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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 機船底曳網漁業(トロール漁業)

 トロール漁業

 八幡浜にトロール漁法を定着させたのは大正七年(一九一八)、真穴の柳沢秋三郎であるが、これより以前の明治四〇年(一九〇七)ごろ、向灘の井上清吉が石炭をたくトロール船を下関より導入したが、二年で失敗に終わっている。その後、この漁業は西宇和郡内で三五件の許可をうけるにいたった。
 しかし機船底曳網漁業が発展するに従い沿岸漁業との対立が表面化し、大正一〇年(一九二一)九月、農商務省令で全国的に禁漁区が設定され、これを契機として、この漁業に対する統制と取締りは強化の一途をたどることになる。
 大正九年(一九二〇)に島根県は二艘曳操業を開始し好成績をあげたため、愛媛県でも大正一一年(一九ニニ)前述の柳沢がこれを採用、一方伊方村(現伊方町)の上田源太郎も営業をはじめた。さらに翌一二年(一九二三)、向灘の帆打瀬漁民も独力あるいは共同で許可を出願したが、近村の帆打瀬漁民の反対運動のため愛媛県は不許可とした。ために宮崎・大分・山口・広島・鹿児島・高知へ出願して許可をうけている。大正一三年(一九二四)には西宇和郡管下で許可数二一統、無許可一〇統に及んだ。 昭和二年愛媛県の許可数四〇統が、翌三年には一〇統に整理されている。昭和九年には取締規則が大改正され、違反者には体刑処罰という強固な取締りが実施された。宮崎県及び鹿児島県仲合で種々の問題をおこし投獄されたもの、取締船の追跡をのがれるため他船と衝突し、船と共に犠牲となるなどの不祥事が発生した。
 さらに、昭和一二年には機船底曳網漁業の大整理規則が制定され、以東底曳網漁業を昭和二四年までに全部廃止さす方針が打ち出された。他産業に転業するものには転業資金を与え、操業を続けるものに対しては、三回の違反が重なれば許可取消しの措置がとられた。かくて昭和一二年の一四統は続々違反のため整理され、最後に残った魚本義若の一統も許可期限がきれて、昭和一五年四月七日愛媛県の機船底曳網漁業も完全に整理された。
 しかしながら、第二次世界大戦の激化によって食糧の急迫が深刻化し、政府は昭和一九年三月臨時措置として、機船底曳網漁業を再び許可する方針を打ち出した。愛媛県でも魚本義若の第一・第二八幡丸と、菊池宏の第五・第六金比羅丸をはじめ七統が許可された。その後、戦後の申請もあって昭和二二年に二一統、同二三年二七統、五四隻に増加している。うち三統は深浦、七統は宇和島、一七統が八幡浜を根拠地として許可されていたが、昭和二四年魚の統制が解除されるや深浦、宇和島の一〇統も八幡浜に集結した。
 その後昭和二七年に二五統、同二八年には国の減船整理で二二統、同二九年には一六統に減じ、同三二年には一〇統に、同三八年になると六統一二隻に減船した。昭和五五年八月一日現在は四統八隻である。しかし八幡浜トロール漁業には、太平洋南区で大分二統、宮崎三統、鹿児島一統、高知一統、中間漁区として山口五統、福岡五統、佐賀三統が傘下にあり、漁獲物は八幡浜港に水揚げしている。
 このほか、以西(東経一二八度)底曳網漁業の山口県許可二統、長崎県許可七統があり、遠洋底曳網漁業三隻が、北転船としてオホーツク海・ベーリング海で活躍している。
 日本西海漁業協同組合調べの昭和五二年七月一日から五三年六月三〇日実績で、経営体数二四、三七統七〇隻、水揚量四万九四六〇トン、一一七億九〇〇〇万円と西日本有数である。
 一方、昭和二四年ごろエンジンが焼玉からディゼル化し、漁網も二七年ころよりナイロソ網を用いるようになった。トロール船も近年は木造船から鉄鋼船になり、沖合底曳船五八トンから九七トン、以西底曳船五八トンから五九トン、遠洋底曳網船三四九トンから九九九トンと大型化している。船形もほとんどスタン型である。