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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 松山市周辺の住宅地化


 郊外に広がる住宅地

 四国で初めての四〇万都市に成長した松山市は、人口増加にともなう住宅建設も、公私営の団地開発や個人の住宅建設によって飛躍的な伸びをみせてきた。松山市の五四年度の全建築物の着工件数は六一八四件で、これを用途別にみると、六九%が住宅関係で、三一%が店舗・事務所などの非住宅建築物となっている。五六年度には住宅関係の割合は約八六%にも達している。また、五四年度の新築住宅四二六九件についてその分布をみると、久枝校区の三三八件をトップに、味生校区が三〇〇件以上でこれに続いている。二〇〇から二九九件の校区は雄郡・椿・石井・久米・桑原などの都市近郊地域となっている。さらに、たちばな・余土・生石・宮前・和気・堀江・小野といった市域の外縁をなす校区でも一〇〇から一九九件の新築住宅がみられ、住宅開発が郊外に広がる傾向が著しい。
 国道バイパスの整備をはじめとする道路整備や郊外電車・バス路線などの整備にともない、松山市の住宅開発は単に松山市域にとどまらず、周辺の砥部町・松前町・重信町・川内町・北条市・伊予市にも拡大している。これらの市町における一万㎡以上の住宅団地の開発についてみてみよう。


 砥部町の住宅開発

 砥部町に本格的な住宅団地の開発をみたのは、昭和四〇年に県住宅供給公社が、重信橋のすぐ南側の重信川沿いに建て売り分譲した八瀬団地である(五二年八月現在一一五戸、四二五人居住)。同時に、八瀬団地の東に隣接して、県営砥部団地(賃貸、五二年八月現在四五一戸、一五一二人居住)が誘致された。その結果、三六年以来減少の一途であった砥部町の人口は増加に転じ、さらに、西六年以後の一連の宅地開発業者による住宅地の造成や、建て売り分譲住宅の完成は人口増加に拍車をかけた。五〇年には一万三六七四人、五五年には一万六四五八人となり、五〇年から五五年の間の増加率は二〇・四%で県下最大の増加率を示した。
 砥部町の住宅開発の状況は図2-13と表2-2に示した。これによると、四六年ころまでは一万㎡以上の開発は、松山市に隣接した麻生地区の原町(①・②・③・④)にすべて集中していた。その後、四七年から四八年には砥部川沿いに宮内(⑥・⑨・⑩・⑪)、川井(⑦・⑧)から、旧砥部町の北川毛(⑫)、大谷(⑬)にまで達した。この間約六kmの南進であり、⑥(山並ハイツ)以南は、都市計画区域の市街化区域を越えての宅地化である。こうした比較的面積の大きい開発と並行して一○戸ないし三〇戸の中・小規模の宅地開発もみられた。
 砥部町に住宅団地が多数形成された要因は次の四点である。(一)人口が急増する松山市に隣接した位置的な優位性、(二)地価が比較的安かったという経済的要因、(三)新都市計画法による市街化区域、ならびに農業振興地域内の白地地区が広かったという法的要因、(四)砥部町が住宅団地誘致を積極的にすすめることによって、人口増加をはかり、それをテコに町勢の伸長をはかろうとした政策的要因などである。県営砥部団地・南ヶ丘団地・山並団地・向南台団地・天神団地などの大規模団地の多くは、町の誘致によって形成された住宅団地である。


 住宅開発の効果と問題点

 四四年以後の宅地・住宅開発業者による宅地造成は五一万七五〇〇㎡にもおよんだ。それにより、五二年八月現在、八八七戸、三〇四五人の人口増加をみるにいたった。これらを刺激剤として砥部町の人口は、五五年の国勢調査では一万六四五八人に達し、近い将来に二万人の町づくりが実現しようとしている。こうした住宅誘致策の効果として期待されている点をあげると、(一)消費人口が増え、商業を中心に町に活気がみなぎる。(二)住民税の増収が期待され、行政活動が活発化する。
(三)学校教育において、都市部からの児童・生徒の転入により資質の向上につながる。(四)農村的社会に都市的感覚が導入せられ、社会が活発化する。(五)上水道の消費が伸び、採算効率が上がる。(六)宅地開発業者に公共事業の負担を義務づけたため、町当局の公共投資が少なくてすむ。(七)新たに医療機関やサービス業が進出し、住民の福祉・サービスの向上につながる。(八)バスの運行回数の増加や運行時間の延長がなされ、生活が便利となる。(九)新たなコミュニティ活動が生まれる。(十)在来の産業が刺激を受ける等々である。
 一方、受け入れ側の砥部町および地域社会は、より数多くの問題点をかかえこむことが予想される。それは、(一)消費人口の増加による地元商業の活発化はまだまだ不十分である。松山商圏の廉売競争にたちうちできず、むしろ消費者の流出要因ともなっている。(二)行政の活発化は、むしろ新しい住民となった人々の苦情の持ち込みとなってあらわれ、行政本来から逸脱した雑務の増加が目立っている。(三)教育効果も都市部の児童・生徒の悪影響も考えると、決してよい面のみとはなりかねない。しかも、それ自身では経済的価値を生み出さない教育施設や図書館・公民館なども建設しなければならない。(四)新興団地内の公共事業は開発業者に義務づけたが、今後の維持・管理は町当局があたるため、やがては公共事業の増大へとつながる。(五)バスの便数は増したが、マイカーの増加が交通渋滞に拍車をかけ、かえって通勤時間の延長となり、便利性が失なわれつつある。(六)都市生活者の新たな転入は、農村生活者以上に大量かつ異質のゴミ発生をもたらす。(七)ずっと将来の問題とはいえ、新たな住民となった人達の墓地の確保も重要な課題である。(八)やがては上水道不足が予想される。(九)新・旧住民の意識のズレをいかにうめ合わせるか等々である。


