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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 鉄道


 伊予鉄道
      
 県内の鉄道事業は、明治二〇年(一八八七)に小林信近らを中心に資本金四万円で設立された伊予鉄道会社によって、翌年の二一年に松山~三津間(六km)が開通したことに始まる。これは軌道間二フィート六インチ(七六二mm)の我が国最初の軽便鉄道であり、民営鉄道としては南海電鉄に次いで日本で二番目の会社であった。この時の旅客運賃は松山~三津間下等三銭五厘で、一時間三〇分ごとに一日一〇往復の運転であった。珍しさと便利さから、開業の営業成績は好調で、同社ではさらに、三津~高浜間、松山~平井間の路線延長・新設を計画した。高浜延長については、これによって三津の繁栄が失われることをおそれた三津浜町民の間に反対運動がおこったが、明治二五年(一八九二)、高浜までの延長(三・四km)が実現した。資金不足などにより難航していた松山~平井間については、翌二六年に開通した。しかし、この線は、高浜線に比して営業成績が良好でなかったため、平井から横河原までさらに延長することによって、業績の好転が図られ、明治三二年(一八九九)に松山~横河原間(一三・二km)が全通した。また、松山~森松間(四・四㎞)については、最初沿線有志によって計画されていたが、伊予鉄道が計画を引き継ぎ、明治二九年(一八九六)に開通した。
 伊予鉄道の予想以上に好調な営業成績は、この地方の人々の鉄道敷設への意欲をそそった。そして、明治二六年に道後鉄道が設立され、二八年から一番町~道後~三津口間の運転が始まった。また、明治二七年(一八九四)に設立された南予鉄道によって松山-郡中間(一一・三㎞)は同二九年に開通した。これらの鉄道会社はもの珍しさも手伝って開業後の営業成績は好調であった。しかし、伊予鉄道・道後鉄道・南予鉄道三社間には、経営の合理化・利用者への便宜を考慮して、まもなく合同の機運がおこり、明治三三年(一九〇〇)、三社は合併して伊予鉄道と称することとなった。
 開業以来順調な発展を続けてきた鉄道事業は、明治四〇年代に入って電化の時代を迎えた。伊予鉄道では、四四年、一番町~道後~古町間を三フィート六インチ(一〇六七mm)の軌間に改良し、電化を完成し、続いて、松山電気軌道も同年には電車の運転を開始した。この松山電気軌道は、さきの伊予鉄道線高浜延長問題に端を発して設立された会社である。鉄道開通により高浜港の重要性が高まり、大規模な港湾施設の改修が行なわれた。そして、新装になった高浜港は、明治三九年、開港式を挙行した。これによって、従来三津港に寄港していた大阪商船会社の定期船は、以後すべて高浜港に寄港することになる。県都松山の玄関口としての将来の繁栄に不安を抱いた三津浜町の有志は、県政界の政友会有力者と結び、松山~三津間に新鋭の電車による、伊予鉄道との併行線の敷設を計画した。この計画は、明治四〇年(一九〇七)、先述の松山電気軌道の設立となって実現した。資金難などにより敷設工事は難航したが、明治四五年に至ってようやく全線が開通し、伊予鉄道・松山電気軌道の二社は激しい競争を展開した。この争いは運賃の高率割引となって、両社ともに経営を圧迫したため、何度か合併のための交渉が行なわれ、大正一〇年(一九二一)、ようやく合併が実現し、一五年間に及んだこの競争にも終止符がうたれることとなった。
 この後、伊予鉄道では松山電気軌道との合併に伴う路線の整理を進め、松山市内においてはほぼ現在の環状線(四系統合計九・七km)が完成した。また、各線のうち最も乗客数の多かった高浜線については、国鉄予讃線が三津浜経由で開通することへの対抗措置としての必要もあって、大正以来車両、線路の改良が計画されていたが、昭和六年に至り電化・複線化が完成し、「坊っちゃん列車」にかわって、時速五五㎞の最新のボギー電車による運転が始まった。これと同時に郡中線を除く各線は軌間三フィート六インチに拡張され、輸送能力の向上が図られた。郡中線は、昭和一二年に三フィート六インチへの改良が実施された。
 当初鉄道会社として出発した伊予鉄道は、大正五年(一九一六)、伊予水力電気と合併して伊予鉄道電気と称し、昭和三年には県下の電気事業をほぼ統一していた。そして、営業収入も昭和七年には電気収入が鉄道収入の九倍を超える額にのぼり、同社における電気部門は中心的な存在になってきていた。しかし、戦時体制下における電力国家管理の方針のもとで電気部門の経営は、伊予鉄電気から切り離されることになり、昭和一七年、伊予鉄道として再出発し、運輸業の経営に専念することとなった。
 戦後は二五年に郡中線が電化され、二九年には横河原・森松両線のディーゼル化がなされ、明治二一年以来〝坊っちゃん列車〟の愛称で親しまれていた蒸気機関車は姿を消した。なお、森松線は四○年一一月末で廃線となった。これは、バス輸送にとって代わられたこと、路線距離が短く石井・森松の二駅しかなかったこと、沿線の住宅開発が十分進まなかったことなどの理由によった。一方、横河原線も森松線に似た乗客の落ち込みがみられ、一時は平井以遠の廃止案も出された。しかし逆に、電化(市駅-平井間は四二年六月、平井~横河原間は同年一〇月)や同社系列他による沿線の住宅団地開発、相次ぐ新駅設置(福音寺・北久米・鷹ノ子・牛渕団地前・愛大病院前など)により乗客確保をはかり、五六年八月には高浜線との直結により、一五分毎の運転になり乗客の便をはかっている(表2-42)。
 四五年から五五年までの一一年間にわたる、各路線別の年間乗車人員の推移をみると、市内線・高浜線・郡中線の乗車人員の減少と横河原線の急増が指摘できる。減少の著しかった三路線とも定期客の減少が顕著であった。これはマイカーの普及によるもので、通勤手段としての電車の役割低下といえる。とはいえ、横河原線だけは急激な増加をみたが、これは沿線の久米・小野・重信などでの住宅団地開発による需要者の増大によった。しかしながら、横河原線の増加も五〇年をピークに頭打ちの傾向にある(図2-36)。


