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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

五 加茂川林業

 林業の地位

 霊峰石鎚に源を発し、西条市に注ぐ加茂川流域には、加茂村・大保木・千足山村の三か村があり、うち前二か村は現在西条市に属する。これらの村々は古くから林業の盛んな地域であり、加茂川林業の名がある(写真3―7)。この地域の林業は用材生産に特色があり、木炭や薪材、あるいはしいたけなどの生産はあまり盛んなところではかなった。明治三八年(一九〇五)の愛媛県統計書によると、加茂川流域を主体とする新居郡は丸材及び角材の生産では、県内の三三%を占め、挽材では一二%、屋根葺き用の杉皮と檜皮の生産ではそれぞれ四五%と八一%を占め、県下一の用材と樹皮の生産地であった。大正年間から昭和の戦前にかけて、加茂川流域の林業の県内での相対的地位は低下していくが、それでも第二次世界大戦前の加茂川流域は、上浮穴郡・喜多郡・北宇和郡などと共に、愛媛県の重要な用材生産地の地位を占めていた。
 愛媛県の素材生産量は昭和三五年をピークに漸減していくが、加茂川流域の山村でも林業は次第に不振となり、素材の生産量は減少していく。昭和六〇年の西条市の素材生産量をみると、一万三二九二立法メートルであり、県内の一・八%を占める(うち民有林材六三・七%、国有林材三六・三%)。第二次大戦前と比べると県内における林業の地位は著しく低下している。また県内各地で生産の盛んなしいたけの生産量は、昭和六〇年現在、乾しいだけに換算して四八〇㎏で、これは県内のわずか○・○五%であり、とるに足らない。

