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愛媛の祭り(平成11年度)

(2)にわか役者が笑いを誘う

 **さん(越智郡朝倉村朝倉北 昭和11年生まれ 63歳)
 **さん(越智郡朝倉村朝倉南 昭和19年生まれ 55歳)
 **さん(越智郡朝倉村朝倉南 昭和19年生まれ 55歳)
 座興で演じる即興の狂言、にわか狂言(にわか芝居)は全国はもとより県内各地でも演じられてきた。そのにわか芝居も、現在、県内では越智郡朝倉村の矢矧(やはぎ)神社に残存するだけで、全国的にも数県にしか保存伝承されていないという。朝倉地区では「矢矧神社にわか芝居保存会」を結成し、この伝統芸能の保存継承に努めている。
 朝倉村は、県の中東部、高縄(たかなわ)半島の東部に位置し、北部は今治平野の一部で平たんである。なお近年、農業の近代化や住宅の増加で、水資源の確保が必要となり、昭和56年に朝倉ダムを完成させている(①)。

 ア ユタンからにわか役者が

 ユタンとは、ここでは獅子舞の獅子の胴幕のことをいう。ユタンは漢字で油単と書き、ひとえの布や紙などに油を染み込ませたものである。本来は、湿気を防ぐために調度や器具などの覆いとして使ったり、また、旅行用具として衣類を包んだり、防寒具の代用とした風呂敷(ふろしき)、たんすや長持ちなどにかぶせた布など、その利用は多岐にわたっていた。獅子の胴幕としては、昔は麻を使い、軽くて荒い織り方でもあるので、風通しもよく透かして外を見ることもできたようである。しかし、現在では麻でつくると高額となるので綿でつくっており、麻のものよりも重たく、通風性の悪いものになっているようだ。
 矢矧神社にわか芝居保存会会長の**さんは、ユタンからにわか役者が現れるいわれを次のように語った。
 「矢矧神社の祭礼では、神事の後、ムカデ獅子(じし)による獅子舞(ししまい)が奉納されます。その後継(つぎ)獅子が演じられ、それからにわか芝居となるわけです。その獅子舞は、昔は3地区から当年の担当組を定めて、その組の1頭の獅子で舞っていましたが、昭和35年(1960年)の矢矧神社の式年大祭(*4)を機にして、2頭になって、現在の夫婦(みようと)獅子の形になりました(写真3-1-4参照)。
 にわか芝居の舞台は境内の真ん中の平地になります。そこに数枚のむしろを円形に敷いて芝居の舞台とします。だから、にわか芝居は幕も何もなしに演じるということになります。そこで獅子のユタンが幕の代わりをするのです。獅子芸に続いてにわかが演じられるのですが、にわかが続けて演じられるときは、ちょっと獅子を踊らせて幕の代わりにするのです。獅子の中に役者が入って、太鼓の『ドン ドドッ』という音で出ていって、役者を舞台に残して、獅子は元の所に戻って待機しています。そして芝居の落ちが出たのを見計らって、『ドン』という太鼓の音で獅子は役者を迎えに行きます。そして獅子の中に役者を迎え入れ連れて戻ります。だから、獅子が幕の代わりをしているということになるのです。それで獅子が一度役者を連れて帰ってから、次に出て来るまでが一つの幕あいということになります。ですから、全国的には朝倉村矢矧神社のにわか芝居は『朝倉にわか獅子』と呼ばれています。」

