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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 道後温泉町旅館・ホテルの発達

 温泉の開発と経営

 道後温泉の創開は大国主・少名彦二神の創開神話や白鷺の示範伝説に富み、「熟田津」の石湯また「伊予の湯桁」の名は、古事記・日本書記・伊予風土記・万葉集などの古典に見られ、聖徳太子や斉明天皇来浴の事が伝えられている。
 孝徳天皇の天平勝宝元年(七四九)僧行基が伊予巡錫の折、温泉を修理して浴地をつくり神井を穿ち湯釜をもうけてその上に玉形の蓋を作ったと伝えている。殊に伊予の豪族越智氏は、早くから「湯泉館」を設けて道後温泉を支配した。
 さらに、河野氏は伊予国の守護に任ぜられ、建武年間(一三三四~一三三七)本城を伊佐爾波岡に移し、湯築城を築いて以来本格的な温泉経営に着手した。文永一二年(一二七五)には、一遍上人に命じて湯釜に「南無阿弥陀佛」の名号を書かせた。永禄五年(一五六二)湯築城主河野通直は新たに浴室を経営し、毎月五日・一〇日・一五日・二〇日・二五日・晦日は一般の入浴を禁じ、石手寺一山の僧族を入浴させた。石手寺は創建以来歴代天皇の勅宣を受けて深く崇敬され、河野氏も尊信し密接な関係があったから、多数の荒法師の入浴は住民の温泉利用を制約した。そこで、両者の調整のため、制札を温泉の前に立て温泉経営を石手寺末寺の明王院に委嘱した。湯築城下と石手寺の間に市場が開設され、城下は温泉郷としてにぎわった。現在も今市・上市という地名が残っている。
 天正一三年(一五八五)河野氏が滅亡すると、湯築城を中心とした道後の繁栄も衰微した。慶長七年(一六〇二)加藤嘉明の松山築城後は加藤氏の監督に帰した。道後温泉の浴室を男女に分ち、今日の形態をとるようになったのは松山藩主松平定行の寛永一五年(一六三八)で、領主による積極的温泉経営がはじまり、道後温泉の基礎が成立した。
 かように、温泉収入に目をつけた松山藩は温泉場の修理改善をするとともに、温泉場の管理も江戸時代後半には、歓楽街である温泉場を武士が取締るのは不都合が多かったので、鍵屋であった明王院を温泉の鍵預りに命じ、正式に藩の機関として温泉経営のみならず、温泉街の取締りも行なわせるようにした。


 湯治宿と十軒茶屋

 明王院は藩の機関として温泉役場の性格をもち、明和四年(一七六七)湯文を配布したのみならず、「湯治人手引之事」「湯に浴様之事」などを制定して浴客に配布した。湯治を欲するものには、一週間に湯銭三分を鍵屋明王院に納付させて湯治者の宿を周施した。明王院指定の「湯元六軒」という旅館組合がもうけられ、遠来の湯治客には必ず「宿証文」を提出させて宿の割当をした。浴客が多く六軒に収容できない場合には他の宿を世話した。宿証文を提出しない浴客は、抜湯治といって旅舎においても待遇せぬことに定めていた。
 四国遍路や通り掛りの者は、三日間を限って止宿湯治が許された。他国からの湯治客も相当数あって、湯銭は藩財政にとって無視できない財源となった。旅人を大事にすべきことを地元住民に求め、住民も道後湯ノ町が湯治場として栄えるにつれ、湯治客に依存して生活を営むようになる。温泉の建物などの修繕改築の場合は、その費用を湯場入用として湯治宿に賦課した。
 湯治宿は宝暦四年(一七五四)本通りに二五軒並んでいる。宝暦年間の道後温泉図には、湯ノ町家湯治人宿左側一六軒右側一八軒合計三四軒が記載され、明和頃(一七六四~一七七一)客宿株七二軒があって明王院が支配していた。文化六年(一八〇九)には湯治宿が五三軒あった(図2-7)。
 天保一二年(一八四一)道後湯ノ町に十軒茶屋(若竹屋・今津屋・増田屋・玉屋・若松屋・木下屋・津田・松尾・橘屋・讃岐屋)遊廓が組織されたが、後に風儀を紊るという理由で営業が差し止められ道後湯ノ町は灯の消えたような淋しさになった。町民の請願で安政三年(一八五六)代官三浦庄左衛門の働きで再興された。茶屋(遊廓)は温泉付近に散在していたが、一遍上人の誕生した寺である宝厳寺の門前町、松ヶ枝町に移転したのは明治七年(一八七四)である。南北に各々一二軒建って後に増して二五軒になった。江戸末期安政元年(一八五四)の道後湯之町は戸数八〇余戸殆ど土着のもので半農半商であった。安政六年(一八五九)から明治三年(一八七〇)の道後湯之町の職業構成は表2-1のとおりである。


