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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)ため池の恵み

 **さん(北宇和郡三間町戸雁 昭和18年生まれ 55歳)
 **さん(北宇和郡三間町戸雁 昭和5年生まれ 68歳)
 米づくりには水が欠かせない。水田の湛水(たんすい)(水をたたえること)期間は人力田植えで90日から100日であったが、田植機の普及により稚苗(ちびょう)移植では110日から115日必要といわれている。取水源は河川からの取水が全国的には圧倒的に多いが、次いで多いのがため池(*6)からの取水である(⑤)。
 三間町の月平均降水量は141.5mmであるが、急しゅんな渓流が多く、瞬時に流れ去る保水能力のない土地柄のため、農地のかんがいは三間川及びその支流の水と各所に造られたため池の水に頼っている。現存するため池の総数は108か所で、その水利については、各地区で協議決定され、水利係(水番)の責任において公平に分配されている。特に藩政時代に構築された池については、明暦・万治・寛文年間(1655~72年)にかけて『御池帳』(池に関する取り決めを載せた帳簿)が整備され、現在も公平なかんがい用水の分配の基礎となっている。
 三間町黒井地(くろいじ)にある中山池は北宇和郡内一の広さと水量を誇っている(口絵参照)。同地の太宰遊淵(だざいゆうえん)が寛永4年(1627年)に工を起こし同7年に竣工したといわれている。工事の規模は予想外に大きく難工事であったため、遊淵の苦悩も一方(ひとかた)ではなく最後には現在彼の墓地のあるところに静座して、鉦(かね)を打ち鳴らしながら阿弥陀(あみだ)の称号を唱えて完成を念じたが、竣工の日にそのまま入定(にゅうじょう)(逝去)したと伝えられている(⑥)。
 中山池のかんがい慣行について**さんと長年にわたり水利組合長を務めている**さんに話を聞いた。

 ア 遊淵さんのおかげ

 「(**さん)三間町は、北山(宇和町との境の山の呼称)を挟んで宇和町と境になっとりますが、北山の水の大半は宇和町側に流れ、こちら側には水はあまり出んのです。そのため、この中山池の水は本当に貴重な水になっとります。中山池の水は後がありません(限界があります)ので、皆が平等に大事に使わなくてはならんのです。水の出し加減には気を付けてきたんで、今までに水が無くなったことは一度もありません。こうして水があるのも遊淵さんのおかげです。中山池の決まりは、池ができた時から決められた通りに守られています。水の配分の仕方や堰(せき)の高さまで、そのしきたりは何百年も続いているんですよ。とにかくけんかをしないように、平等に配分するように決められとるんです。ですから遊淵さんを大事にして、毎年お祭りをして感謝をするわけです。」
 「(**さん)遊淵祭は、最近は9月23日の秋分の日にやるようにしとるんです。
 今は簡単なことになって本当の儀式的なことはできんのですが、一応遊淵さんのお墓(写真1-1-9参照)の前で拝み、お礼のごあいさつをしています。祭りには、それぞれの地区から10人程度の人が出ていますが、人選については区長さんに任せとります。戸雁の場合は、各役員と各組の組長さんが出るようになっとるんです。代表者が午前8時ころに集合して、遊淵さんのお墓をお参りし、その後は大雨が降らん限りは必ず池の周囲を皆で1周し、池と個人の土地の境界線(境界杭(さかいぐい))を確認しながら池の悪い所があったらここをどうするかなど話し合ったりして、池の状態を皆に知ってもらっています。これが池の状態を皆に知ってもらう一番良い方法なんですよ。そして最後はわたしが中山池改修の記念碑の所であいさつして、終わりにしてます。遊淵さんの話は、子供たちは聞いてはいるんですが、詳しくは知らんようです。伝えねばならんと思っとります。」