 林野所有と林野利用の特色

 昭和五五年現在の西条市の林野面積は一万六五三八haである。うち国有林四八一四ha(二九・一%)、森林開発公団有林一三一ha(〇・八%)、公有林四二五ha(二・六%)、私有林一万一一六八ha(六七・五%)となっており、私有林と国有林の比率の高い地域である。
 これら林野の分布をみると、公有林は西条平野に臨む前山地帯、すなわち中央構造線から北側の和泉砂岩の分布する地帯に多く、樹種は松と雑木が多い。藩政時代以来、平地農村の入会採草地であり、明治以降は各集落の部落有林であった。明治末年以降の部落有林解体の過程で、記名共有林や財産管理区有林として現在に至っている。大正年間以降その多くは松や雑木の天然林として、集落住民の薪炭採取林として利用されていたものが多い。
 石鎚山・瓶ケ森をひかえた奥地に多い国有林は、現在三種類の林地に区分して管理されている。第一種林地は保安林・自然公園・鳥獣保護区・レクリエーションの森などに指定された地域で、施業が厳しく制限されている。第二種林地は施業に特別の制限が加えられない林地で、国有林の林業活動の主要舞台となっている。第三種林地は地元住民の福祉向上のために設けられた林地であって部分林が設定されている林地である。
 西条市の国有林は西条営林署の管轄下にあり、昭和三五年の西条営林署管内の林地は八五八八haに達するが、このうち第一種林地は三三九一ha(三九・五%)、第二種林地は四九八四ha(五八・〇%)、第三種林地は二一三ha(二・五%)となっていた。これに対して同五五年には林地面積九五八一haのうち、第一種林地八八五九ha(九二・五%)、第二種林地六〇五ha(六・三%)、第三種林地一一六ha(一・二%)となり、第一種林地が著しく増加した。それは国有林地帯のなかに、石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰や高瀑渓谷などの景勝地があり、そこが国定公園や自然休養林、あるいは水源涵養林に指定されていることによる。加茂川奥地の自然公園には、昭和三〇年に指定された石鎚国定公園があり、その中には面河と瓶ケ森の自然休養林、石鎚および高瀑と寒風山の風景林がある。また石鎚国定公園の東方の笹ケ峰を中心とした地区では、笹ケ峰自然環境保全地域に指定され、その中に笹ケ峰風景林もある。
 現在の国有林は、水源涵養林、自然公園など公益的機能が主体となっているが、明治年間には、もみ・つがなどの天然林が伐採され、流送によって西条に搬出されていた。また雑木は山中で木炭に生産されたり、薪材に加工され、明治末年までは旧別子に搬出された。山中には別子山村の中七番に通じる駄馬道もあった。近年の国有林は、伐採量・素材生産量・新植面積ともに減少し、雇用作業員の数も減少している。加茂川流域の基幹作業員(常雇い)はわずか三名であり、造林作業の大部分と伐出作業は地元の西条森林組合の林業労務班に委託している(表3―7)。
 西条市の国有林は、人工林一八三haに対して、天然林二九三六haと天然林の方が多い。人工林のなかでは、すぎ三五一haに対して、ひのき一二六九haと、ひのきが卓越し、天然林では、もみ・つがなどの針葉樹七四二haに対して、広葉樹二一九四haと広葉樹林が卓越する。民有林に比較して天然の広葉樹林が多いのは、樹木の伐採が制約されている自然公園が多いことと関連している。
 加茂川林業の主体をなすのは、中央構造線の北側の私有林地帯である。この地帯は地形は急峻であるが、結晶片岩の風化した沃土と二〇〇〇㎜を超す多雨に恵まれ、樹木の成育に恵まれている。樹種は元来すぎが主体であり、昭和三四年現在の旧加茂村の樹種構成をみると、すぎ五三%、ひのき一九%、ざつ二七%となっている。しかし近年は木材価格の高いひのきの植林が増加し、同五五年の西条市の民有林の樹種構成をみると、すぎ五四%、ひのき三六%、まつ六%、広葉樹五%となっており、ひのきの比率が高まっている。
 私有林の林野所有の特色は、林野の所有格差が大きいことと、不在地主が多いことである。昭和三五年の旧加茂村の階層別林野所有状況をみると、一ha未満の所有者は三二〇名(四三・四%)であるが、面積ではわずかに一八一ha(三・八%)にすぎない。一方、五〇ha以上の所有者は五名(〇・七%)にすぎないが、面積では九六九ha(三一・四%)も占めている。また村内所有者の所有面積と、村外所有者の所有面積を比較してみると、前者が四三・九%であるのに対して、後者が五六・一%にも達している(表3―8)。
 林野の所有格差が拡大したのは、大正年間から昭和の戦前にかけて、林業が盛んになる過程で、旧村役人層や素材業者が地元住民の林野を集積していったことによる。この地方では、立木の売却に際して、上木のみでなく土地と共に売却することがあり、このような立木売却の方法も、林業が盛んになる過程で、素材業者などに林野を集積させた一因でもあったといえる。村外地主が多くの林野を所有している理由は、大正年間から昭和の戦前にかげて、林野を集積した旧村役人層や素材業者が、生活の本拠を山間部から西条市街地方面に移したことによるものである。域外地主の山林所有の比率は近年さらに高まっているが、それは昭和三五年以降の高度経済成長期の間に、山間部の住民が西条市街地方面になだれをうって転出したことによるものである。

