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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 石鎚大祭と前神寺

 石鎚信仰とお山市

 石鎚山(標高一九八二m)は西日本最高峰で、古くから日本七霊山の一つとして知られる山岳信仰の山である。石鎚山の神は『古事記』に石土毘古神と記され、その信仰は石鎚山そのものを御神体とする神体山信仰である。
 石鎚山の信仰は、日本古来の山の神が仏教と結合したもので、奈良・平安のころから修験道の道場として知られた。伝承によると石鎚山は、修験道の祖役小角が、石鎚山の神を石上蔵王権現と称えて開山したという。前神寺は石鎚山の別当寺として全国の石鎚行者をその傘下におさめ、石鎚信仰の中心であった。
 江戸時代中期の宝暦年間(一七五一~六四)以降になると、広く一般庶民の石鎚登拝が盛んになった。これは、石鎚登拝をめざす講中組織の普及によるもので、その講中を「石鎚講」あるいは「お山講」という。前神寺は講中の組織化と普及を精力的に進め、石鎚信仰を各地に広めた。また、前神寺が四国霊場第六四番札所であり、ここに参拝した高野聖や四国遍路によっても、石鎚信仰が各地に伝えられた。
 石鎚山の夏の人祭をお山市といい、元は前神寺が主宰していた。しかし、明治維新の神仏分離により、新しく発足した石鎚神社が主宰することになった。お山市はお山開きともよばれ、七月一日から一〇日まで開催される。お山市期間中は女性の登拝が禁じられていたが、昭和二二年に七月六日からの登拝が解禁された。女人禁制はその後三日間に短縮され、五七年からは七月一日のみとなっている(写真3-35)。
 今日のお山市では、知・仁・勇の神徳をあらわすという石鎚神社の三体の神像が、信者によって石鎚山頂まで運ばれる。神像は西条市西田の本社から成就社までは神輿で運ばれ、成就社から頂上社までは信者の背に負われて登る。この神像は、明治一四年(一八八一)の「石鎚神社先達用記」に、頂上社に三体の神像を安置す、とあることから、明治初期には既に存在していたことがわかる。おそらく石鎚神社成立期に、それまでの権現像に代えて作られたものであろう。
 お山開きは七月一日に始まるが、神像は六月三〇日に西田の本社を出て中之宮成就社に向かう。この日は午前八時に神輿出御祭が行われ、旧大保木村(現西条市)と旧石鎚村(旧千足山村が昭和二六年に改称したもの、現小松町)の氏子にかつがれて午前九時に出御する。かつては河口から今宮・黒川両参道を登って成就社に達していたが、昭和四三年にロープウェイが開通すると、西之川下谷からロープウェイを利用して登っている。成就社へは午後ニ時ころ着御する。
 七月一日には午前六時三〇分に御神像成就社出御祭があり、七時から一五分毎に一番、二番、三番と出御する。九時半ころ頂上社に着御した神像は、七月一〇日までここに安置される。午前一〇時には本社・成就社・頂上社と土小屋遙拝殿で一斉に初日祭が行われる。また、五日にも四社で中日祭が行われ、成就社では七日に当病平癒祈願祭が行われる。頂上社に登拝しか信者は、神像を身体に押し当てて神徳をさずかり、無事息災を祈る。昔は神像を奪い合う荒っぽい行事であったという(写頁3―36)。
 お山市最終日の一〇日は、午前一〇時に終了祭が行われ、続いて一一時半に御神像出御祭が行われる。正午に頂上社を出御した神像は、午後二時ころ成就社に着御し、ここで一夜を明かす。翌一一日午前七時に神輿の出御祭があり、同九時に成就社を出御して正午ころ本社に還宮する。本社では引き続き恒例の御神体拝載が行われ、境内は大勢の白装束の信者でにぎわう。
 昭和六〇年のお山市入込客は約一〇万人とみられ(西条市商工観光課調べ)、季節的な行事としては西条祭りと共に西条市を代表する観光行事となっている。石鎚登山ロープウェイの月別利用客が最も多いのは七月で、次いで八月、一月の順である(表2―39参照)。一月の利用客が増加してきた背景には、初詣での参拝客に及びスキー客の増加が指摘される。なお、お山市期間中の成就の神門は、危険防止のため午前五時に開門し、午後五時に閉門する。

