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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)むらあげての奉納芝居

 **さん(川之江市川滝町 大正15年生まれ 73歳)
 **さん(川之江市川滝町 昭和12年生まれ 62歳)
 **さん(川之江市川滝町 昭和13年生まれ 61歳)
 **さん(川之江市川滝町 昭和28年生まれ 46歳)
 社寺の祭礼に際して行われる、神仏を慰安したり、祈願を込めての芸能や武芸の奉納は各地に見受けられた。とりわけ、奉納芝居は祭りの気運を盛り上げた。その奉納芝居も衰退をたどるなか、いち早く地域住民の協力でむらおこしを兼ねて復活させた川之江市山城(やましろ)神社の奉納芝居がある。また、県下の他地域でも村芝居の復活が見られ、温泉郡重信(しげのぶ)町下林(しもばやし)地区では平成5年より、伊予郡松前(まさき)町徳丸(とくまる)地区では平成9年より村芝居が復活している。ここでは、奉納芝居復活の経緯と、地域や地域住民とのかかわりを探った。
 川之江市川滝町は領家(りょうけ)と下山(しもやま)からなっている。領家は、世帯115戸、人口486人、林野が大部分で、わずかに水田が開かれ、ミカンの栽培も行われている。大部分が兼業農家である。山ろくや中腹にかけて原中(はらなか)・中通(なかどおり)・西ノ尾(にしのお)・田尾(たお)などの集落が散在している。この領家には、山城神社とそれに隣接して市内で最も古い由緒を持つとされる真言宗瑠璃光山常楽寺(るりこうざんじょうらくじ)がある(①)。
 また、川滝町領家の山城神社は、天正4年(1576年)に勧請(かんじょう)(神仏の分霊を請じ迎えてまつること)された由緒をほこる神社で、毎年秋祭りには、地方巡業の一座を招いたり、地元の人々による芝居を奉納して神霊を慰めていたが、社会情勢の変化に伴って昭和39年(1964年)を最後に奉納芝居が中断されていた。昭和57年(1982年)にいたり、地元愛護班が中心となって、コミュニティーづくりにも役立つ奉納芝居を復活させた(②)。

 ア 中断以前の奉納芝居

 太平洋戦争後の奉納芝居に出演した**さんに、当時の状況を聞いた。
 「もともと山城神社の奉納芝居は、江戸時代末期に疫病が流行した時に息災延命を願って、神社の境内に芝居小屋を作り、旅役者に芝居をさせたことが始まりであったと聞いています。それ以後、毎年の秋祭りには、地方巡業の一座を招いたり、地元の人々が芝居を奉納していました。わたしも戦後の青年団時代に奉納芝居に出演したことがあります。たしか昭和22年(1947年)か23年だったと思います。そのころ、集団で責任を持ってするものが何もないため、何かするかと言い始めて、それで領家の青年団が寄り合って、各地区ごとに芸を何か一つはしようと決まりました。わたしの住んでいる古下田(ふけた)地区も芸を一つか二つ演じました。あのころは、グループに入りたいと言っても入りきれないほど若者がおりました。そのときに芝居も奉納され、わたしも出演しました。戦後の地元の人による奉納芝居はこの1回、これっきりだったのです。後は雇ってきた一座で奉納するようになりました。」

