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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)黄金(こがね)の波を夢みて

 **さん(北宇和郡三間町元宗 大正10年生まれ 77歳)
 **さん(北宇和郡三間町戸雁 昭和5年生まれ 68歳)
 米づくりは、米という字を崩して「八十八」の手間がかかるといわれてきたが、苗代(なわしろ)づくり、田植え、除草、病虫害の防除、稲刈り、脱穀など気の抜けない仕事の連続であった。しかし、農業機械や農薬が普及した今日、労力は大幅に軽減され、昔の苦労した米づくりの様子はしだいに忘れ去られようとしている。
 **さんは早くから農業に従事し、一時兵役のため中断するが、昭和21年(1946年)に復員して以来、今日まで、1町8反(1反は約10a、1町は10反で約1ha)の田を耕作する篤農家(とくのうか)であり、元宗(もとむね)地区で行われた第1次農業構造改善事業(昭和40年〔1965年〕着工、昭和43年竣工(しゅんこう))のリーダーとして活躍した。また**さんは、戸雁(とがり)地区で生まれ、幼くして両親を失い祖父と共に農業に従事し、現在は約7反の田で夫と共に米づくりに励んでいる。この二人に、太平洋戦争前から戦後にかけて機械化が進む以前の米づくりの様子を聞いた。

 ア 苗代づくりからもみ摺(す)りまで

 (ア)苗代づくり

 苗代づくりは、水稲が直(じき(か))播(ま)き栽培から移植栽培にかわった奈良・平安時代ころから始まったといわれているが、健全な苗を育て秋の収穫を高める重要な作業であった。
 苗代の最も古くからの方式は「水苗代(みずなわしろ)」である。この方式は、常時水をたたえるため、雑草の発生や鳥害を軽減させるが、保温を水に頼るだけであるため、苗の根張りが弱く活着も遅い。一方、「畑苗代(はたなわしろ)」も行われたが、この方式は根張りが優れ活着のよい丈夫な苗ができるが、雑草や鳥害が多いという欠点があった。そのため、苗代づくりは、水苗代と畑苗代を折衷(せっちゅう)した「折衷苗代」や「保温折衷苗代」など、しだいに工夫が重ねられていった。しかし、今日では田植機が普及し、苗は主に「育苗センター」などで育てられている(①)。
 「(**さん)苗代は、水たまりがよく水持ちのいい田で、自分の耕作に必要な苗を立てることができるくらいの広さの田を選んでもみをまいとりました。それで、苗代田は大体は決まってたんです。普通は水苗代でしたが、畑苗代にすることもありました。苗を立てる土地は、前もって耕して、4尺(1尺は約30cm)ぐらいの幅の短冊状の区画にして、縦の長さは田の区画によって決まります。
 苗代は、水をためて、こぶり(土を踏みつけこねること)、区割りをしたら、昔は苗代下駄(げた)(写真1-1-1参照)という下駄で、ゲンゲ(レンゲソウ)を肥料として踏み込んどりました。ゲンゲを具合よく下駄で踏み込み、その上に泥を乗せるのにはこつが要りましたが、ゲンゲを踏み込んだら柄振(えぶり)(穀物や水田の土を平らにするのに用いる農具)で土を水平にして2、3日ほど田を干し、再び水をためてもみをまきよりました。まくもみは、前もって、俵などに入れて発芽しやすいよう水に浸しましたが、腐る恐れのある井戸水などのたまり水でなく、絶えず水の入れ代わる川の水につけて胚(はい)の活性化を図るようにしとりました。田にまく種もみは、刈り取る前から決めており、そのもみは日干しにはせず、陰干しにして保存しとりました。
 苗立は、約40日ほどですが、あまり老化する(成長しすぎること)と、根張りが良すぎて苗取りに力が要ります。適当な時期に、元気の良い苗を取るようにしなければなりません。
 苗代は、詰めて苗を立てると、ひょろひょろの弱い苗ができます。薄くまくと、根張りが良すぎて苗取りに苦労しますし、苗もそろいません。それで、もみをまく時には一坪(約3.3m²)に何合のもみをまくか、その割合に工夫が要ったんです。苗は植える人の好みや、苗を取る人の好みもあって、いろいろと考えながら苗を立てねばなりません。あれやこれやと考えて、それぞれの家の工夫で苗を立てとりましたが、わたしは、一坪に4合(1合は1.8dℓ)ぐらいまいていましたが、後には3合をまきました。寄り合いなどで情報交換しながら、1年1年の積み重ねで自然のうちにまく量は決まり、次第に薄まきになりました。畑苗代にまいた苗は、成育が非常に良かったんですが、その代わりに、田に植えて肥料が効き過ぎると、イモチ病(*1)やツマグロヨコバイの発生で萎縮病(いしゅくびょう)(*2)になりやすく、そのために畑苗は普及しませんでした。苗代の肥料は、はじめゲンゲを使っとりましたが、やがて綿実粕(わたみかす)(綿を取った後の実を肥料としたもので、肥料の3要素がそろっていて良く効いた)が売り出されると、それを自分の家で過燐酸石灰や加里(かり)肥料と配合して苗代に入れとりました。また、もみをまいた後には、発芽の状況を見ながら魚肥(ぎょひ)などもやりました。
 苗代は、種まきしてそのまま放置していたらとても苗にはなりません。絶えず水の具合を調節しなければなりません。深水にしておくと、苗がよれて(ねじれて)しまって、根が上に出てぐしゃぐしゃになりますので根干しをします。また、根干しをして夜そのままにしておくと、野ネズミが来て食べますし、昼はスズメにも注意しなければなりません。ウンカ(害虫の一種)もわくし、メイチュウの蛾(が)が飛んで卵を産みつけに来るのでこの駆除も辛抱強くやらにゃいかんのです。戦前には、小学校の子供たちが、蛾1匹取るとなんぼということで取ってくれたり、イネの葉っぱに産みつけた卵を取ってくれたりしてました。
 田植えに手ごろの苗は、根の部分を除いて手のひらの長さの7寸(1寸は約3.3cm)ぐらいに成長した苗です。そのぐらいが束にしやすく植えるのも楽でした。」