 明治以後の道後温泉の変容

 明治維新以後、道後温泉が松山藩の所有であったためいちじ国有となった。温泉の経営も明王院の支配から、明治四年(一八七一)の廃藩置県と同時に道後湯之町戸長三浦元七他町有志によって組織した源泉社が、泉源地の貸付を受け温泉経営に当たった。日本鉱泉誌同一八年(一八八五)には、入浴客三万人以上の有力温泉地二三の中に道後温泉が含まれている。
 明治二二年(一八八九)温泉郡道後湯之町として町制を施行し、源泉社顧問伊佐庭如矢を町長に迎えると共に源泉社を解散して温泉の管理経営を町に移管した。伊佐庭町長は湯之町の将来を温泉場の発展にかけ、大々的改築計画を立て実行に移した。
 明治二四年(一八九一)養生湯を改築し、一人につき八厘の入浴料の徴収をした。街の西端に余流を引いて一浴室を新設し、町民の無料浴場「松湯」とした。またその余流に一室をもうけ、梅毒・癩病患者らの薬湯をもうけた。これらの資金は源泉社の剰余金二万五〇〇〇円を当てた。二五年(一八九二)の臨時町議会で、神ノ湯(一・二・三の湯)の全面改築を議決した。この議決に対し住民側の反対運動が起こった。当時はまだ、封建的で迷信的な人が多く、湯釜を取毀すと湯が出なくなるとか、神罰があたるといって強迫する連中もあって生命の危険さえあった。
 反対の実態は、町長及び有力旅館業者と一般町民及び小旅館業者の利害対立であった。有力旅館業者は温泉湯を改築整備して高級湯治客を吸引することが、道後温泉の唯一の生きる道であるとした。これに対し、一般町民は、町財の負担を浴銭の引上げに転稼されては困る。広島・山口・岡山・香川県下の島嶼部から来る客で、味噌・醤油・漬物その他一切の食糧品、炊事道具、中には行燈・ランプまで携帯して来た「味噌桶湯治」と呼ばれた下級湯治客を定客とする下級旅館も、浴銭引き上げによる打撃を受けるという不安からであった。
 しかし、伊佐庭町長は至誠と機略、巧みな説得力によって、工事は明治二五年(一八九二)起工式を挙行し、約二〇か月を費して同二七年(一八九四)落成式を挙行した。今の三層楼の本館がこれである。同年第一室の石槽を改築し、更に新湯の大改築を行ない〝霊の湯〟と改称し、これらすべてが完了したのは同三二年(一八九九)である。さらに、道後公園等の環境整備を施し、次第に温泉収入は町収入として一般財源に繰込まれ、町民の税負担を軽くし、税率は松山市よりも二~三割も低かった。こうして、温泉場の改修整備は町民の旧慣による温泉利用権を弱体化して町有財産化した。
 明治二八年(一八九五)一番町から道後に軽便鉄道が開通し、浴客の吸引に革命的役割を果たした。こうして、温泉本館の改築落成は、道後温泉を大きく転換させていく。すなわち、療養温泉地(湯治場)から保養温泉地・観光温泉地への発達段階をふみだすことになった。
 明治四二年(一九〇九)刊の『温泉郡誌』は、温泉集落の変容を次のように記している。

 『家屋は明治初年までは農業及び農商兼業のもの多く、従って家屋の如きは其産業に適する構造にして、藁屋・矮舎道路亦狭隘不潔唯数戸の宿屋業又は妓楼の如きは稍広濶なる構造なりしが、温泉浴客漸次其数を増し、温泉場の改築と共に旅舎の構造を改め、農業者は商業に転じ来りて今や純然たる商業地となり、従来の藁屋は二層三層の楼に転じ、道路亦改善を加え、車馬の通行に便するなど大に面目を改めたり。唯僅かに一部分なる極めて下層の町民の猶規屋を賃貸しあるは他町村と同じく免れざる処なるべし……(中略)。
 生業について、当町は温泉を囲続して人家櫛比し、専ら浴客を懇待するの以って業となせり。故に多くは旅宿充て傍ら雑種の商業を営み、中には湯に因める物産・温泉染手拭・温泉塩・湯晒艾・湯の玉・湯桁飴・温泉煎餅などを商へり』とある。