 イ にわか芝居あれこれ

 (ア)即興の風刺劇

 保存会の会員である**さんは、にわか芝居について次のように語った。
 「(**さん)寸劇といいますか、にわかを演じるのは時間にしてものの10分くらいです。昔からにわかは話の筋は分かっているのです。例えば、『身代わり地蔵』の話はこうです。『〇〇の村長に交通安全祈願と病気身代わりの地蔵をつくれと頼まれたが間に合わぬ…。』と石屋がぼやいているところに、老人がお参りに来る。そこで石屋が慌てて地蔵の身代わりに台の上に立ちます。老人は皮膚病の快癒を祈願し、自分の膚をなでその手を地蔵にこすり付ける。地蔵は身もだえしますが、老人はぶつぶつと祈って、地蔵の頭にバケツの水を掛けて洗い、帰って行きます。次いで老婆がつえを突きながら神経痛快癒の祈願に来ます。老婆は独り言を言いながら地蔵の足にこぶしほどの灸(きゅう)を据えます。地蔵は跳び上がり『熱い熱い。』と叫び、老婆は驚いて腰を抜かします。身代わり地蔵は『こりゃ水責め、火責めじゃ、かなわん、かなわん。』と、鉄鉢(てっぱつ)代わりのわんをたたいて落ちとなり、太鼓の音とともに獅子舞の中に消える、ただ、これだけのストーリーです。ところが、演じる者は自分なりの脚色をします。場所とか気候とか事件とか人の名前などいろいろなことを、その時々によって、その中に即興的に取り入れて風刺を利かせていくのです。また、隣のおじさんが演じたかと思うと、朝倉の学校の先生が出て演じたりとかで、この村に住む人が役者になるのです。また観客も演じる人と一体となって見る。だから親しみが増してくるのです。だれそれがどうなったと昔から筋立ては分かっているから安心して見ていられるのです。自分でネタ探しをしなければならないのは当然ですが、また演じる人と見ている人とが、その場でこうした方がおもしろい、このようにしようとの掛け合いをしながら演じることもあります。まあ、役者と観客とが一体となって盛り上がる芝居ともいえるわけです。ただ、昔から伝承されているものでも落ちは自分で考えねばならないのです。だから具体的な地名やいろいろな事象、例えば、政治や事件に関するものなど、また隣のおじさんの名前とかを取り入れて、笑いを誘う落ちを考えます。」

 (イ)にわか芝居の悲喜こもごも

   a 白紙で臨む創作劇

 「(**さん)出し物は多くの場合、先輩から君と君はこれをしなさいと指示されるのです。そのとき『医者と坊主』『身代わり地蔵』のような現代ものは初心者に、中堅には『白井権八(ごんぱち)』のような時代ものが割り当てられます。それ以外の者は創作劇に取り組むことになります。だから、平素ネタを探していないと、いざ創作劇となると、本人は大変です。ネタ探しに加えて、振り付けも自分で考えていくわけですから。時にはネ夕がなくなりまして、困ったときの神頼みということで村人から公募したような例もあります。ある県のにわか芝居では、台本を持った者が舞台に座っていて、書いたものを口伝えして、それを役者が大声で復唱していました。即興性という点からいうと変に感じられましたが、あれもにわかですね。」

 〇「医者と坊主」
  白衣の医者が、大きな時計を提げて登場。時計を落としたのに気づかず、世評を交えた口上をひとしきり述べて退場。代
 わって僧衣の坊主が登場し、同様の口上を述べ、退場しようとして時計につまずき、拾って喜ぶ。そこに医者が時計を探しな
 がら現れ、坊主の持つ時計に気づき、返してくれと頼むが、坊主は渡そうとしない。しばらく掛け合いの後、医者はとんちで
 時計に触らせてもらい、耳を当て時計の音を聞き、「うん、こりゃまだ脈がある。こりゃ医者のもんじゃ。」と落ちを言い、
 太鼓の音とともに舞う獅子の中に消えるという話。
 〇「白井権八」
  傘を差したちょんまげ姿の権八が芝居の舞台衣装で登場し、「思い起こせば過去10年。犬のけんかが遺恨となり、本条助太
 夫をば討って立ち退きしが、草葉の蔭(かげ)からさぞ恨むであろう。・・・」と見えを切る所作。菅笠(すげがさ)、旅装束の
 助七が登場。「それに見えるは白井権八、しばらくしばらく待った。」と呼び掛け、権八「行きつ戻りつ土手八丁、雨の降る
 夜も風の夜も、通いつめしや吉原の、なじみ女郎は小紫、権八待ったと呼び止(とど)めなされし御方は。…」と。二人の掛け
 合いがしばらく続き、助七・権八の殺陣があって、権八が「しばらく待った。」と声を掛け、助七「待てとは卑法。おくれた
 か。」で、二人の掛け合い、所作がしばらく続き、権八「おくれはせぬが、にわかにシーシ(小便・獅子)がでるわいな。」
 で、着物のすそをめくり、小用をたすふりをして落ちを言い、太鼓の音とともに獅子の中に消えるという話(③)。

