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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 西条祭りと伊曽乃神社

 藩政期の伊曽乃神社の祭礼

 伊曽乃神社は加茂川左岸の台地上に鎮座する旧国幣中社で、藩政期には御城下町をはじめ二一か村(中野・洲之内・西田・安知生・古川・中西・福武・大町・神拝・喜多川・樋之口・新田・明屋敷・喜多浜・朔日市・明神木・永易・流田・荒川山・千町山・藤之石山)の氏神であった。
 伊曽乃神社の祭礼の起源は明らかでないが、宝暦年間(一七五一~六四)の文献にだんじりの記録があり、同じころ氷見の石岡神社の祭礼にもだんじりが登場している。天保年間(一八二〇~四四)の作製と推定される『西条祭絵巻』(伊曽乃神社所蔵)には、二四台のだんじり等の行列が極彩色で描かれている。また、天保一三年(一八四二)、西条藩の儒学者日野暖太郎和煦が編述した『西条誌』の中野村の項に、伊曽乃神社祭礼の台尻(だんじり)は一九台、神輿太鼓(みこし)は四台と記されている。
 藩政期の伊曽乃神社の祭礼は旧暦の九月一四・一五日に行われていた。宮出しをした神輿は一四日に常心のお旅所で一夜をすごし、一五目の朝西条御城下ヘ渡御した。お旅所ではこの両日、相撲・狂言等の興業が行われ、見せ物小屋や出店がに立ち並んだ。また、御城下町でも市が立って伊曽乃市とよばれ、馬市も開かれた。
 一五日には近在の村率御城下町から楽車等がお旅所に集まり、行列を整えて御城下へ渡った。この行列は華麗かつおごそかで、行列に加わる人の数も目をみはるものであった(表3―34)。行列が村を行く時は村役人、町の中を行く時は町役人が裃、帯刀の姿で供奉した。『伊曽乃神社志』には「神輿を昇く者四十人計り皆烏帽子、黄色なる装束なり、神輿付の役人、警固の武士、何れも綺羅を飾り威儀を正す」とあり、まことに豪華言幸麗な行列であったことがうかがわれる。
 行列が西条藩邸の御門前に到着すると、称宜が管弦を奏し、神楽や八乙女の舞いが上演された。さらに大宮司・小神司が祝言を誦み、幣帛を捧げて神事が終了する。御門前には浅黄綸子、紫縮緬、緋緞子の幕が張りめぐらされ、太守が祭礼行列やその神事を高覧した。
 このあと行列は玉津から明神木を経て加茂川の河原に至り、神輿が川を渡って宮入りする。行列に加わった楽車などは、御城下側の堤に整然と並んで神輿の宮入りを見送った。こうした祭礼の行事の中には現在は行われていないものもあるが、西条祭りは今日でも市民の最大の行事となっている。