 (イ)代かき

 代かきは、田に水を入れた状態で土の塊(かたまり)を細かく砕き、表面の土を柔らかくして田面を平らにする作業である。田面が凸凹であると、田植えが難しく、田植え後に水を入れた時にイネが沈んだり、水が届かなかったりするので、これを防ぐ代かきは極めて重要な作業であった(②)。
 「(**さん)人によって差がありますが、牛を使って田を耕す場合、牛は綱を引っ張る方に回るように訓練しているんです。田の周囲を先にざっと1回かいて、その後に牛を回しながら中をかいていくんです。鋤畝(すきうね)(鋤で土を掘り起こして盛り上げた畝のこと)を一つ飛ばしにして、牛を大まかに回すようにしてかいていくんです。最後に周囲をまた2回ぐらいかいて終わります。代かきは水が入っているんで高低が分らず本当に難しいんです。均一にならすのは大変難しく、技術差が出るんです。ベテランはその必要がありませんが、下手な人や仕事のねんしゃな人(丁寧な人)は柄振で後をならしておりました。」

 (ウ)早苗(さなえ)取り

 「(**さん)田植え前の早苗取りは、主に女の仕事でしたが、取り方によって田植えの能率も違いますので熟練が必要なんです。よく泥を取っておかないと、植えるときに苗が簡単に外れず、田植えの能率が悪くなるんです。早苗を縛るわらを苗代に適当にばらまき、100本ほどの早苗を取るとひとまとめにして縛って束にし、運びやすいようその束を10束ずつまとめて後ろに置いていきます。終始、いすに座って、うつむいて取る作業ですので、腰が痛くて痛くて大変でした。早苗は、田植えの広さによって取る量のめどをつけ、前日から取るときもありました。今はいなくなりましたが、この戸雁にはヒルがいっぱいおって、特に苗代にたくさんおり、苗取りは、ヒルが寄って寄って困っていました。これを防ぐためには、靴下があればそれを履いたりしていましたが、じばん(和服の下着のこと)の端の気付かん所に知らん間に吸い付いていかんかったです。ヒルは血を吸うだけ吸うと真ん丸になって落ちますが、その後は痒(かゆ)くて痒くていかなんだです。特に治療法はありませんでした。」