 イ 晋山(しんざん)(*1)を機に地区ににぎわいを

 (ア)まずは地元住民の説得から

 奉納芝居を復活させるためには、まず地元の理解と協力を得ることが大切であるが、その復活のいきさつを山城神社奉納芝居保存会の初代会長の**さんに聞いた。
 「奉納芝居復活までのいきさつとしては、昭和53年(1978年)ころ、地区の会合に行った時に、奉納芝居は、つぶしてはいけない、ぜひとも続けねばいけないという声が出始めたのです。地元出身の小学校の先生も地元の会合によく訪ねてきては、奉納芝居をしなければいけないとむら人を説得したのです。それもあってか、先輩たちも、芝居はどうしてもしなければと言いますが、まだその当時は地区の皆の関心が低くて、難しそうに思えました。そこで、わたしは自分一人ででも舞台を開けよう奉納芝居をしようと思って、昭和56年(1981年)に地区の総代さんに相談を持ちかけました。ところが、地区の総代さんは舞台を開けることに対して、『原中というわたしらの地区だけで舞台を開けるといっても、山城神社は領家の神社だし、実際に芝居をすることになれば各地区の人が寄り合って、芝居をするのだから各地区の協力がいるのではないか。』とためらっていました。そこで、演目はカラオケでも何でも構わない。とりあえず舞台を開けるということを優先したい。また今回、由緒あるこの常楽寺(写真3-1-1参照)に新しい住職さんがおいでてくれたことでもあり、この機会によりよいお寺にするためには、みんなで協力して何かをするという気持ちが大切ではないかとわたしの考えを総代さんや地元の人たちに述べて、やっと了解を得ました。そして今度は、各地区に相談に出ていくことになりました。
 そして、横川(よこかわ)(現在の金田(かねだ)町)とか、古下田とか、田尾という各地区の会合の時に、出掛けていって、ぜひとも舞台を開けさせてくれませんか。それには、ぜひとも領家のお寺の協力が要ります。お寺が協力してくれれば、必ず地区の寺総代さんもついてますから地域の協力者が得られますと説得しました。ところが、地区に説明に行くと、それはよいと言う人もおるにはおりますが、もうやめときましょう、そんなことしないようにしてくださいと言う人が大部分でした。そんな時は、畑仕事の空いているときにまた来ますと言って帰りました。復活までにはいろいろとあり、相当あずり(苦しみ)ました。そして、愛護班(領家愛護班)を前面に立て、地域の児童を抱えている保護者を中心として、やっと舞台を開いたのが昭和56年(1981年)で、カラオケで始まりました。2年目には村芝居を復活させました。しかし、奉納芝居の舞台となる芝居小屋は今でもきれいとはいえませんが、その時は18年も開けてなかったので、もうぼろぼろでした。芝居小屋の裏なども傷んで使えないということで、昭和58年には、70人から80人の者が寄って造作しました。柱の腐ったり傷んだ所に継ぎを入れたり、雨漏りの改修をしたりして、何とか芝居ができる状態にまで持っていきました。回り舞台なども残っていましたが、それを壊すか残すかなどやかましいほど協議しました。それにしても、芝居復活の折には、素人集団で必死でした。見物人は来てくれるのかと心配で、芝居に出た時の照れ臭さを心配する間もなかったです。観客の喜ぶ顔ともらう拍手が村芝居の原点だと思い、ただもう成功させたいという一心で氏子が力を合わせました。今思えば、芝居はむらおこしだったわけです。」

 (イ)奉納芝居保存会の結成

 2代目会長で、会長辞任後も度々会長に嘱望されて、延べ8年間にわたって会長職を務めてきた**さんは、保存会の結成に至るまでのことを次のように語った。
 「最初はカラオケから始まりました。しかし、芝居小屋の施設を見ると、舞台は横幅5間(1間は約1.8m)、奥行き3間、花道は4間半、回り舞台用の奈落(*2)もある本格的な施設でした。最前列の幕はもちろんですが、中割れ幕とか最後部の幕、また何枚かの背景用のつり幕も用意され、その他いろいろな設備が整っていました。芝居小屋も観客席も常楽寺の境内ですが、芝居小屋は立派なこしらえでしたので、これを生かさねばと昭和57年(1982年)から芝居を演じました。初めは現代劇から入りました。4年ほど続きましたでしょうか。ただ、現代劇は大衆受けのする見せ場をつくるのがなかなか難しい。見えを切るとかいう場面は時代劇の方が多く、演じやすい。それに、復活5年目の『一本刀土俵入り』が大受けしまして、村芝居の原点はやっぱりチャンバラでないとということで、時代劇に切り替えて今まで上演してきました(図表3-1-2参照)。
 奉納芝居の運営も初めは愛護班を中心に始まったわけですが、住民の中には、参加する人が子供やその家族だけに制限されてしまうのではないかと危ぶむ声もありました。それに、愛護班の人は子供が大きくなると自然に身を引いていきます。そうしたら、どうしても人数が少なくなっていくのです。それで、ある程度軌道に乗った時点で、昔の方法を継承しようということで、昭和58年(1983年)『山城神社奉納芝居保存会』ができて、現在まで盛んに続いてきたわけです。わたしたちは子供の時分から芝居を見て育ったのでやっぱり懐かしくて、続けなければいけないという思いで復活してきたのです。しかし今の若い親御さんたちは、そういう経験がありませんから、そこに考えや関心の大きな違いがあります。わたしは年を取っていますから引退して早く若い人に後を譲ろうと常々思ってきたのですが、一方で若い人からは、年寄りがいないと成り立っていかないということで、ずるずると昨年(平成10年)まで保存会にかかわってきたわけです。」