 加茂川林業の成立

 加茂川流域は、肱川流域、宇和島の鬼ヶ城山系などと共に、県内では最も早く用材生産の盛んになった地域であった。西条藩は宗藩紀州家の林制にしたがって山林の保護育成につとめ、すぎ・もみ・つがなどの美林を保護育成したが、加茂川流域に林業が成立した最大の要因は、山地が海に近く、しかも加茂川が木材の流送に利用できたことによる。
 木材の流送は藩政時代にすでに行われていたが、天保一三年(一八四二)に誌された『西条誌』には、寸太とよばれた薪材は加茂川の支流の各所より流送され、河口の古川土場で陸揚げされ、そこから瀬戸内各地に搬出されていたことが詳細に記載されている。古老の言によれば、寸太流しは、加茂川の支流谷川では、川来須の奥の大保子谷の標高七〇〇mあたりの地点からさえ、谷川を堰き止めて鉄砲水にして流送していたという。
 木材の流送は薪材のみでなく、用材についても行われた。ただし加茂川は急流で筏流しには不適当であり、主として木材を一本ずつ流す管流が主流であった。管流しの起点は加茂川の本流では旧千足山村の土居の土場であり、その支流の河口谷では西ノ川の土場であった。また旧加茂村から流出する谷川では下津井の下手の筏津が管流しの起点であった。加茂川とその支流の谷川の流域には、本流ぞいに一二の土場が、支流には八つの土場があった(図3―7)。
 土場への木材の搬出は、木馬や駄馬、さらには担夫によってなされた。木馬道は比較的平坦なところにつけられたが、急峻な山地では担夫にたよらざるを得なかった。担夫は仲出しといわれ、男は負子で、女はべた負いで搬出するものが多かった。負子での運搬は、肩に背負う負子と頭で均衡をとりながら歩き、間玉といわれる六尺五寸の丸太二本、五〇貫程度のものを運搬する壮者もいた。女のべた負いは一間、尺、二間などの丸太を運搬した。べた負いは狭い道路では直進ができず、横ばいで歩くことを余儀なくされることも多かった。
 第二次大戦前の加茂川流域の立木の伐採は、春季と秋季の二回に分けて行われた。春伐りは三月半から六月にかけてであり、秋伐りは八月から一〇月にかけてであった。伐採が終わると皮剥と造林が行われた。皮剥ぎが行われるのは、木材が黒ずむのを防止するためであるが、すぎやひのきの樹皮が屋根葺き材に高く売れたのも大きな理由であった。造材は素材を用途に応じて、一間、尺、二間などに玉伐りすることであり、特に高度の技術を要したので、それに従事するものは詰木師といわれ、高額の賃金を得た。造材された丸太は山中で棚がけによって乾燥され、それが土場に搬出された。
 土場からの流送は出水をみて随時なされたが、木流しは一〇~三〇人程度の人夫が組をつくって流すのが通例であった。先頭の者は川づくりと称して、材木でもって流路を整えながら木材を流して行き、殿の者は材木をさらえながら下りていった。管流しされた木材は河口の古川の揚場と加茂川橋に近い大町の揚場で陸揚げされた。また一部は黒瀬大畑の揚場で陸揚げされ、黒瀬峠を越えて、氷見に陸送されるものもあった。また船材などの長い材は、黒瀬から筏に組んで河口の古川まで流送されるものもあった。道路の未発達な明治・大正年間には、加茂川流域の木材は主として流送によって搬出されたが、急流の加茂川では、細くて長い垂木材や、長大な桁丸太などは流送には適さず、馬の背によって、西条・氷見・小松などに搬出されるものもあった。また、明治年間には、山中で板や柱材などの製品にして、駄馬や仲持ちによって平地部に搬出される木材も多かった。立木の伐採から造材・搬出・流送などの一連の山林労務者を支配したものは、素材業者である。素材業者のなかには独立したもの、西条・氷見・小松などの製材業者に直属するものなどがいたが、彼等が地主から立木を買い、山林労務者を雇い、木材を市場まで搬出したのである。素材業者と山林労務者の間には集落ごとに旦雇頭が介在し、各集落の山林労務者を素材業者のために調達した。
 加茂川ぞいの大保木に県道が開通しだのは大正初期であり、その奥地の千足山村に車道が開通したのは大正一四年(一九二五)であった。また大正一二年(一九二三)には黒瀬峠を越えて氷見に至る県道が開通した。一方、支流の谷川ぞいには昭和四年、加茂土工森林組合によって、延長一六㎞の森林軌道が敷設された。軌道の起点は標高五〇〇mの川来須であり、終点は谷口の船形であった。この軌道は馬で牽引するもので一日一往復、三〇石余の木材を搬出した。加茂村に県道が開通しだのは、この森林軌道が昭和二九年撤収されて以降である。これら車道や森林軌道が開設されると、木材の流送は次第に衰退し、昭和二五年には消滅する。
 立木の伐採地から、上場まで丸太を運搬した仲出しも索道が普及すると、それにとって替わられ次第に消滅する。木材搬出用の索道が加茂村河ヶ平に架設されたのは、大正四年(一九一五)であり、以後大正末年ころまでに加茂川流域一帯に普及していく。木材搬出用の軽便索道の架設は全国的にも特に早かったが、それは住友鉱山の西ノ川や大森鉱山の銅鉱が、加茂村下津池をへて、角野町の端出場まで索道で搬出されていたのにヒントを得たといわれている。
 加茂川流域ですぎの育林が開始されたのは藩政時代であるが、それが本格化したのは明治維新以降である。大正中期に至ると第一次世界大戦の影響で木材ブームを現出し、木材の伐採・造林も盛んになる。この好況の時期に山林を売却し一獲千金を得た者も多い。しかし昭和初期に至ると経済界の不況を反映し、木材ブームは去り、生活に困窮した住民には山林を手離す者も続出する。この間に山林を集積した村内居住の旧村役人層や村内外の素材業者は大山林地主となり、その造林は主として焼畑小作によって行われていく。焼畑小作とは、立木の伐採跡を焼畑に利用させ、数年間、ひえ・あわなどを栽培させる代償として、焼畑跡地にすぎを無償で造林させる方式である。このような焼畑小作によって、大山林地主は容易に造林を推進することができた。しかし焼畑は昭和三〇年代にはいると衰退し、それと共に焼畑小作による造林もすたれていく。