 (エ)田植え

 手植えのころの田植えは、稲刈りと並んで多くの労働時間を要し、水掛かりの関係もあって短期間に植え付けねばならない厳しい仕事であった。そのため、田植えは共同作業として行われる場合が多かった。また田植えの方法には、田植定規を転がして植え付け、目盛りを表土につけてから植える「型付け法」や、目盛りの付いた縄を張ってこれに沿って植える「縄植え法」などがあり、植え方には目盛りに沿って前進して植える方法と後退しつつ植える方法があった(③)。
 「(**さん)田植えは、水がなくてはできません。田植えの水は、水の流れる上(かみ)から順番という決まりがありました。池の水には限りがありますので無駄にはできません。植える時は一斉に植えないといけません。順番を逃すと後回しになってしまうんです。田植えは、短時間にしないといけませんので、近所の気の合う仲間とイイレ(結(ゆい)のことで、互いに人手を貸し合うこと)をしたり、それでも人手が足らない時は、人を雇ったりして植えました。田植えほど忙しいものはありませんでした。田植えは、朝6時ころから始めましたが、午後4時か5時ころには終わるようにしてました。あまり終わるのが遅いと評判が悪かったもんです。
 代かきが終わると、田植えになるんですが、田の状況を考えながら芯縄(しんなわ)を張り、その縄に合わせて横縄を張って2列ずつ植えていきました。横縄の張り方が悪いと、後の草取り作業に支障をきたすことになります。田植えは主に女の仕事でしたが、田の両端に一人ずつ立ち、中には二人ずつの組をつくって植えていきました(写真1-1-4参照)。植える時は、右利きの人は、苗の束を左に持ち、2、3本ほどの苗を順々に繰り出し、その苗を右手で素早くつかみ、泥の中に3cmほど真っ直ぐに差し込み植えていったんです。」
 「(**さん)わたしの家では、植える田が多かったんでイイレはせずに人を雇って田植えをしとりました。雇う人は毎年決まっていて、出水(でみず)(水が流れて田植えができる状況になること)の関係で早く田植えの終わった人や、耕作面積の狭い人などに来てもらっていました。田植えは、7畝(せ)植えといって、一人が1日にだいたい7畝(1畝は約1a)の田で田植えをすることができるとされていましたんで、植える田を勘案して人を雇ったんです。人の雇い方には請負と日役(ひやく)という二通りがあったんですが、その雇い方によって、田植えの成果に差も生じたんです。植える量は、田の大小や区画の善し悪しなどでも差が出るんで、その辺のことも考えていかねばならず、人を雇うことはなかなか難しかったんです。結局、普通は1日幾らという日役で、人を雇っとりました。雇う人は、縄を引く男性二人と、苗取りさん、苗持ちさん、植え方の女性を幾人か雇いました。元宗地区では忙しい時は共同炊事がありました。共同炊事は、耕作面積の多い人たちが組をつくってお金を出しあい、昼と晩におかずの炊き出しをしてもらう制度です。働き手は、三間町生活改善グループの人々で、宇和島市の方からも来て手伝ってもらったこともあります。」

