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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

六 西条市の海苔養殖

 地区の概況

 『西条誌』は天保一三年(一八四二)編述の西条領内村々の郷土誌であり、郷土史研究の基礎的宝典といわれている史書である。この書によると、西条藩の水主浦は喜多浜分(二軒分)明神木村(三軒分)船屋村(三軒分)新居浜浦(五六軒分)大島浦並黒島(五八軒分)天満村(五軒分)の六村浦で常備水主役は一二七軒分であった。これは、西条よりも新居浜の方が漁業・海運ともに隆盛であったことを物語る。現在の西条市明屋敷の漁業集落(喜多浜)は新居浜浦からの移住によって成立した漁師町である。

漁船三拾九艘―内白みよし 二拾六艘  黒みよし 拾三艘―喜多浜漁師は、享保十三、十四両年に、新居浜より三拾弐軒引越し来る。今は増して、八拾五軒となる。白みよしは、新居浜西須賀より分れたる筋、黒みよしは同所東須賀より分れたる筋にて、網代御運上も、白黒ニ株に取立て来るという(『西条誌』明屋敷分)。

とあるように一柳監物殿改易後の不要の空屋敷に西条藩は新居浜漁民の入植を募ったものであり、政治的にも水主役の関係からも膝下に水軍のない不便不利を考えてのことであろう。
 西条藩では、漁業者の住む村浦は、その地先を専用とし、漁業者のない村浦では、根付(地先)網代でも他の村の操業に任せてあったので、喜多浜と新居浜浦東須賀漁師との漁場をめぐる紛争が絶えなかった。この漁業紛争については『郷土研究』(昭和二年)の「新居浜漁業誌」や『西条史談』(七号・昭和六一年)の「西條喜多浜漁師の漁業紛争」に詳しく述べられている。古来よりの大規模な大網漁業を営む東須賀漁師と、ねり網という新規漁具を使った新興喜多浜漁師の漁業紛争は興味深い。
 『西条誌』明屋敷分の産物の項には、馬刀貝・栗の貝(ばか貝か)白貝・蛤・あさり貝・餌えび(車えび)・しやこなどがよくとれ、その説明には喜多浜地先のほか、古川の土場尻や西の禎瑞尻に至る広い範囲の干潟で行うとある。栗の貝は早春に、胸まで潮にっかって足で探取るので価格が高く、馬刀貝は九月から翌三月までが盛りで、収穫が多く四百両に余る収益があると述べている。天保の飢饉もこの馬刀貝によって餓死をまぬがれており、ここより大阪の間に喜多浜ほど瓦屋根の多い立派な漁村はなく、こうした干潟を後世において干拓しようとする者は、この誌を見て再考せよと記されている。遠浅砂質海岸の漁業の一端を知ることができる。
 西条の海面漁業は極めて零細で、漁船使用三トン以上のものは三八隻にすぎず、三トン未満が一二ニ隻である。各漁業協同組合別の経営体では、西条地区の刺し網、神拝地区の採貝、玉津、禎瑞地区の海苔養殖が卓越している(表3―9)。漁業資源としては、遠浅砂質漁場に生息する貝類(アサリ)、水産動物(くるまえび・がざみ)魚類(かれい)と回遊魚のさわらが代表的なものである。特筆されるのは、浅海漁場を利用したのり養殖が経営体数・生産額共に多く、当地域の重要な地場産業となっていることである。近年ののり養殖は全国的に生産過剰傾向にあるが、西条市の県全体に占める比率は、昭和六〇年において三六%であり、のり養殖の最も盛んな地域である。

