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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 航空


 沿革
    
 愛媛県の民間航空輸送事業は、大正一四年(一九二五)にわが国最初の航空輸送会社である日本航空輸送研究所により、大阪の堺大浜を基地として、水上機を使用し大阪-高松-松山(梅津寺)路線が運行されたことに始まる。この路線の定期輸送の開始は、昭和四年で、乗客四人と郵便物を乗せて三時間を要した。現在の愛媛県の空の玄関である松山空港は、昭和一八年一〇月吉田浜の地に旧海軍の手により、松山航空基地として建設された。二〇年八月、終戦と同時に連合軍によって接収され、二七年七月接収解除されたのを機に運輸省航空局は、愛媛県、県工業クラブ等の要望により三二年度から三か年計画で空港の整備を行ない第二種ローカル空港として発足をみた。


 路線と機種の移りかわり

 戦後初の路線は、三一年三月三一日に当時の極東航空(全日空の前身)によって大阪―松山線が開かれ、DHダブ機で一日一往復した。翌三二年一〇月には、DC-三となり、三七年にはフレンドシップで一日二往復となった。なお、三六年には大阪-松山線は大分・熊本にまで延長され、新たに松山-広島線が開設され、三七年には高松経由東京線の開設をみた。三八年には松山-高知線が、四一年には松山-福岡線が、四六年には松山-名古屋線が、四七年には岡山-松山-宮崎線が、五三年には松山-鹿児島線がそれぞれ開設された。乗降客の増加とスピード化により、四七年四月には二〇〇〇m滑走路が完成し、ローカル空港としては、宮崎・新熊本・新大分・函館・仙台・新鹿児島に次ぎ七番目にジェット機ボーイング七三七が就航した。翌四八年にはボーイング七二七も就航し、五八年六月にはボーイング七六七の就航が予定されている。
 五八年五月現在、全日空が松山-大阪線と松山-東京線に各々七往復、松山-名古屋線に一往復している。また、東亜国内航空が松山-福岡線に二往復、松山-宮崎線、松山-鹿児島線、松山-岡山線に各々一往復している。東亜国内航空の宮崎線・鹿児島線・岡山線・福岡線の一往復にYS-一一が就航している以外はすべてジェット化されている。なお、松山-広島線はピーク時の四〇年には六万人以上の利用者をみたが、水中翼船の発達で利用者が減り、四五年には八七〇〇人となり、翌四六年で休止した。また、松山-高知線も国道三二号線の全面改修にともなってバス便にとって代わられ、四二年に休止した。そして松山―大分・熊本線は、大分・熊本から大阪・東京への直行便となり、同じく四二年に休止した。最近では、四七年に開設をみた松山―岡山線は、利用客の減少により五六年一〇月に運休となったが、五八年四月に再開された。
 機種の変遷をみると、三一年三月にDHダブ機(八席)が初めて松山空港に就航して以来、DC-三型機(三〇席)、F-二七(フレンドシップ)機(四〇席)、コンベアー二四〇型機(四〇席)、国産YS-一一型機(六四席)と年を追って大型化されていった。そして、四七年四月には松山空港に初めてジェット旅客機ボーイング七三七型機(一二六席)が就航し、翌四八年には一回り大型のボーイング七二七型機(一七八席)の就航をみた。さらに、五八年六月には二三六席のボーイング七六七型機の就航が予定されている(表2-49)。現在松山空港は国の第四次空港整備五か年計画に組み入れられ、滑走路を二五〇〇mに延長し、ジャンボ機を就航さす計画がたてられている(写真2-21)。


 急増する利用客

 安くて、近くて、早い、という飛行機のもつ特性は、国民所得の向上、旅行慣習の広域化、高速性・快適性を求める国民のニーズと、さらに、国鉄運賃のたび重なる値上げによる運賃格差の縮小ないし逆転とによって、近年その利用者が急増してきた。三七年に一〇万人を突破して以来、四三年に三〇万人、五一年に一〇六万人となり、五六年には一六四万人に達した。五〇年までは大阪線が利用者の大半を占めていたが、五〇年以後は東京線の伸びが著しく現在ではともに六〇万人台でしのぎをけずっている(表2-50)。
 このような利用者の急増に対して現在は供給が間に合わない状態である。この打開策としては、便数を増すか機種の大型化が必要であるが、前者は羽田・伊丹両空港の容量の関係で不可能なので、現在の計画では、五八年六月の中型機ボーイング七六七型機(二三六席)の就航や、滑走路が二五〇〇mに延長された際のジャンボ機の就航が考えられている。

表2-49 松山空港のあゆみ(1)

表2-49 松山空港のあゆみ(1)


表2-49 松山空港のあゆみ(2)

表2-49 松山空港のあゆみ(2)


表2-50 松山空港・路線別乗降客数の推移(1月~12月)

表2-50 松山空港・路線別乗降客数の推移(1月~12月)