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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 松山市の都市構造

 市街地の拡充と発展

  松山の殷賑街大街道には、明治ころ川幅一間半(二・七m)ほどの大法院川が道路に沿って流れていた。この泥溝は千船町と湊町の間を流れて末広町で左折した。一方、石手川の水を引いた中ノ川は清流で、湊町一丁目あたりでは上中ノ川といい、川の両側は道路で民家が建ち並んでいた。河岸の柳が枝を垂れ風に靡いて風情を醸しだした。市駅近くで大法院川と合流し、福勝寺川となって土橋をすぎて郊外にでた。
 一番町の角から北は、西側にぽつぽつ商店があり、東側の横丁・鮒屋町(一番町一・二丁目)、南・中・北歩行町は住宅地で通りも狭く土地も閑静であった。一番町は官庁街、二番町は「花の屋」・「梅の家」という大料亭もあったが学校街であった。唐人町(三番町一・二丁目)は讃岐街道に続いており、通行人も多く商売も繁盛した。特に外側でも割に老舗の多い町であった。小唐人町(大街道)が新開地的なのに比べて保守的で落ちついた空気であった。北京町あたりは〝田縁町〟でこの通りを境に北側は殆ど水田で夏が来ると蛙の鳴声でさわがしかった。
 大街道一丁目の南は魚ノ棚と称し、八百屋・蒲鉾製造業・餅団子屋・天婦羅屋が軒を並べ、近郷近在の郷中の人々が町に出て飲食を楽しむ食品街を形成したが、大正初期より次第に姿を消し昭和初期には全く様相を一変した。
 松山城下で演劇の興行が許されたのは明治八年(一八七五)である。旧藩時代から城下町では芝居が禁じられていたため、立花の土手、六角堂の西その他城下外れの村落に小屋掛で興行していた。古町では、戦災まで開場していたのは明治二六年(一八九三)松前町に開場した朝日座(遊喜座)と、昭和六年萱町にオープンした第二大衆館の一劇場一映画館があったにすぎない。これに対し外側地域には、旧藩士白川親応が三番町に常設劇場の東栄座(寿座・国技座)を開場した。これに対抗して明治二二年(一八八九)大街道に新栄座が開かれた。松山で最初の活動写真(映画)を上映したのは、市駅の東側にあった大西座(末広座)で、同三三~三四年(一九〇〇~一九〇一)ころである。同四四-四五年(一九一一-一九一二)ころ大街道二丁目に県下初の常設映画館の世界館(有楽座)がオープンし、さらに魚ノ棚に松栄館、市駅前に松山(勝山)館、柳井町に大正座が開館した。松山館は大正七年(一九一八)出火し、市駅に類焼して焼失したが、新栄座は同一五年(一九二六)に映画館に転じた。昭和四年松山活動写真会社が弁天町に第一大衆館をオープンした。
 かように、松山の娯楽機関は大街道と市駅付近に集中立地し、昭和初期までに松山の歓楽街区が外側を中心に一応形成された。特に、大街道は明治二八年(一八九五)道後鉄道(一番町-道後間)が開通し、同四四年(一九一一)伊予鉄道による電化と共に松山電気軌道が道後・一番町・三津江ノ口間の運転営業を開始するなど、一番町を拠点とする鉄道の開設という新交通体系の変革によって、交通の要衝と化した。大正八年(一九一九)大法院川が下水道布設工事によって埋立てられ、街路が拡張されてから商店化がすすんだ。昭和に入って買物街としての規模が整い、大街道と呼ばれる松山最大の繁華な高級商店街に発展した。
 湊町一丁目には、明治時代に伊予絣の製造が盛んになり、中ノ川の清い水と道路幅の広いことが立地要因となって、一七軒の業者が集中立地した。戦前の松山の工業地区は三地区に分散立地した。(一)市街の北西隅、古町三津口から国鉄松山駅周辺地区に倉紡・工業試験場・国鉄松山機関庫・農機具工場・四国ガスが立地し、(二)南東隅の立花駅を中心とする土佐街道口に中央染工場・綿織・機械工場。(三)小坂町一帯の讃岐街道口に松山工業会社・松山染織会社・製紙会社の工場が立地した。いずれも水と後背地の物資供給の便が主要立地要因となって、市街地末端の交通要地に分散的に工業地区を小規模ながら形成した。
 明治四四年(一九一一)に道後と一番町間が電化してから、道後と松山の往来は益々便利になり、大正五年(一九一六)松山中学が二番町から持田に移り、同八年(一九一九)松山高等学校が持田に開校したころから持田・南町方面の住宅地化が進展した。住宅が最も増えたのは持田・一万・六角堂・道後街道一帯である。図2-3の如く松山の市街地拡大の初象は、市電の沿線に沿って東部へ帯状に拡大していった。道後温泉への接近性が住宅地化の大きな誘引力となった。


