五五五mにも達している。


 保管施設

 二五年当時の大型・小型船ふ頭地内の上屋及び倉庫は六八棟一万四二八八㎡であったが、五七年には四二棟二万八四〇六㎡となっており、床面積はほぼ二倍に拡大されている。二五年には当時のエネルギー事情を反映して貯炭場が一五一三㎡存在した。貯木場は水上・陸上合わせて五万八三七七㎡であったものが、一四万九〇〇〇㎡に、野積場は八九八〇㎡であったものが一四万九七三六㎡にそれぞれ大幅に増大している(表2-45)。

図2-37 明治42年の松山港

図2-37 明治42年の松山港


表2-44 松山港関係年表(1)

表2-44 松山港関係年表(1)


表2-44 松山港関係年表(2)

表2-44 松山港関係年表(2)


表2-44 松山港関係年表(3)

表2-44 松山港関係年表(3)


図2-38 松山港計画図(昭和28年)

図2-38 松山港計画図(昭和28年)


表2-45 松山港の港湾施設 1

表2-45 松山港の港湾施設 1


表2-45 松山港の港湾施設 2

表2-45 松山港の港湾施設 2


表2-45 松山港の港湾施設 3

表2-45 松山港の港湾施設 3


表2-45 松山港の港湾施設 4

表2-45 松山港の港湾施設 4