データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)
5 採卵鶏
養鶏業の発展
鶏は自家採卵用に農家の庭先で明治年間から盛んに飼養されていた。明治末年には県内で二四万羽程度の鶏が飼養されていたが、昭和一五年には九三万羽を数え、第二次大戦前の最高水準に達した。戦中に激減した鶏が戦前の最高水準に復活したのは三五年である。当時は一農家当たりの飼養羽数がわずかに一一羽で、いまだ庭先養鶏の時代であったが、その後急激な羽数増加と経営規模の拡大が進んだ(表4―8)。四六年の五九〇万羽は県内の飼養羽数史上最高となったが、飼養戸数はこの間に三分の一に減少したので、一農家当たりの飼養羽数は一九六羽に増加した。
その後、消費の伸びと卵価の低迷によって飼養羽数は減少し、五五年には四〇九万羽にまで減少した。この間にも規模拡大は順調に進み、五五年には一農家当たりの飼養羽数は八一九羽にも達する。ただし、この飼養規模は三〇〇羽以下の零細規模の農家が九〇%近くもあるためで、専業経営をしているものは、おおむね一万羽以上を飼養している。一万羽以上の飼養農家の羽数は全体の七〇%近くにも達している。
養鶏地域の形成
庭先養鶏の時代には、県内各地に広く養鶏業が行われていた。なかでも比較的盛んであったところは、松山市・今治市・新居浜市などの都市近郊で、これら諸都市が市場であった。それは昭和二〇年代までは卵の輸送はもみがらをつめた箱によって行ったので、長距離輸送は困難で、自家消費と生産地の周辺に販売されるにすぎなかったことによる。
三五年以降の規模拡大の時代を迎えて、生産の伸びた地域と反対に衰退した地域にはっきりと分かれた(図4―20)。前者には宇摩平野、周桑平野、松山近郊の北条市・伊予市・川内町・南予の三瓶町・広見町・三間町などがあり、後者には越智郡の島しょ部や上浮穴郡、それに南予地域の多くの市町村がある。また、松山市をはじめ、新居浜市・西条市・八幡浜市などは都市化が進んで、畜産公害との関連で養鶏業の立地環境が悪化し、生産が停滞的である。鶏業が伸びた地域は、卵の梱包輸送が三〇年代になって段ボール箱となり、さらに五〇年ごろからはパック詰めが普及して、長距離輸送が可能となったことと関連する。これらの地域はいずれも京阪神市場に輸送される卵の多い地域であり、県外市場と
結びついて養鶏業の発展してきたところである。
経済連系と商社系
愛媛県の養鶏農家は経済連に属するもの、養鶏組合――東予養鶏(東予市)・中央養鶏(松山市)・南伊予養鶏(伊予市)に属するもの、商社系に属するものに三分できる。現在の集荷比率は経済連五〇%、養鶏組合二五%、商社系二五%程度と推定されている。このうち養鶏組合の集荷した卵は、さらに経済連に出荷されるものがあるので、経済連の実質的シェアーはさらに高くなる。これら機関の集荷した四万七八〇〇トンの卵は、昭和五五年現在では県内消費六二・五%、県外移出三七・五%に仕向けられる。県外移出先の五五%は京阪神市場であり、愛媛県の養鶏は地元消費と京阪神市場への出荷によって成立しているといえる。
商社系の勢力の強い地域は、周桑平野、北条市、鬼北盆地などであるが、総じて市場に近接している地域や京阪神への輸送に便利な地域である。これらの地域は卵や飼料の輸送コストが安いので、商社にとっては有利に営業できる。養鶏は配合飼料を使用するので、商社はいずれも飼料会社であり、卵の集荷と飼料の販売を組み合わせて営業している。一方、経済連に属する養鶏家は飼料を経済連より購入し、ヒナの多くも経済連の孵卵場で育雛したものを購入する。
ブロイラー
採卵鶏以外に昭和四〇年以降に急激に伸びて来たものにブロイラーの飼養がある。ブロイラーの飼養数は四〇年には二一万羽であったが、四五年には一一五万羽にも増加した。ブロイラーは採卵作業がなく省力化が可能なので、一戸当たり平均一万羽に近い大規模経営となっている。五六年の出荷羽数七五六万羽のうち八三%が県内業者によって処理さ、うち九九%が県内で消費されている。飼養地域の盛衰は激しいが、五五年では、伊予市・広田村・八幡浜市・宇和島市・一本松町が主産地で、この五市町村のみで県内の飼養羽数の四八%も占めている。