 戦災による市街地の変貌

 昭和二〇年七月二六日の夜間空襲によって、松山は市街地の九割を焦土と化した。新生松山の復興は、城下町の町割の整備拡張からはじまった。戦災は市街の主要部分を徹底的に破壊し、その効果は都市活動の否定を意味するほどに作用した。それにともなって、都市構成の著しい変化を生じたにもかかわらず都市全体の位置は動かすことができず、位置につながる交通系統、各部分の性格を根本的に変えることは稀であった。地域構造的にみて、商業・住宅区は殆ど戦災前のそれを踏襲している。しかし、軍事的施設建物区の変貌は著しく、それにつれて、官公署学校を中心とする諸機能の地域的変化がみられた。
 焼残った県庁・市役所を都心核として外側(城南)地区の戦災復興はめざましく、堀ノ内・大手町方面にまで都心地区の一角が伸張している。図2-4は松山の都市朧能の地域区分図である。これにより松山の都心地区を公共業務(官公署)地区・業務地区さらに商業地区・文教地区に分けて考察すると、公共業務(官公署)地区は一番町・二番町・堀ノ内の一部できわめてよくまとまっている。業務地区は一・二・三番町から南堀端・大手町方面に展延してCBD(中心業務地区)を形成したのは戦前と異なる点である。
 中心商業地区はすっかり外側地区に移り、古町方面は萱町筋に木工家具店が軒を並べ、伝統的同業者町の面影をとどめるにすぎない。昭和二一年一番町に都心デパートとして大手の三越が開店し、湊町にアーケードができたのは同二八年である。飲食店街は大街道・湊町の横丁や裏町の北京町筋に間口半間(九〇cm)、一間半(二・七m)で集中している。


 都心部の土地利用

 県庁所在地としての地方行政機関と、県内管轄の商社および高等教育機関の集中は人口の増加をもたらし、人口増加と共に郊外に集団的な公営住宅団地の造成など、市街地隣接地帯の都市化がすすみ、都心部人口の空洞化にあわせドーナツ化は一層広域化してきた(図2-5)。
 都心部への諸機能の集中によって土地の高度利用が要請され、企業はより多くの取引の機会と情報を求めて、既集積の大きな地区へ集積をつづける。情報の高度化は直接的な人間相互の接触の必要度を高め、特定空間への立地需要を高めた。その結果、地価は上昇し、地代負担力の強い事業所の集積するところとなる。限られた土地の高度利用の手段として建物の高層化が進んだ。
 都市が機械化システム化されるにつれ、精巧かつ大規模で、重量のある諸設備を設置する堅牢な建物の必要が高まった。一番町の電電公社四国通信局の建物群が逸早く耐火構造化した高層ビル化したのも、通信という高度にシステム化された手段を円滑に運営するには、精密な機械を設置保管する堅牢かつ安全な建造物が必要だからである。
 中心業務地区(CBD)が接触の利益を求めて特定地区に集中し、これが同一機能地域を形成していく。松山のCBDが堀ノ内・南堀端に沿って松山駅前方向に西進する一方、一番町から勝山町へ東進化しており、日銀松山支店が三番町に開店したのは昭和七年で、金融経済地区の要となっている。
 都心地区には県外からの銀行や商社の支店をはじめ、市内各地に分散的だった業務機関が、高層化した同一ビル内に移転するといった求心化も顕著である。都心核部分の一番町四丁目は広さ約二万四〇〇〇㎡、県庁をはじめ松山地方検察庁・四国電気通信局・松山電報電話局・生命保険会社・県自治会館・各新聞社支局など官公庁・オフィスビルがひしめき、近くに市役所・裁判所・デパート・商店街が周りを取りまいている。昼間人口約三八五〇、それが夜間には一部官庁の夜勤を除くと一四人に激減する。通勤の潮汐現象の最も激しい区画である。林立する中高層ビル群は生活空間を労働空間に変革させてしまった。