 松前町の団地開発

 重信川をはさんで松山市の南西部に隣接する松前町は、北部の岡田地区を中心に人口の増加が著しい。五〇年から五五年の六年間の建築確認件数は一五九五件で、年平均二六六件であった。本町の住宅開発の特色は、一万㎡以上の団地開発は過去一〇年間ではわずかに二件と少ない。これは地価が高いため三〇〇〇㎡以上の開発が困難であったことによる。一方、公務員住宅(恵久美一九六戸)や電電社宅(北黒田一二○戸)・警察官舎(西古泉二四戸)に代表されるように、官公庁の宿舎の誘致が積極的になされたのも本町の住宅開発の特色の一つである。


 重信町の団地開発

 重信町の住宅団地の開発は、町内を走る伊予鉄道横河原線の隆盛に大きな影響をおよぼした。すなわち、四二年に全線電化が完成した横河原線は、沿線に大規模な団地開発を行なうことにより利用者の増加を計ったのである。しかも、同じ系列の伊予鉄不動産が主役をなした点は大都市の開発に似ている。四五年に新設された牛淵団地前駅周辺には、その年の前後に播磨台団地(伊予鉄不動産、一一九戸)・県営牛淵団地(現在五四八戸)・北野台団地(松山電気ビル、五〇戸)・大栄住宅(六〇戸)・信栄牛淵団地(三五戸)などが着工された。また、四二年に新設された田窪駅北部には田窪外分団地(県住宅供給公社、一三〇戸)・力石団地(伊予鉄不動産、三〇戸)・志津川団地(伊予鉄不動産、一四五戸)・富士団地(二九戸)・富屋団地(三四戸)・重信ファミリータウン(三〇戸)などが四五年から四八年にかけて着工した。こうした新興団地の開発によって、牛淵と田窪地区は、終着駅として川内町や樋口・志津川地区を後背地として発達した横河原や、県立東温高校・同第一養護学校・町役場・町中央公民館などの公共施設の集まる見奈良駅周辺とならんで重信町の中心地の一つに発展している。


 川内町の団地開発

 川内町は松山市からの距離が一五kmを超すことと、バス路線しかもたなかったために、松山平野に  おいては住宅団地の開発が最も遅れた。しかし、おりからの宅地開発ブームや地価の安さから四八年ころから徐々に開発が始まった。川内ニュータウン(六八戸)や第二フジハイツ(五〇戸)・山田団地(四二戸)などがその例である。その後は小規模な開発が数件みられた程度であったが、五五年に伊予鉄不動産と熊谷組が一六万㎡におよぶ川内グリーンタウン(三七〇区画)を開発し、バス路線をも延長して現在分譲中である。これは、業者による開発としては北条市の光洋台に次ぐ大規模なものである。


 北条市の団地開発

 北条市において、松山市のベッドタウンとしての住宅地化が始まったのは四七年ころからである。四六年の住宅の建築確認申請件数が一四〇件であったのが、四七年には二六一件に増え五〇年には三一一件に達し、五五年にはやや下って二二九件であった。なかでも最大規模のものは、四七年に着工し、五〇年に造成完工をみた西部開発による光洋台団地の開発である。これは、松山市との境の山麓一帯、約二〇万㎡に四〇〇戸の団地開発をみたもので、入居者の大半が松山市からの転入者で占められた(写真2-3)。この他、一万㎡以上の開発は四九年以降三件みられる。グリーンハイツ(七〇戸)・椿団地(七〇戸)・一番地団地(七〇戸)がそれで、いずれも斎灘に面した沿岸地帯で、しかも国道一九六号線沿いが開発されている。なお、四二年からの県営鹿峰団地(一四二戸)や、四九年からの県営中須賀団地(二六〇戸)の建設もみられるが、光洋台を除いて小規模な団地開発または個人による住宅建築が中心をなす点は、松前町や伊予市の場合に似ている。


 伊予市の住宅開発

 古くは市営住宅として昭和二〇年代に建設された増福住宅(六四戸)や三〇年代に建設された白水住宅(四三戸)・尾崎住宅(五二戸)、四〇年代の鹿島住宅(八〇戸)などがある。しかし、松山市のベッドタウンとしての住宅地化が始まったのは四九年ころからで、松山平野では最も遅れた。一万㎡以上の宅地開発は港南団地(九〇戸)・新川ドリームハイツ(四六戸)・緑ケ丘団地(一〇五戸)と県下最大級の鳥ノ木団地(六九二戸)である。
 鳥ノ木団地は二四〇戸の市営住宅と、四五二戸の県住宅供給公社の分譲住宅とからなり、四九年に着工し、五四年に完成をみたものである。国道五六号と予讃本線にはさまれた松前町との境の下吾川に位置し、住民の多くは松山市に勤務先を持つベッドタウンである(写真2-4)。

図2-13 砥部町の住宅団地の分布(昭和58年)

図2-13 砥部町の住宅団地の分布(昭和58年)


表2-2 砥部町の住宅団地開発(10,000㎡以上)

表2-2 砥部町の住宅団地開発(10,000㎡以上)