 過疎の進行と林業経営の変質

 加茂川流域の林業は昭和三〇年ころまでは、村外の大山林地主が地元の零細山林所有者を林業労務者として雇用して営まれてきた。しかし、昭和三五年以降経済の高度成長期に入ると、林業労務者として働いていた零細山林所有者は相次いで挙家離村し、加茂川流域は県下の典型的な過疎地域となる。過疎の進行は林業労務者の不足から加茂川流域の林業経営困難におとしいれ、昭和四〇年以降は加茂川流域の林業経営は半ば放棄されたような状態にたち至っていた。
 このような事態のなかで、加茂川林業の再興をはかったのが、地元の若手山林所有者六名によって昭和四六年に結成された林業研究グループであった。このグループは、加茂川林業の発展をはかるためには、森林組合の組織を強化することが肝要であるとの自覚のもとに、森林組合に専務理事をはじめ多数の役員を送り込み、組合の組織を強化した。
 昭和五〇年以降新たに生まれ変わった西条市森林組合が行った主な事業は、森林施業団地共同化事業と林業労務者の組織化であった。森林施業団地共同化事業は一定林地内の山林所有者が協力して、造林や保育、林道や作業道の開設などを行うものである。施業計画は団地内の山林所有者が協議して策定するが、造林や保育、林道や作業道の開設などの諸作業は森林組合に委託するものである。施業団地め結成は昭和五〇年に始まり、同五四年には西条市の民有林一万一〇〇〇haをすべて包含する一九団地が結成された(図3―8)。施業団地内には、在村地主、不在地主など多数の山林所有者が混在するので、その意志決定は困難であるが、労力不足に悩む林業経営者にとっては、造林や保育の施業を容易とするものであるといえる。
 森林施業団地共同化事業を推進していくためには、林業労務者の確保が前提となる。昭和五〇年に六〇名の労務者で発足した森林組合の労務班は、同五八年には一二二名を擁するまでになった。この労務班員は、組合直雇の労務班員五二名と、西条森林開発株式会社という独立採算制をとる組織に属する労務班員七〇名に分けられる。前者は従来からある造林中心の作業班員であるのに対して、後者はブルドーザー・クレーン車・林業架線作業・各種土工などの免許を持つ技術者集団であり、森林組合の委託を受けて、造林・林産物運送・測量設計・土木建設などの業務に従事している。
 過疎化の進む加茂川流域で、林業労務者を確保することは容易なことではなかった。現在の林業労務者の居住地をみると、必ずしも山間集落のみに居住するものではなく、西条市内など平野部に居住するものが多い。彼等平野部に居住する林業労務者は、かつての山間部の集落に居住していたものが挙家離村してきたものが多い。彼等平坦地に居住する林業労務者は、背広姿で森林組合内に併設されている林業センターまでおもむき、そこで作業服に着替えて森林組合所有のマイクロバスで山林労務におもむくのである(図3―9)。帰路は林業センター内の風呂で汗を流して、また背広姿で家路に向かう。このような林業労務のあり方は、都市近郊で過疎化の進展した地域の新たな林業労務の形態といえよう。

表3-7 西条営林署管内の事業量の推移

表3-7 西条営林署管内の事業量の推移


表3-8 加茂地区の村内外別・階層別林野所有状況

表3-8 加茂地区の村内外別・階層別林野所有状況


図3-7 大正時代~昭和の初期の加茂川流域の木材の輸送路

図3-7 大正時代~昭和の初期の加茂川流域の木材の輸送路


図3-8 西条市の総合施業団地

図3-8 西条市の総合施業団地


図3-9 西条市森林組合の労務班員の居住地と就労地

図3-9 西条市森林組合の労務班員の居住地と就労地