 (ウ)打ち上げは最高

 現在、奉納芝居の役者として保存会を支えている**さんは、芝居を演じる者の苦労と喜びを次のように語った。
 「芝居の楽しみは、直接的には観客からの、見に来てよかったとか来年も楽しみにしているよという称賛や期待・激励の声を聞いたときです。しかし、それ以上の楽しみがあります。それは芝居を終えた後の、仕事じまいの慰労会である打ち上げです。なぜかといいますと、会員の多くは、川之江市や伊予三島(いよみしま)市の製紙会社に勤めていますので、夜勤あり、2交替ありなどと勤務時間が実に多様なのです。練習は夜の7時ころから11時ころになりますが、全体の人数の減少に加えて、こういう勤務時間の違いから全員そろうということはありません。キャスト(配役)やスタッフは決まっていても、実際は全員がそろっていないから、毎夜のように代役を立てて練習を続けていかねばなりません。役者がその夜は音響の役や大道具・小道具の係を兼ねたり、裏方がせりふを語ったりとか、それは大変です。昨夜は役者同士で息の合った演技も、今夜は代役で一転ばらばらということも起こります。セクションはあってもなきがごとしです。例年8月20日前後に台本が決定して、回し読みや読み合わせと進み、9月早々からは立ちげいこや通しげいこ、それに殺陣(たて)(*3)や音響合わせなどと本番近くまで進みますが、最終練習日のリハーサルまで全員がそろうことはないに等しいのです。時代劇の華はなんといってもチャンバラです。だから、殺陣は念入りに練習します。相手役との呼吸が合って、突きや払いなどの型が決まってくるだけに皆熱心になります。その相手役がいない不安や辛さは想像がつくでしょう。加えて、前日には駐車場のライン引きや観客用のテント張りもあります。だからこそ、芝居を終えた後には感動があり、皆との一体感が味わえるわけです。芝居を終えた後の一杯は最高です。役者も裏方もありません。皆が一緒になって、今年もよくできたとかあそこはいけなかったなあとか言い合って、それを肴(さかな)にして話が弾むのです。そのとき(打ち上げ)のために芝居をしていると言っても過言ではないですね。何とも言えない肩の荷が下りたという安心感と、今年1年これで終わったという感慨です。苦労が多かった年ほど、その感激といいますか、喜びは大きいです。これこそ芝居みょうりと言えましょう。」

 ウ 芸能継承の曲がり角

 (ア)地域コミュニティづくりに不可欠な人手

 「(**さん)今思えば、奉納芝居を復活させたころは、村づくり、町おこしの運動が盛んだったと思います。地域コミュニティづくりが地域の活性化につながる。当然のことですが、奉納芝居は苦労のかいがあって、地域の一体感を生むことができたと思うのです。地域で祭りを支える、皆が協力し合う、それはいい関係ができました。ところが、最近しだいに愛護班の人たちの出が悪くなってきたり、いろいろと手伝う人が少なくなってきました。すると、売店でのおでんの煮込みやいろいろな品物の販売、それにもちつきなどをする人の配分などが行い難くなってきたのです。領家では、各地区の総代さんに頼んで、何名かずつテント張りやもちつきに出してもらいます。観客用の大きなテント張りが1日の仕事、もちつきが1日の行事というように、祭りまでの仕事は本当に多くて忙しいのです。皆さんに喜び、楽しんでもらおうとしたことが、結果的に手を広げ過ぎてしまったのでしょうか。」
 「(**さん)奉納芝居を続けたい気持ちの人がいても、周辺の協力が得られないと、役者の負担が過重になってきます。村芝居では、演じる側と協力する側とはやはり表裏一体ですから、住民の協力が乏しくなると、演じる側の人数は少ないのに仕事量は増えてきます。だから、いろんな意味で欲求不満が募ります。一度も練習にも出てこなくて、祭りの当日だけ出てくる人も多くなったし、平素出てきて手伝うというような、そんなボランティア精神も乏しくなってきて、後押しする人が少なくなったのです。祭り当日には、にぎやかに人は来るには来るが、それまでは遠のいている。だから、役者連中は自分のかかわる芝居以外の部分の仕事も降りかかってきて、負担が大きくなってくるのです。まあ、せっかく復活させて18年もたったわけだから、どこかで次につながる新しいものを考えていかねばと思います。」