 石鎚神社の成立と前神寺の復興

 明治元年に発令された神仏分離令は、占代以来続いてきた神仏混淆を廃止するもので、神の名につけられていた権現号令菩薩号が廃止された。石鎚山においてもその奉斎像の取り調べが命ぜられ、別当前神寺を領内にもつ西条藩は、石上蔵王権現を仏体として届け出た。これに対し、横峰寺を領内にもつ小松藩は神として届け出たため、明治三年(一八七〇)神祇官の次のような裁定が下った。

元西条藩石鉄山蔵王権現改称、伺ノ義差出候二付、御問合ニ候所、右ハ石鉄神社ト相称シ然ルベク、在来権現ノ像ハ、別二祭祀二及バザル事ト存候

 ここに石鎚山は権現号を廃止せられ、明治五年(一八七二)石土神社として発足した。長らく石鎚信仰の中心であった前神寺は明治八年(一八七五)廃寺となり、その跡地は石鎚神社が継承した。しかし、発足当初の石鎚神社は神社としての態勢が不十分で、神仏分離の混乱のため信者が減少し、長らく不振の時代が続いた。
 明治四五年(一九一二)第一〇代社司に就いた越智勝丸は、各地に崇敬講を組織し、財政の再建や社殿の修復・新築に尽力し、今日の石鎚神社の基礎を築いた。戦後は文部省所轄の宗教法人となり、昭和二一年に「石鎚教教派総本社」を創設した。同社は二四年に「石鎚本教」と改称し、全国に教会・布教所一四三全所、教師二〇八九人を有する(文化庁編『宗教年鑑』六〇年版)(図3―39)。
 現在の石鎚神社は本社・成就社・頂上社と土小屋遥拝所の総称で、本社殿は昭和四六年に新築された。石鎚神社の信徒は令国に三〇〇万人ともいい、先達は七万人に達する。
 前神寺は石鎚山修験道の根本道場として、常住(現成就)に建立された。前神寺は石鎚山の別当寺であり、また四国霊場の札所でもあったが、参拝に不便なため江戸時代に新居郡西田村(現西条市)の山麓に新たに前神寺を建立した。これを里前神寺といい、常住前神寺は奥前神寺とよばれた。
 前神寺は明治維新の神仏分離により、一時廃寺になったが、明治一一年(一八七八)に末寺医王院の地(現西条市洲之内)の地に前記寺として再建された。同二二年(一八八九)には前神寺の旧名に復活し、石土蔵王権現信仰を継承している(写真3―37)。
 前神寺は石鉄山金色院といい、本尊は阿弥陀如来で、戦後は真言宗石鎚派として独立した。石鎚派修験道の本山として末寺四〇余か寺をかかえ、信徒は三〇万人に達する。境内に蔵王権現を祀り、権現造りの本殿は昭和四七年に新築された。
 旧奥前神寺は神仏分離により石鎚神社常住社(現成就社)となったが、前神寺の復興により河口と成就を結ぶ登山道脇に再建された。しかし、ロープウェイ開通によって登拝客の流れが変わったため、昭和四五年前神寺奥の院として現在地に移転新築した。
 前神寺の祭礼は、五月の春山人峰及び七月一日から一〇日までの夏の祭典がある。夏山人峰には同寺の権現像三体が唐櫃に納められて成就の奥の院に登る。一目の入峰と一一日の下山は大勢の信者でにぎわう。また同寺所蔵の石鎚山修験道に関する古文書は、西条市指定有形文化財の書跡である。



図3-39 西日本における石鎚本教教会の分布

図3-39 西日本における石鎚本教教会の分布