 国鉄

 県下に私鉄の営業が相次ぎ、しかもそれらが好成績をおさめる中で、県内への国有鉄道の敷設は大幅におくれた。国鉄の敷設が進まなかった理由としては、次のような点が考えられる。まず第一に、県内の地形は複雑で、山地が約四分の三を占めている。このような山がちの地形は、鉄道敷設工事に際して多大の困難を伴うことになった。第二に、全国でも四番目に長い海岸線を持つ沿岸地方では、明治時代から比較的よく海運が発達していたことである。前述のような地形的な条件から、人々の生活舞台は、狭小な海岸平野や山間の小盆地に孤立しがちであったが、不自由な相互の交通・連絡のためには、海上輸送が早くから利用されていた。第三には、明治から大正期の国家体制の中で、四国は国土防衛の見地よりみて、さほど重要地域と考えられていなかったことである。鉄道が軍事上きわめて重要視されていた当時にあって、このことも県下への鉄道敷設をおくらせることとなった要因の一つであろう。
 明治四四年(一九一一)、多度津~松山間の鉄道敷設に関する建議案が帝国議会で可決され、鉄道院多度津建設事務所の手によって、多度津以西への工事が始められた。その結果、川之江まで開業したのは大正五年(一九一六)である。川之江~西条間は、建設上西条線と称して着工され、大正一〇年(一九二一)に西条まで開通した。ついで、西条~松山間が岡山建設事務所によって松山線として進められ、昭和二年に至ってようやく県都松山までの開業が実現した(表2-43)。当時、県庁所在都市で国鉄の通じていなかったのは、沖縄を除けば松山のみであったといわれる。この北四国海岸線は従来讃予線と称されていたが、昭和五年に予讃線と改称された。
 以後も予讃線は西に延長されてゆき、昭和一〇年、愛媛鉄道を買収改良した部分も加えて大洲に到達した。これと同時に旧愛媛鉄道の五郎~内子間は内子線と称されることになった。大洲以遠の路線については、大正後半期から昭和初期にかけて、一〇三号線(大洲~八幡浜~宮野下)・一〇四号線(大洲~近永)の意見が対立し、当時の政党間の対立ともからんで、政治家や関係者の間に論議をまきおこした。最終的には、昭和八年に至って一〇三号線をとることが決定され、一四年、予讃線は八幡浜まで延長された。また、一六年、宇和島~卯之町間が開通し、宇和島鉄道の買収線(宇和島~吉野生)と合わせて宇和島線と称した。残された八幡浜~卯之町間については、一七年から工事が始められたが、太平洋戦争下にあって工事は進展せず、二〇年六月に至って、国土防衛上の必要から、地元の勤労奉仕隊員約五万人が動員されて急きょ開通した。ここに予讃線は全通したが、県の東端川之江に列車が入ってから、約三〇年の歳月を要してようやく宇和島まで到達したことになる。

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(1)

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(1)


表2-42 伊予鉄道の発達史年表(2)

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(2)


表2-42 伊予鉄道の発達史年表(3)

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(3)


表2-42 伊予鉄道の発達史年表(4)

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(4)


表2-42 伊予鉄道の発達史年表(5)

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(5)


表2-42 伊予鉄道の発達史年表(6)

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(6)


表2-42 伊予鉄道の発達史年表(7)

表2-42 伊予鉄道の発達史年表(7)


図2-36 伊予鉄道(株)の路線別(電車)輸送人員の推移

図2-36 伊予鉄道(株)の路線別(電車)輸送人員の推移


表2-43 国鉄予讃線開通状況(県内分のみ)

表2-43 国鉄予讃線開通状況(県内分のみ)