 のり養殖の発展過程

 西条藩領内では垣生・黒島などが先ず開けたらしく、『西条誌』に「垣生の名物、塩・かわぎし海苔・江端のり」と名物にかぞえ上げている。西条では流田村の条に「市須賀川…(中略)」へぎという海苔、外の川尻にも生ずれども、この川殊に多く産し、味わいよし」と紹介している。西条藩ではこれに着目して、天保一二年(一八四一)領内の黒島から文次という者を家族一同招き寄せて、禎瑞の産山に寄留させ、女竹による養殖を指導させたのが、愛媛の海苔養殖の始まりであるとされている(表3―10)。この試みは文次の逃亡等によって四年で失敗した。明治一二年(一八七九)西条町の村上房太郎が、氷見の地先から船屋に至る遠浅地域を利用し、広島地方にならって女竹篊をもって養殖を始めた。経営法が不備であったのか三年で事業は休止された。その頃、村上の事業に協力していた近藤定吉が魚取り用に沖に施設してある八重簀にのりが付着しているのを発見し、竹の簀を女竹篊の代わりに使い好成績を得た。これが愛媛独得のすだれひび養殖の始まりであった。
 明治三九年(一九〇六)玉津村の村上幸吉が玉津漁業協同組合の名儀で区画漁業権免許を取得したものを田中喜平に貸与した。続いて玉津村組合員が料金を払い、のり養殖に参加した。これが海面のり小作の始まりであった。明治四四年(一九一一)、玉津漁業組合は、唐樋尻・本陣川・室川の三か所に区画漁業の免許を受げ、禎瑞では津島増衛門がのりひび建て養殖について海面使用を出願、中山川の河口に女竹を建て込んだ。
 愛媛では河口付近にひびが集中し、密植気味となり単位面積あたりの生産量も少なく、加えて女竹ひび、すだれひびに固執したため、養殖方法の改良は進まず、豊凶の差も大きかった。のり養殖業が産業として発展するのは第二次世界大戦後のことである。
 戦後の食糧難による海苔の値上がり、沿岸漁業の不振により、海苔に対して関心が高まった。昭和二四年の新漁業協同組合法成立に伴い、区画漁業権が漁業協同組合に免許されると、組合員への平等な養殖漁場配分が進み、養殖経営の新規加入が増加した。
 この当時の女竹ひび、すだれひび分布には地域的差異がみられた。女竹ひびに主体をおいたのは、禎瑞以西の多賀、壬生川、楠河地区であり、すだれひびは、西条・玉津の二地区が中心であった(写3―8)。
 女竹ひび、すだれひびに固執した上に、のり漁場が河口付近に集中したので、密植気味となり品質も悪く、豊凶の差も大きかった。
 運草とも呼ばれたのりの養殖経営は、水産試験場東予分場の渡辺一、満田春馬らの技術指導に負うところが大きかった。特に昭和三〇年の人工採苗試験の成功とクレモナ網の導入、三五年の浮流し養殖試験、四〇年の冷蔵網試験は、のり養殖技術の革新として注目されるところである。
 人工採苗技術によって、陸上作物と同様に計画的種付けと収穫が可能になったが、一方では収容能力以上の採苗網を予備網として保有することが可能となり、漁場は過密度を増し、赤ぐされ症・白ぐされ症が多発するようになった。昭和三四年には玉津地区の漁場で溶けて流れるという異常な腐り方をしたのりが発見され、新居浜惣開にあるアクリルニトリル工場の有害廃液によるものではないかと騒がれ、国会にも取り上げられる政治問題ともなった。漁場の過密や工業発展に伴う廃液等による漁場汚染により、大きな壁にブチ当たったのり養殖に導入された技術が、ベタ流しによる漁場の沖合い化と、冷蔵網であった。ベタ流しは昭和四〇年には、埋め立て等によって消失の大きい支柱漁場に代わって、その主役となっている。また冷蔵網は、時期のかたよりを解消し、のりの病害や気象、海況に応じた計画生産を可能にした(表3―11)。

 西条地区におけるのり養殖の現況

 東予地方ののり養殖は、そのほとんどが、農業か漁業の兼業として行われてきた。特に禎瑞や壬生川地区などでは農業資本をのり養殖に投下して、経営の拡大がはかられてきた。西条地区では、昭和三一年にのり養殖が開始された。
 従来喜多浜漁師として明屋敷を中心に漁師町を形成した西条地区は、農業との関係の少ない地区であった。戦後の食糧難打開策として、昭和二一年着工の干拓事業が昭和三〇年に完成し、他地区のように農地所有のなかった西条地区漁民が農地を保有することになった。港新地の農地である。道路の南側の一期工事分には五〇戸の漁家が入植、道路北側の二期工事分には九二戸の入植が予定された。実際にはそれぞれ三倍の漁業協同組合員が増反入植の農地の配分を受けた。かつての一期工事の堤防の上が一八m幅の道路となり、そののり面に、南側に五○○平方mの宅地が五〇戸分、北側に同じく五〇〇平方mの宅地九二戸分か区画され、昭和三一年から入植が開始された。半農半漁、とくにのり養殖を主体とする計画的設定村といえた。当初はほとんどの家でのり養殖が行われたが、昭和四八年の全国的大豊作以降は生産過剰となり、のり価格の低迷からのり養殖経営体は減少し、昭和六〇年現在二八経営体となった。
 従来、のり養殖は建て込みから摘み取りまで、箱舟を使用し、特に寒中の摘み取り作業は重労働であった。また陸上では、手漉、天日乾燥など多くの手間を必要とした(写3―9)。労働集約的なのり養殖は、高度経済成長時代の稲作経営体とよく似た道を歩んだ。省力化と生産性を向上させるために急速な機械化を余儀なくされた。特に昭和五〇年代半ばより普及した全自動のり乾燥機は一時間に六〇〇〇枚の処理能力を持つ最新鋭機であるが価格が一台二〇〇〇万円もしており、耐用年数も五年であるという。他にも洗い機切断機、攪拌機、のりつみ機等多くの機械が購入されており、電気代・燃料代がおよそ、のり一枚につき二円程度かかるので、のりは一枚一〇円以上でないと採算をとるのがむずかしいようである。
 乾のりは各漁協を通して、大半が県漁連共販に出荷される(表3―12)。県漁連の共販実績は県下ののり生産額の九〇%以上を占めており、西条市では玉津などは一部県漁連よりも早く、昭和二七年より共販体制を実行している。

表3-9 営んだ漁業種類別経営体数および農家に該当する経営体数

表3-9 営んだ漁業種類別経営体数および農家に該当する経営体数


表3-10 のり養殖業の年次別発展経過

表3-10 のり養殖業の年次別発展経過


表3-11 乾のり生産

表3-11 乾のり生産


表3-12 乾のり地区別共販実績

表3-12 乾のり地区別共販実績