 (オ)除草

 「(**さん)田植え後は、見回りをして浮いた苗などを直す『植え直し』をしました。田植えの1週間後、イネが根付いたころから、田草(たのくさ)機械(田の雑草を除去する道具、コロガシともいう)で田草つき(田草取り)という仕事が始まります(写真1-1-5参照)。田草つきはまず田の縦か横の一方を1列ずつやり、その後1週間くらいたってからもう一方をやり、それをもう1度繰り返す、合計縦2回、横2回行ったんです。その後は、止め草と言って田草機械では取れなかったイネの根元の草を、人がはいながらかき取り、かき取った草は腐らすために泥の中に突っ込み、表面を手でならしながら進む作業をしたんです。炎天下の水中の作業で、一日中、四つんばいの姿勢で作業をするんで、腰がすごく痛く、ヒルに吸われたりして大変でした。こうした止め草の作業は2回行い、7月24日の和霊様(宇和島市の和霊神社)のお祭りのころにはやめました。」
 「(**さん)田草取りは、反別(田の耕作)の少ない人は2回も3回もはっていましたが、とてもじゃありませんが重労働で、私の家では1回だけでした。また、年寄りなどで、はうことができん人は、ハッタンズリという道具(写真1-1-5参照)を使って草を取ってたんです。田草下駄という道具を使って、草を踏みつけて泥の中に押し込んだこともあるんです。田草取りの時期は、遅くともお盆の前まででした。あまり遅くまで田に入っていると、イネの根を切り成長に差し障りますし、イネの葉が顔に当たり、はしかくて(かゆくて)いけませんでした。昔は辛抱強く草取りをしたものです。ハナカズキ(稲の花をかぶるという意味)といって、イネの穂の花が咲いても、田に入って草を取っていた時もあるんです。草取りは農民の性(さが)といいますか、しないと気分的に落ち着けず安心できんもんで、『もうやめなはいや。』といっても『やっぱしのう、草の生えたところ見ると、やらんわけにいかんけんのう。』といった具合で草を取ってたんです。」

 (力)病虫害の防除

 イネの病気の中で主なものは、イモチ病、紋枯病(もんがれびょう)(*3)、萎縮病などである。中でもイモチ病は成育全期に発生して被害が大きい。また虫害では、メイチュウ類やウンカ類の被害が多い。メイチュウ類の幼虫は茎に食い入ってイネを枯らし、ウンカ類のトビイロウンカは、幼虫、成虫ともにイネの汁液を吸い、大発生した時には数日で田全体のイネを枯らしてしまう(②)。
 「(**さん)害虫は、主にメイチュウとウンカですが、メイチュウは手でつまむより他にどうしようもなかったんです。ウンカはぬかのような小さな虫ですが、それがわく時には大発生して、一晩の内にイネをきれいに枯らしてしまうんです。農薬ができるまでは、油をまいていました。ウンカは水の上に落としても飛び立つことができますが、油が付くと重くて飛び立てずにそのまま死んでしまうんです。油を落とす道具である油さし(写真1-1-6参照)は、じいちゃんが作っとりましたが、モウソダケ(孟宗竹。日本で最も大形の竹)を1mぐらいに切り、中の節をきれいに取り除き一番下の節は残してそこに小さな穴を開け、その穴を竹筒の上から通した細い心棒でふさぎ、その心棒を、上から具合よく調節しながら、油を落とすという道具でした。この道具で油をぽちぽちと落としながら田の中を歩きましたが、調節を誤ると油がいっぺんに落ちるので要領よくやらなければなりませんでした。油は菜種油か重油を使っとりましたが、日が照るとウンカが元気になり飛んでしまうので、朝露で羽が濡(ぬ)れている時に、男が油をまき散らしていき、その後を葉っぱの付いた雑木やタケをまとめて束ねたもので、女がイネを払ってウンカを水面に落としていきました。ウンカがわいているかどうかは、絶えず見て回りましたが、イネの元のところをパンとたたくと、ウンカが水の上に落ちるので、その状況が分かりました。また田のミト(水の出口のこと、入口はイグチという)にウンカの死骸(しがい)が流れ着いている加減で、わいている状況を判断したものです。」
 「(**さん)メイチュウは春先に卵を産みますから苗代の段階から取ってたんです。戦後すぐは、誘蛾灯(ゆうがとう)というものがはやり、夜になると蛍光灯を点灯して虫を集め、その下に水と油を入れた水盤(すいばん)を置き、落ちた虫を殺しとりました。誘蛾灯はこの元宗地区には15か所ほど(2町に1基の割合)設置しとったんですが、一つ一つの誘蛾灯には組をつくって毎日水と油を換えていたんです。物の無い時代じゃったんで、電線が夜のうちに盗まれたりしたこともあったんです。その後は薬剤が市販され、噴霧器を背中に背負ったりして薬剤を散布し駆除するようになったんです。」