   b しくじりが拍手喝さい

 にわかの創作劇は、自分でネタを探して脚色し落ちを考える。そのため、思いもよらぬ失敗が起こり、見物人の失笑をかったり、拍手喝さいを受けることもある。
 「(**さん)ある先輩が、魚の行商人のかっこうの振り付けをして、自転車を押して出てきたにわか芝居は傑作でした。今でも語り草です。そもそもは、今治市からこの朝倉村に自転車で魚の行商に来る、所作も口ぶりも一風変わった行商人がいました。普通は朝倉に来るのには、今治市の桜井(さくらい)から石風呂(いしぶろ)の辺りを通って来るのに、本人はとんでもない経路を経て来たのだと、とぼけた調子で平然と言って人々の笑いの種になっていました。それを芝居に取り入れようとしたわけですけど、見た途端村人たちは何を演じようとするのか分かったのです。そこで皆が息を詰めた。先輩は舞台を自転車でぐるぐる3回ほど回る間にせりふを忘れたのか、落ちが出ないので、獅子が慌てて体を揺すって迎えに行ったのです。演じようとしている話は皆知っているのですが、落ちは役者が考えているわけですから観客も何とも言えなかった次第です。失敗だったのでしょうが、この始終が大変おもしろかったわけです。失敗も一つの成功例です。大体にわかは、役者によっては見かけに似合わない役を演じたらかえって達者な人がいたりもします。普段はものもよう言えない、そんなことできそうにないような人が、その時になったら思いもよらないことを言ったり、演じたりして笑いを誘うこともあります。それが上手で誘ったのか、失敗をして誘ったのか、それは分からないのですが、見ようによっては、これもある意味での芸人技だと言えると思います。」

 (ウ)にわか芝居今むかし

   a 矢矧神社祭りの変遷

 **さん(越智郡朝倉村朝倉北 昭和15年生まれ 59歳)
 矢矧神社宮司の**さんは、祭りの変遷を次のように語った。
 「矢矧神社の祭礼は、本来は豊作を祝い、家内安全を願って旧暦の7月の秋に行われていました。しかし、朝倉村は藩政時代から洪水や干ばつによる被害を度々受けておりました。そして、いつの干ばつによるのか分からないのですが、大ききんがあった時に(当時は、旧暦の5月3日ころが一年間で最も雨が降る日であったらしい)、祭礼の日を雨乞いの意味も兼ねて5月3日に変えたらしいのです。享保の大ききんの折にも雨乞いのため、祭りの日を変えたことがあったと聞いてます。矢矧神社の場合には、それがいつのききんであったのかはっきり分からないのです。古文書がなくて、言い伝えでしか残っていないのです。いつというのが、伝わるうちに抜け落ちてしまい、江戸時代であろうと推察されるわけですが、年代までははっきり聞いてないのです。要するに、その後神社の祭りは5月3日ということに定着しました。戦後も、新暦の5月3日に実施することになりました。また戦後、新生活運動の進められたころには、わたしらの神社の祭りの日は変えなかったのですが、今治地方とその周辺では祭りの日を統一したのです。だから、必然的に現在、今治地方の祭りではお互いに人の行き来ができないようになりました。昔は田植えの関係、水の関係だろうと思うのですが、上(かみ)(の地域)から下(しも)に向かって祭りの日がずれていきましたので、地区、地区の祭りが順次ずれますから、お互いに人々の往来があって、にぎわっていたわけです。」

   b 戦後の祭りの盛衰

 保存会会員の**さんは、矢矧神社の祭りの今昔について次のように語った。
 「昔(昭和30年〔1955年〕代)と今では祭りそのものが大違いです。昔は矢矧神社の祭りというと、親せき縁者や招待を受けた知人などが、どこの家にも何組も寄ってくるというわけで、それぞれの家々はそれはもう客が多く、にぎやかなものでした。だから、にわかの観客が多かったというのも分かります。どの家の中も留守になるくらい見に来ていました。矢矧神社で祭礼行事の行われている間に、隣接している荒気(あらき)神社の方ではにわか芝居をする段取りをしていました。矢矧神社の祭礼行事が終わると帰る人もなく、皆がそのまま荒気神社の方に移動していました。現在は、矢矧神社の拝殿の前で行っていますが、わたしたちの若い時分は、荒気神社(現在は第一番のお旅所になっている)でにわかを演じていました。にわかを荒気神社の方で演じていた時には、小高い丘だけでなく木の上からまでも観客が見ておりまして、それはにぎやかな光景でした。その当時は、そこらの山に人が鈴なりになるという感じでした。今年(平成11年)は、しまなみ海道の開通に当たりましたから、祭り前夜の5月2日や祭り当日の3日の参加者は少ないだろうと心配していましたが、結構来ました。それでも昔の比ではありません。」

 (エ)にわか芝居維持の苦労

 「(**さん)昔は練習のときに皆が米を持ち寄って、ご飯でも炊いて食べたらそれでよかったし満足していました。そして上演の1週間くらい前から練習を兼ねて、有志の家々を回らせてもらい、けいこの後で食事を呼ばれるのが楽しみでした。5月2日の夕方から夜にかけては、本番の3日に演じる演目を裕福な家の庭を借りて、本番さながらに演じていました。そのころには、各家には親類縁者や招かれた人々も来ていまして、祭りの前夜ながらも観客も多かったのです。今はご飯だけでは駄目で、何かジュースやビールなどの飲み物も欲しいということで、どうしてもお金が必要になります。だけど、後援会みたいな金銭的援助をしてくれる組織はありませんから、今は2日の日に若い者だけが、獅子頭を持って、悪魔払いを兼ねて各戸を回らせてもらっています。地域の皆さんの理解はありますので、ものの30秒程度の舞ですが、いくらかの寸志を頂きまして、それで祭りの後の打ち上げをしているような次第です。」

