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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 奥道後の開発


 出湯の里・湯山七湯

 道後温泉町の北東約四㎞、石手川に沿う湯山は〝湯山七湯〟の湯泉の村であった。奥道後温泉という名称は、昭和三〇年以後から一般に呼ばれるようになったもので、松山市湯山地区を中心にした俗称である。この地区を流れる石手川は一つの断層谷であって、その断層は東北から西南に走り、主断層に伴って多くの平行~斜交する断層が発達している(図2-11)。
 岩盤は含角閃石黒雲母花崗岩で、南北の多くの割目から微温の鉱泉水が湧出して石手川に落ちており、さらに石手川河岸の割目からはガスの噴出する状況も観察された。奥道後地区の鉱泉の大部分は「松山型」と呼ばれる花崗閃緑岩をつらぬくように見えるやや優白質の角閃黒雲母花崗岩「湯山型」から湧出している。これらの自噴鉱泉は、大正五年(一九一六)ころの調査によれば、総量が一分間約二五リットル、平均水温二七度Cであったという。鉱泉水の外観は無色無味で、僅かに硫化水素と相当量の炭酸ガスを含んでいると報告している。現在は図2-12のように、十数ケ所の泉源が開発された。
 湯ノ元温泉は、湯ノ山温泉ともいい末町にあって、道後温泉より東北約四㎞・石手川岸より約一〇〇m北方にある。現鉱泉源より約五m離れて直径約〇・七m程度の井戸があって、ガスの発生を伴った特有の臭気をもつ地下水が湧出し、これを汲んで浴用にした。大正一二年(一九二三)林松蔵が手掘で現在の湯ノ元温泉の基礎を築いた。昭和一七年水口義誉は古茂田清之と共に初めて、ボーリングによって湯ノ山温泉を開発した。当時、孔底温度三八度C、鉱泉水温三二度C、掘進深度約一九七mの記録がある。大正一二年(一九二三)ころから、林松蔵は湯ノ元温泉を経営してきたが、昭和一八年松山郵政局の寮にかわり、昭和四一年からは、松山電気通信局保養所拓泉荘として利用している。湧出鉱泉水は加温の上、浴用として利用し、一般には湯ノ元温泉の名で呼ばれている。この鉱泉は旧里正・三好家の古文書によれば嘉永六年(一八五三)すでに温泉が湧出し、里人が自然湧水を汲んで浴用に使用していた。
 湯ノ元温泉は昭和二五年古茂田清一・水口義誉が技術指導者となり、ボーリングを起工し翌二六年八月七日まで工事をすすめた。直接岩壁の花崗岩盤より掘進し五五mの深度で少量の鉱泉水が自噴した。竣工深度一八八m、当時の温泉三〇度C、湧出量一分間約一八二〇リットルであった。源泉開発後は暫く鉱泉水は石手川に放流していた。
 昭和三四年県知事を会長・市長を副会長として、松山市を中心とする名士三〇名を役員とした奥道後観光開発促進協力会が誕生した。奥道後開発にのりだした来島ドック社長坪内寿夫は、さらにボーリングをすすめて源泉を開発し増湯につとめた。同三七年から松山市外側の旅館・料亭・寮・銭湯の他、道後の郵政保養所鷺泉荘・柑翠苑、個人宅など五〇余か所に配湯して泉都松山の面目を充実した。奥道後温泉は泉質がラドン及び弗素を含むアルカリ性単純泉四〇度Cで、奥道後・玉川県立自然公園の一部である。同三九年石手川の渓流、湧ケ淵の自然地形を活用し、一七〇万㎡の造成地を利用して観光ホテル・ジャングル風呂・映画館・遊園地など一大レジャーランドを開発した(写真2-1)。
 末鉱泉は昭和二七年ボーリングによって開発した源泉である。露頭花崗岩の岩盤の小亀裂より僅かに自噴していたものである。沖積層がなく、直に岩盤中に掘進し深度二一二mで泉温三二度C、一分間に約二五〇リットルの鉱泉水の自噴をみた。末町の会社の寮・保養所団地一〇余か所に配湯し加温の上、浴用に使用している。


 石手川の水資源開発

 湯山は四国の水力発電発祥の地である。石手川の水は灌漑用水のほか、豊富で良質な伏流水は松山市民の飲料水として活用されたが、その水はエネルギーとして発電にも利用した。明治三六年(一九〇三)伊予鉄道株式会社の創立者小林信近は、ドイツのホイット社製、横軸短流短輪フランシス型水車を購入した。三津浜港から七頭だての牛車で湯山に運び、認可最大出力二六〇kwの湯山第一発電所が完成した。契約電灯数二三二八灯が五月に三〇〇〇、九月には五〇〇〇と契約はふえ需要が増大した。明治四四年(一九一一)には第二発電所五三七kw、大正一二年(一九二三)に第三発電所五〇〇kwが順次、石手川流域に建設され、合計一二九七kwの発電を行ない松山市及び周辺地域に電力を供給した。
 戦後、電力需要の増大と共に、設備の老朽化による発電能力の低下を改善するため、昭和三二年に三つの発電所を統合した。藤野々から取水路五五八〇mをトンネルで導水し、湧ヶ淵の右岸に落差一七一mによって出力三四〇〇kwの水路式の新湯山発電所を完成した(写真2-2)。
 重信川との合流点より一四㎞上流の宿野町(左岸)湯山柳(右岸)に、松山市の水瓶ともいうべき石手川ダムが完成した。昭和四三年に起工して四八年に完成した重力式コンクリートダムである。堤高八七m、堤長二七七・七m、堤体積四二・三万m3である。
 石手川の洪水調節・上水道・灌漑の三つの目的をもった多目的ダムで、計画洪水量毎秒五五〇m3のうち、毎秒二五〇m3をダムで調節し、石手川北部地区五五〇haのみかん灌漑用水に年間一七五万m3を給水する。さらに松山市上水道用水として、日平均七万一〇〇〇m3を市之井手浄水場で浄化給水している。

図2-11 奥道後の開発地域

図2-11 奥道後の開発地域


図2-12 奥道後の泉源分布

図2-12 奥道後の泉源分布