 (キ)中干(なかぼ)し

 田植え後3、40日を過ぎ、分けつの発生が峠を越して無分けつ期に入ると、イネはあまり水を必要としない時期になる。このころになると、気温も上昇して、土中の有機物が分解して有害なガスが発生するので、ガスを発散させ、イネの根に酸素が入るようにするため、田の水を落とし中干しをする(④)。
 「(**さん)止め草をすると同時に、水を切って(田に水を入れない)、田を干すんです。これを中干しといいますが、期間はだいたい10日です。この間は池の水は止めておきます。池の水はとても大切に使いました。中干しの理由は、台風の接近もあり、イネの倒伏(とうふく)(たおれること)を防ぐために、イネの根に酸素を送り、イネを丈夫にするためです。田が乾くと、ひび割れができて根が空気に触れ、イネが丈夫になるんです。あまり水ばかりにつけておくと根腐れを起こすんですよ。その後は再び水を入れたり止めたりしますが、オシャンニチ(社日。秋分に最も近い戊(つちのえ)の日のこと)のころには水切りをして、稲刈りに備えるんです。」

 (ク)稲刈りと脱穀

 「(**さん)稲刈りは、各自の家で行ったんです。私の家は2人でしました。田植えと違って急ぐことはありませんのでイイレはしませんでした。稲刈りは、鋸鎌(のこがま)(刃がのこぎり状になった鎌)を使いましたが、うつむく姿勢が長くとても腰が痛かったです。三間町は昔から稲木(いなぎ)に架けることはせずに地干(じぼ)しにしてました。稲木に架けないのでイネを束にする必要もなく、5株ほどをいっきに刈って並べ、刈り取ったイネは2日ほど日干しにしてから、しんなりした(やわらかくしなやかになった)ところを、チガイ(数本のわらの穂の部分と穂の部分を縛ったもの)で束ね、それを夕方までに田んぼの真ん中に積んで置いとくんです。昭和30年(1955年)ころは、まだ足踏み脱穀機(写真1-1-7参照)を使うとりましたから、提灯(ちょうちん)をつけて、午前3時ころから稲扱(いねこ)きに行ったもんです。そうしないと、はかどらなんだです。扱いたもみはトウシ(フルイにかけてわらくずを排除すること)もせにゃいかんかったし、運ばにゃいかんし、わらの始末もせにゃいかんかって、遅く始めると間に合わんかったんよ。わらは、小さく東ねて穂先の部分を縛り、根の部分をぱっと開いて乾かし、1週間ぐらい十分に干した後に、わらぐろ(わらを保存するために積み重ねたもの)にしたんです。わらを十分に乾かさないでわらぐろを作ると、わらが蒸れることがあるんです。そこで雨が降りそうになると、いくら稲扱きで疲れとっても、真夜中でも田んぼに行って、立てぐろ(*4)を作りよったんです。わらは、牛の飼料としても大切なものでしたが、当時の貴重な副収入になっていたむしろを編む材料になっとったんです。むしろ作りは主に農作業の無い冬の仕事でした。俵にもしたんですが、俵編みは夏の仕事で、その年の米の収穫量を想定して編んだもんです。」

 (ケ)もみ摺り

 「(**さん)もみ摺りは本職のもみ摺りさんに頼んでました。もみ摺りの日は、親戚(しんせき)連中を中心にイイレをして助け合いました。もみ摺りさんは機械が重たいんで、飛び飛びにはやらず、計画的に続けてやれるように近所でまとめてするようにしてたんです。
 もみ摺りは俵詰めもしなくてはならず大変でした。夏摺りというのをやったこともあります。すぐ食べる分だけ秋にすって、後は冬をもみのまま寝かせて、翌年の8月か9月の端境期(はざかいき)(古米に代わって新米が出回ろうとする時期)に摺ったこともあったんです。このやり方は、その後米価の買い上げ価格が一定に定められると、意味がなくなりやめたんです。終戦直後のやみ米(食糧管理法に違反して流通する米)が出回った時期には、食用に耐えられる米はすべて売って、わたしらは、米選機下のうまくない米(米を選別する機械から落ちた不良米)を捨てるにしのびず食べてたんよ。」