 ウ にわかを保存伝承そして次代へ継承

 (ア)にわか芝居の保存伝承にかけて

 「(**さん)にわか芝居も若者だけでは続けていけない、保存会というものを作って、年寄りにも協力してもらわないと継承していけないようになったというのが現実です。かつては、にわか芝居は県内はもちろん、全国にもあまねく広まっていましたが、現在にわかというのが残存している所は、少なくなりました。朝倉村を含めて全国で11府県くらいになってしまいました。この近辺では、高知県室戸(むろと)市の佐喜浜俄(さきはまにわか)、岐阜県美濃(みの)市の美濃流しにわかが国無形民俗文化財に、広島県世羅(せら)郡甲山(こうざん)町の甲山にわかが町無形文化財に指定されています。宮城県の尾勝(おかつ)町を除きますと、大阪やその周辺とそれより以西に残っています。福岡県の博多(はかた)にわかなどもよく聞きますが、九州には集中して残っています。とはいっても、全国的には十数か所になっています。これら残存している所が一堂に会しまして、『全国にわかフォーラム』が開かれています。平成9年には高知で開かれ、朝倉からも参加しました。にわかの全国大会も開催されていて、保存に力を注いでいるところです。3年前(平成8年)には東京で全国民俗芸能大会が開かれまして、朝倉村のにわかも発表して好評を得た次第です。やっぱり、にわか芝居が存在しているということで、わたしたち村人の心が何かを共有していることはたしかです。皆が協力してくれ支援してくれることは、有り難いことです。」

 (イ)保存伝承の問題点

 「(**さん)一番の問題点は後継者です。わたしたちがしていた時とは違って、町に働きに出る若者も多くなってきました。それに困ったことに、今の若い者は結婚すると出て来なくなる。だから、今は中堅の人がいないというのが現状です。次はやはり前にも言ったとおり、経費の問題です。獅子頭の修理ともなれば何十万円とかかるし、麻のユタンヘの切り換えをすれば費用もかさみます。それでも保存会ができてからは、地域の人の理解も深まって、最近では村の理解・協力も得て、予算もある程度組んでいただけるようになりました。保存会ができてからもう20年ほどになります。まだまだわたしたちの活動の余地は残されているとは思います。」
 「(**さん)会長さんの若いころは一人一役で済むくらい人もいましたが、今は、一人で獅子舞奉納、継獅子(つぎじし)、にわか、それに神輿(みこし)と何役もこなさなくてはなりません。大変なのです。その意味で、後継の人材育成は急がれるわけです。よく『子は親の背を見て育つ。』と言うでしょう。ところが、ここでは親が来たら子供が来なくなるのです。来にくいのでしょうか。普通だったら、親が子供を呼んで、そこで後継者を育てようとしています。それが、親が一生懸命にしているところの息子さんほど来にくいというのか、来ないのです。祭りの盛んな県外のある所では父親があれだけしているのならと、息子も親に負けないよう頑張って、それで後継者が育っているという話も聞きます。もう少し親子で話し合って、この辺の事情がよくなればと願っています。」

 (ウ)継承への熱き思い

 「(**さん)にわか芝居は続けていかねばならないと思います。来年(平成12年)はちょうど矢矧神社の式年祭と言いまして、20年に一度の大祭がありますので、その時に盛り上げて、次につなげていかねばと考えています。先にも言ったように結婚後出て来ていない中堅の者を今度の機会に出て来るように手配すれば、また盛り上がってくるものと思っています。今は急いで獅子頭を扱える後継者を養成する必要にも迫られています。昔からの青年団の『なんもかんも(何もかも)方式』(青年団員が村の主要な仕事の責任の役を全部担うこと)も、こういう時勢だからもう一度考え直して、村人みんなの活動の場を広げていくことを考えてみる必要があります。にわかが盛んになれば、また地域の人の理解も深まりますし、いろいろな支援も得られやすくなると思います。地域活性化のためにも頑張らねばなりません。」


*4:一定の年数を期して、定例の儀式として行われる祭儀。

写真3-1-4 夫婦獅子による獅子舞奉納

写真3-1-4 夫婦獅子による獅子舞奉納

平成11年5月撮影