 (イ)新たな視点での再復活を

 **さん(川之江市金田町 昭和28年生まれ 46歳)
 奉納芝居復活2年目(昭和58年)から、22本の作品(うち11本はオリジナルの脚本)の演技指導もし、また自らも出演してきた**さんは、奉納芝居の意義や脚本執筆にかけてきた思いと将来の展望を次のように語った。
 「村芝居の魅力は、やはり客席との連帯感の強さでしょう。だから、観客の反応など想像しながら書く脚本は楽しいと言えます。村芝居は、演じる方も見る方もまずは楽しむことです。復活5年目から時代劇になりましたが、チャンバラ(写真3-1-3参照)はやはり村芝居の原点だと思います。わたしの脚本に欠かせないのは、笑いと涙、そしてクライマックスです。キーワードは『情け』です。しかも、どんなパターンであれ、地域に根付いた芝居を安心して見てもらうことが必要と考えています。
 奉納芝居復活18年、とはいえこの間さまざまな困難もありました。それを乗り越えて続けてきました。ところが、ついに今年(平成11年)7月の総会で、現在の形での奉納芝居は今年限りで終えることになりました。そこで、急きょ台本を書き換え、役者の村芝居への思いも織り込んだ涙と笑いとチャンバラの人情時代劇『股旅(またたび)物語』という作品を仕上げました。むら人の芝居にかける思いも盛り込んでいます。例年同様お客さんにも楽しんでいただけたものと思います。
 村が日本から消えつつあるといわれますが、この地域は村がしっかりと残り、村の人々のお陰で18年にもわたって奉納芝居を中心とした祭りを続けることができたのだと思うのです。しかし、わずか100戸足らずの領家の住民が、過疎化や少子化、それに高齢化の進むなかで、村芝居をメインとした祭りを継続するのは大変なことです。奉納芝居が有名になればなるほど、多くの無理をしてきたのも事実です。今後については、時間をかけて検討していくことになるでしょう。幸い、声が掛かればいつでも舞台に立てる芸達者はたくさんいます。こうした人々とともに、18年の経験を生かし、現状に合った組織づくり、練習内容、公演方法等を見つけたいと思います。また、村芝居を復活させた重信町や松前町の皆さんの取り組みからも多くのことを学びたいと考えています。毎年、この芝居を楽しみにしてくれている地域の人も多数います。村芝居に出たり見たりしながら育った若い世代もいます。近い将来には再復活がなるものと信じ、期待もしています。」


*1:僧侶が新たに一寺の住職になること。
*2:劇場で、舞台や花道の下の地下室。回り舞台やせり出しの仕掛けのある所。
*3:演劇や映画で、斬り合いや捕り物などのような乱闘の場面や型。立ち回り。

写真3-1-1 山城神社と常楽寺

写真3-1-1 山城神社と常楽寺

①山城神社、②芝居小屋、③観客席、④常楽寺、⑤僧坊。平成11年10月撮影

図表3-1-2 山城神社奉納芝居上演一覧

図表3-1-2 山城神社奉納芝居上演一覧

**さん提供資料より作成。

写真3-1-3 チャンバラの奉納芝居

写真3-1-3 チャンバラの奉納芝居

平成11年10月撮影