 湯之町本通りの十軒茶屋跡は、明治一〇年(一八七七)ころ一般宿屋・菓子屋・艾屋などに商売替えした。明治時代の宿屋では、高田屋・大八・鮒茂・三島屋・きしや・唐津屋・大政・新谷・河口屋・梅木屋などが有名で、旅館は同盟の上浴客の便利を計った。同四二年(一九〇九)の松山案内によると「鮒屋・茶屋・梅木・村兵・大和屋・濱庄・川吉・三浦・野本・白石屋・岩井屋・常盤旅館・島屋・門半など主な旅館はみな温泉場の付近に集中していた」。記憶のあたらしいところでも、本館そばには、八重垣・岩井屋・大和屋・道後ホテルなど、湯之町の中に入ると三浦屋・金竹・すし元・かど半・くしや・島屋・国中・寿美屋・桜屋・今治屋・小川・とらやなどの古い看板が並んでいた。〝かど半〟は漱石の「坊っちゃん」ゆかりの宿として観光客の目をひいたが、今はことごとく土産品屋に商売替えして、艾屋と手焼せんべい屋が辛じて古い道後の面影をとどめる。


 戦後の道後温泉とホテルの近代化

 戦前は内湯もなく、一流旅館はふなやの他は本湯の周囲に集中していたが、昭和三一年か  ら八四軒の内湯が完成し、一日当たり全汲上量二六〇〇トン中、一〇〇〇トンが八四軒の内湯旅館に配湯された(図2-8)。折柄の高度経済成長を背景として、本来の療養保養的機能や地域の特性を軽視し、大量観光を期待して広域観光ルートの単なる宿泊拠点・歓楽地へと変質してくる。
 戦前は鷺谷や高谷には旅館は少なく、眺望のよいのは大和屋別荘だけであった。現在は春日園・寿苑・青海楼・宝荘・川吉別荘・古湧園・奥村・龍松園・中村・大倉などが建ち並び、ホテルと名のつく建物は町の後方・東北に連なる山手の高台に集中する一方、平地の南町方面にも神泉園・富士旅館などの近代的旅館ができた(図2-9)。
 内湯完成後の道後温泉旅館の近代化について図2-10でみると、内湯完成前、昭和三一年段階で、組合員軒数六二軒から四三年八二軒、五一年八四軒と軒数は余り増加していない。それは三一年から四三年までに、廃業したり倒産したものが一一軒もあるからである。増加したのが三一軒、四三年から五一年の間では一一軒廃業して一三軒ふえ業界内での新陳代謝がすすんだ。
 規模的にも大型化が特に顕著に進行し、一軒当たり平均客室数も一一・四室から二九・八室、収容人員も三二・三人から一三〇・七人になり、道後温泉旅館の宿泊客収容能力は五一年一万九八〇人に達した。三〇〇人以上収容可能の大旅館一二軒が収容能力の四五・四%を占め寡占化傾向を示した。
 昭和四八年の石油危機以来の不景気は、道後旅館業界にももろに影響を与え、五一年から五七年までに一八軒が倒産または転廃業した。軒数では三〇年代に逆もどりしたが、軒数の減った割には客室・収容力共に減っていない。大型化の中で競合による転廃業と経済淘汰が進行した。廃業の要因は、商店街の整備とか車の駐車スペースの問題などでやめた人が大半で、あとは後継者難、一部倒産が原因である。単純に全体がすんなり近代化したというのではなく、大きく入れかわりながら進んできたわけである。外から大量に客を引っぱりこむという大動員の発想は、代理店を通して客を集めなければならず、結局マーケティングは人まかせになってしまう。外部依存となり企業経営は大型化しても、内部が空洞化して外部に何か変化があった時には企業が対応しにくくなった。鉄筋高層ビルが過密状態に林立した道後の周辺には自然環境が少なくなった。
 近年における社会構造の急激な変化に伴って、観光形態が団体中心から小グループ、家族連れへと細分化し、同時に観光指向性の多様化する中で、従来の温泉観光に対する魅力が次第にうすれた。反対に自然景観や郷土景観を対象とした観光・野外レクリエーション活動を観光客が主体的に求める傾向が強くなった。こうして、画一的歓楽的温泉観光地域形成への反省と、一方では、一般に自然環境に恵まれ、閑静な環境と人間的触れ合いの場としての療養・保養温泉地の意義が見直されて、その再検討再開発が強く望まれるようになる。