 イ 水を回す

 「(**さん)中山池の水は中山池水利組合長が全責任を持って管理しているんです。問題のある時には、3地区の区長さんと相談してやっています。
 池の水は、戸雁(とがり)、宮野下(みやのした)、迫目(はざめ)、務田(むでん)に流されていますが、務田は迫目から一部を取水しているということで、務田は迫目の中に含め、水は3地区が分けて使うことになっとるんです。昔からの言い伝えによって、戸雁が中山池の責任は持つということで、水利組合長は戸雁から出し、栓抜(せんぬ)きは宮野下から出すようになっとるんです。この言い伝えをいまだに守り続けているわけですよ。池の栓は、中干しの時を除いて、いったん抜いたら雨が降らん限りずっと抜きっぱなしです。
 中山池の栓を抜くことの権利は耕地面積の一番広い戸雁が持っとるんですよ。戸雁の人の協議によって栓抜きの日は決まるんです。栓はこのごろは5月25日に抜いとるんです。池の栓は2か所にあって、そのうちの1か所の黒井地側には栓口が五つありますが(おもに黒井地地区に流す)、あまり抜くと戸雁側に必要な水が流れなくなるので、最後の栓までは抜いたらいけんようになっとるんです。大きい方の戸雁側の本栓からは、3地区が取水してるんですよ(写真1-1-10参照)。堰(せき)は、戸雁に『もあい』という大堰が一つあり、修理は3地区でしています。小堰は戸雁に8つと宮野下に5つあり(図表1-1-3、写真1-1-11参照)、小堰は全部戸雁が修理をしてるんですよ。水の配分は昔からずっと決まっていて、協議は一切できません。栓は午後2時に抜きます。池の水を抜いたら必ず先ず戸雁が取るんですが、午後6時から24時間は戸雁が取るんです。次に宮野下が24時間取り、それから戸雁が12時間取って、迫目が24時間取るように決まっとんです。そして戸雁に戻って24時間取るというサイクルで水は配分しとるんですよ。この配分はあら水(田植えのころに必要な水)の時から穂水(出穂のころに必要な水)まで終始変わらんサイクルでやっとるんです。昔から戸雁では、24時間取水できる時には白旗を上げ、12時間取水の時には赤旗を上げておくことになっとるんですよ。水を取るということは、各地区に堰板があって、そこで出したり止めたりするんですが、順番が来たら地区の水番が、その時間に堰板を調節して自分の地区に流れるようにしていくんです。切り替え時間になると旗を立てとる所で水のバトンタッチが行われるんですよ。これは昔から確実に守られていて、わたしが子供の時分に『旗が立っとるから水取り行けや。』と言われて親の手伝いで水引きに行ったことを覚えとります。いちいち触れて回らんでも旗を見れば戸雁水、旗が無い場合はよその水ということが分かるようになっとるんです。よその地区も同じようなことをしてるんですよ。
 中山池の水は、川から引いてくる水と、池の上の山から流れ込んだ水がたまってますが、主には東谷という谷の川を大雨が降ったら堰き止めて導入しとるんです。池の水は堰口に板を入れて水を止めてためていくんですが、池のすぐ下の黒井地の家が災害にあう心配もあったりして、昔は八十八夜の何日か前までは水を止められないことになってたんです。今も堰板と同じ高さの所に栓口を作り、その栓を抜きっ放しにして、満水になるまで水をためられないという決まりがあるんです。このように普段は山水だけの貯水で、池の水は抜きっぱなしですから、日照りが続くと底をついてくるんです。後どれだけすると池の水が無くなるかということを見当つけて、最も水を必要とする穂水に何日ぐらい要るかを考えて、最悪の場合は水を止めることもあるんです。すり鉢状の池では、水面から50cmの深さの水というのは、ものすごい水量になるんですよ。それが例年と比べてたまっておらず水が足らんことは分かってたんで抜くのを1週間遅らしたこともあるんです。
 3、4年前の日照りが続いた時には協議して止めたこともあります。池の水は冬場にたまるんですが、あの時は冬に雨が降らず水がたまっとらんでした。中山池の水が無くなることはめったにありませんが、20年ぐらい前の大干ばつの時には池の水がほとんど無くなって、川の水を全部ポンプでくみ上げたこともあります。水争いはありませんね。雨ごいも私が覚えている限りではありません。」


*6:ため池は昭和47年(1972年)ころ全国に11万ほどあり、愛媛県でも昭和52年ころには3,200余りもあった。

写真1-1-9 太宰遊淵の墓

写真1-1-9 太宰遊淵の墓

中山池の近くにある。平成10年7月撮影

写真1-1-10 中山池の栓口

写真1-1-10 中山池の栓口

戸雁側の栓口。平成10年7月撮影

写真1-1-11 小堰

写真1-1-11 小堰

横田という名称がついている。平成10年7月撮影

図表1-1-3 堰の位置と名称

図表1-1-3 堰の位置と名称

**さんの原図をもとに作成。