 都心商業地区の変容

 松山の中央商店街は大街道(四八〇m)から湊町(六〇〇m)に至るL字型の通りで、その両極に都心デパートの「三越」とターミナルデパートの「いよてつそごう」が構えている。二つの中心街の裏通りや横路には、バー・キャバレー・割烹店・料亭などが並行して相当な集中をみるが、これが都心部と住宅地区の境界となっている。
 湊町は昭和二八年にアーケードが完成してから、〝銀天街横のデパート″として脚光をあびた。三五年一番町と大街道の交差点の角に伊予鉄会館が完成した。ネオンと共に回転する電光ニュース装置は、通行者の多い目貫通りだけに市民の関心を集め観光松山の新しい目玉となった。
 中心商店街に大きな異変を起こしたのは、昭和三九年大手スーパー「ダイエー大街道店」の開店でスーパー時代の幕明けとなった。四三年にはフジ湊町店(三〇八六㎡)とニチイ(二二一一㎡)・いづみ(四七六七㎡)とスーパーラッシュを出現した。四四年以降は多店舗化戦略に転換し、四五年ダイエー干舟ショッパーズプラザ、三越の増築、いよてつそごうの建設決定など大型店進出は異常を極めた。この大型店の商店街に与えた影響は大きく、業種転換、経営者の交代が相次いだ。
 三越(一万五一〇七㎡)といよてつそごう(一万三六八六㎡)の両極マグネットの、L字型線状商店街(図2-6)の通行量調査によると、L字接点が谷間となり衰退が著しい。そこで、五〇年にL字型接点地開発準備組合が発足したが、地権者が多く利害調整の困難なこと、資本、大型店規制問題がからんでキーテナントの誘致が困難なこと、さらに経済不況がからんで計画は進展していない。
 県都松山の中心商店街として、確固不動の地位を築いた大街道は、戦後の歩みの中で大型店の進出・増床、ターミナルデパートいよてつそごうの開店(四六年七月)以来、三越の相対的地位の低下と、湊町商店街への客流動異変、不況による消費者の買い控えなどの悪条件が重なり、ここ数年間の地盤沈下と街力の衰退は著しい。昭和五七年の地価公示価格は、湊町四丁目五番七号地が一㎡当たり一六三万円で四国一に対し、大街道一丁目四番四号地が一三〇万円と湊町にすっかりお株を奪われた。
 〝このままではじり貧になる〟という危機感のもとに、打解策がねられ、安全で快適な歩道、買物環境の整備などを目的に全蓋式アーケード建設にふみきり、五七年総工費一四億一〇〇〇万円を投入し、一・二丁目四八〇mが完成した。大街道商店街の振興と活性化に意気込んでいる。


 まつちかタウン・松山市駅前再開発

 松山市駅は郊外からの通勤通学者が集中する総合交通ターミナルで、駅前は朝夕大変混雑する危険な場所である。そこで、昭和四一年市駅前の再開発が計画され、駅舎にそごう百貨店を誘致して、駅ビル方式に改築し、駅前広場を整備し地下に商店街を建設しようとしたものである。
 位置と広さは、銀天街(湊町)入口から市駅まで東西約一二〇m、南北約三〇m、面積四五〇〇㎡である。地下街には幅六mの道路があり、両側には飲食店や名産店など三五店が並んでいる。同四四年着工し四六年にオープンした。総工費約七億円、正式には松山市駅前地下街kkという会社組織で、伊予鉄道・松山市・伊予銀行・愛媛相互銀行・銀天街振興組合など地元政財界の出資によっている。四国初の地下商店街で、飲食関係一八店・婦人雑貨四店・書籍・カメラ・化粧品・郷土名産・眼鏡・紳士服各一店、計三六店の内二八店が県内業者である。


 文教地区の形成
         
 住宅地の拡大と同じ形式を示すものに学校の離心的傾向がある。小・中・高等学校は、通学圏の関係から都市の全域に散在する。大学などは適地を求めてある程度の集団化をおこすようになる。学校は工場と同じく、広い敷地を必要とし、また住宅と同じような閑静なところが必要である。したがって、やはり離心的に多くは住宅地域に随伴する。戦後の松山で、都市機能地域の変二革現象が最も著しいのは、軍事的施設の文教的機能地区への変貌である。
 城北練兵場は丸亀にあった歩兵第一〇旅団司令部が、松山兵営内に移転した明治二一年(一八八八)に、温泉郡一万村の耕地六万八七〇〇坪(約二三ha)を練兵場に買収したものである。練兵場の西側には、同三四年(一九〇一)北予中学校が移転し、大正一二年(一九二三)には松山高等商業学校(松山商大)が創立した。戦後は昭和二三年ころまで、練兵場跡は不法入居者に占拠され、一面いも畑と掘立小屋が建っていた。
 戦災復興計画では、練兵場跡を利用した文教地区二八・二haを形成し、これに東雲小学校を配置した。昭和二二年学校教育法制定に伴う新制中学校の発足に対し、御幸・勝山の二中学校を文教地区に配置し、赤十字病院の用地と共に、愛媛大学および付属小・中学校・郵政研修所を誘致して、松山商科大学・松山北高等学校を含む一大文教地区の計画誘致をすすめた。新居浜市からの愛大工学部の城北キャンバスへの移転、文理学部の付属小・中学校との配置転換などがすすみ、現在は法文・教育・理学・工学の四学部と教養部とが集中している。こうして、城北地区は県下最大の一大学園地帯を形成し、愛媛の学術文化研究に一大貢献を果たしている。

図2-3 松山市の市街地の拡大過程(都市化)

図2-3 松山市の市街地の拡大過程(都市化)


図2-4 松山市の土地利用の地域区分

図2-4 松山市の土地利用の地域区分


図2-5 松山市の小学校の分布と児童数

図2-5 松山市の小学校の分布と児童数


図2-6 松山市のL字型中心商店街と地下街および再開発予定地(L字接点地区)

図2-6 松山市のL字型中心商店街と地下街および再開発予定地(L字接点地区)