 西条祭り

 現在の西条地方の秋祭りは、毎年一〇月中旬に行われ、中心となる神社によって三地区に区分されている。まず氷見の石岡神社の大祭が一四・一五日に行われ、一日遅れて伊曽乃神社の祭礼が一五・一六日に行われる。さらに一目遅れて飯積神社の大祭が一六・一七日に行われ、これらの祭礼を総称して西条祭りという。しかし、狭義には伊曽乃神社の祭礼をさして西条祭りという。昭和六〇年の西条祭りの人込み客は二五万人で、そのうち伊曽乃神社の祭礼に一五万人、石岡神社と飯積神社の祭礼に各五万人であった(西条市商工観光課調べ)。この三社の祭礼のほか、市内各地の神社仏閣でそれぞれの祭礼が催されており、禎瑞の嘉母神社の秋祭り(一〇月一〇日)は子供太鼓台のかき比べでにぎわう。
 西条祭りの主役となるだんじりは「楽車」の字があてられ、また屋台ともよばれる。楽車は唐破風の屋根に二階ないし三階の高欄があり、武者絵や花鳥・竜虎などの彫刻が施されている。楽車の内部では太鼓や鉦を打ち鳴らし、伊勢音頭の祭りばやしにのって市内を練り歩く。夜間には高欄に数十個の小丸提灯に灯がともり、幻想的な雰囲気をかもし出す。
 藩政期の楽車は、天明六年(一七八六)の『磯野歳番諸事日記』の「御渡行列式」に、中野村・福武村などの一三台が記録されており、天保年間には楽車一九台、御輿楽車は五台であった。天保期の楽車は、中野・福武・北の町・川原町・永易・常心・喜多川・神拝・北町・横黒・栄町・魚屋町・中之町・大師町・新地・東町・紺屋町・上横町の楽車と、本町の御供楽車の一九台であった。また御輿楽車は中西・朔日市・喜多浜・喜多川・新町の五台で、はかに船の形をした船楽車が一台あった。
 昭和五六年には楽車五八台、御輿楽車四台で、一神社の祭礼に参加する屋台としては全国で最も多いといわれる。集落の拡人とともに楽車を新調する地区が増え、旧武家屋敷の中心であった四軒町でも、六〇年秋に楽車を購人した。六一年の祭礼に参加した楽車は七三台、御輿楽車は四台であった。
 伊曽乃神社の祭礼は、。四目早朝の宮出しで始まる。午前二時すぎ、提灯で飾った楽車は町内を一周して伊曽乃神社に向かう。午前五時ころには三〇台余の楽車が境内に集まり、境内に入りきらない楽車と御輿楽車は、参道の大鳥居の下で練りをみせる。神社内で行われた神事が終わると御神輿の宮出しがあり、夜が明けるころには楽車もそれぞれの町内へ帰る。その後の楽車は自由行動で、花集めなどに回る。
 六時に宮出しした御神輿は、午前中に船形・釜之口・楠・かじ分・西田・東光・中西の各地区を巡行し、午後は古川・富士見町・喜多川住宅・神拝小学校・古屋敷・上神拝・上喜多川・加茂町・大町小学校・地蔵原・新田・西之川原を経て六時にお旅所に着く。
 一六日は統一行動で、楽車等の屋台は午前四時にお旅所に集まる。御神輿はお旅所を六時に出発し、西条駅前・朔日市・風伯神社を経て、九時半頃西条高校前(御殿前)に至る。このとき各楽車は、お旅所から登道・札ノ辻・風伯神社・魚屋町を経て西条高校前に集合し、大手門前言言麗な練りをみせる(写真3―1)。このあと楽車は土橋・北御門・かけ樋・新町吉原・札ノ辻・横黒・玉津・明神木・中町小川・大町四ッ辻を経て、午後四時ころに加茂川堤に至る。この間、玉津では渦井川の堤防に勢ぞろいし、玉津地区の楽車が玉津橋周辺で練りをみせる。
 一方、御神輿は西条高校前から松之巷・喜多浜・下喜多川・本町えびす神社・弁財大・横黒・市塚・永易・沢を経て加茂川堤に至る。御神輿が着くころには、神戸地区の楽車が河原に下りて待機し、他の楽車は堤防上に整列している。到着した御神輿の渡御行列は伊曽の橋(かつては一銭橋)を渡り、御神輿は加茂川の流れを渡って宮入りする。
 川入りは、元は御神輿の渡河を各楽車が整然と見送る行事であったが、現在は西条祭りのフィナーレを飾る最大の見せ場となっている。これは、御神輿が渡河しようとすると、名残を惜しむ神戸地区の楽車が御神輿の行く手をさえぎるように川の中で激しく練り合うもので、西条祭りのクライマックスともいえるものである。六一年の秋祭りは市制四五周年記念行事として、市内各地区の楽車等約一〇〇台が加茂川河原で統一かき比べを行い、史上最高の八万人の人出でにぎわった(写真3―34)。
 御神輿が川上りするころには夕日が沈みかけ、見送りをすませた楽車等はお旅所へおりて提灯をともし、各地区へ帰る。地元へ帰った楽車は小学校区ごとに集まって最後の練りをみせ、九時ころには全ての行事が終了する。

 石岡神社・飯積神社の祭礼

 石岡神社は古くから石岡八幡宮ともよばれ、その祭礼を氷見祭りという。宝暦七年(一七五七)に同神社の神官玉井和泉守忠宿が記した御用留帳に、屋台・笠鉾等の記録があることから、江戸時代中期には楽車等が出現していたものと考えられている。また伝承によると、同神社の別当寺であった吉祥寺の住職が、河内(大阪府)の誉田八幡宮の山車をみて作らせたのが、一番楽車である寺の下の楽車のはじめともいう。
 寺の下は吉祥寺のある部落で、現在は土居・末長など二九台の楽車と二台の神輿楽車が祭礼に参加している(六一年秋現在)。石岡神社の祭礼では、統一行動の順番札と安全運行の祈願札を受け取るため、五七年から全楽車が一四日に同神社に集まるようになっている。
 一五日は午前四時に宮出しがあり、お旅所・橘公民館前・農免道路・山口から二手に分かれ、新町・西町・土居・蛭子堤防・新兵衛などを巡行する。夕方石岡神社に集まった楽車は、参道を一気に駆け上がり境内の桜の馬場で練りをみせる。
 また、下島山の飯積神社の祭礼は、八台の太鼓台が豪快なかき比べをするので知られる。一七日早朝に宮出しした太鼓台は、船屋・渦井川河原・八幡神社・室川西原川原などを巡行し、夕方飯積神社前の渦井川河原に集合する。
 太鼓台はかつては一二台あったが、現在は上組・下組・船屋・大谷・本郷・下本郷・野口・岸影の八台で、西条地方の秋祭りのフィナーレを飾るかき比べに、堤防を埋めた観衆から盛んな拍手が送られる。





表3-34 藩政期の伊曽乃神社祭礼の行列

表3-34 藩政期の伊曽乃神社祭礼の行列