 イ 牛についての思い出

 農村でどこでも見られた牛が姿を消して久しい。牛についての思い出を**さんに聞いた。

 (ア)飼育

 「わたしは牛が好きでした。耕作も多かったんで2頭も飼ってたんです。繁殖牛も飼ったことがあり、全部で4頭ほどいた時もありました。稲作には何といっても牛が一番重要な役割を果たすんで、いい牛に当たるのと悪い牛に当たるのとでは大違いでした。いい牛は、性格的におとなしい牛ですが、これは難しいという牛は早く取り替えとりました。牛の飼育は、放牧じゃなく駄屋飼(だやが)いでした。いつも駄屋(牛や馬を飼う建物)に入れておくと、湿気で足のひづめが柔らかくなり、田では使えなかったです。そこで田を鋤(す)かんといけん時期が近付くと、前もって牛を外に出して、足の鍛練をしたり、体を日光にあてて、慣らしておくというような訓練をしていました。わたしは牛を1本綱で号令をかけて動かしていたので、日ごろからその調教も大切でした。牛はあんまり肥えすぎたら弱いんです。朝や晩には外に出して運動させていましたが、突き合いの好きな牛は、突き合いをさせたりしたこともありました。また、季節によっては、駄屋の後ろに積んだ堆肥(たいひ)が発酵したり、牛に食べさす飼料によってふん尿(にょう)が発酵したりしてガスが発生し、駄屋に牛を長く閉じ込めていると、反芻(はんすう)をようせんようになり、消化不良を起こすんです。そうなると腹が見る間に膨れあがって死んでしまうんです。秋ぐちになり気候がよくなると、食べものも多くなって育てやすくなるんです。そのかわり、太らすために大豆粕(かす)などの濃厚飼料をあまりやり過ぎると、反芻の障害を起こします。野菜くずなどいろいろなものを混ぜて、食べさすようにせんといけんのです。」

 (イ)売買

 「牛を飼う人は、牛を太らせて農耕にも使うし堆肥も取るが、肉付きが良くなり高く売れるころになると売り払おうとする人と、いったん気に入った牛は、ずっと飼って使い続ける人と、いろいろでしたが、普通の人は適当な時期に肉牛として売り、利益を取っとりました。そのため、秋の耕作に使える牛、5月に使える牛と、計画的に考えて飼育し、次々と牛を取り替えとりました。
 牛は馬喰(ばくろう)さんの世話で買いました。馬喰さんはよく知った土地の人ですから、大体各家の今までのやり方が分かっとりましたんで、『おまえんところの牛は肥えたじゃないか、やり替えんか、ええ牛連れてきちゃるぜ。』と声がかかり『おとなしい牛を連れてきてくれや。』と言う具合で買い替えとりました。購入する牛は主に豊後(ぶんご)(大分県)から多く入っとりました。いっときして肥後(ひご)(熊本県)の牛も入ってきましたが、肥後の牛は赤牛で、おとなしくて飼いやすいが、日光に弱いと言うとりました。」

 (ウ)牛の使役

 「仕事に使う牛は、第1番に足を丈夫にすること、つめを硬くすることが大切です。そのために、農繁期が近づくと外に出してつないで日光にあて、足のつめ切りをするんです。そして、人や物に慣れさせるようにするんです。準備をせずに牛を田に入れると、鋤を付けたままポンポンと飛び跳ね、田をめちゃくちゃにはするし、人にけがを負わせたりすることもありました。
 牛の使い方は、進めは、『ホイホイ』と連呼して手綱(たづな)を牛の横腹に振り当てるようにします。左に回す時は、『オリオリ』と連呼して、手綱で軽く横腹をたたくと同時に手綱をちょくちょく引きます。右に回す時は、『ホイホイ』と連呼して手綱を引きます。後退は『アトアト』と連呼して、鋤を引っかけている鞍(くら)を一緒に牛の体に感じるようにちょっと後に引きます。止まれは、『モウーモウー』と言いながら手綱を引き締めるんです。
 うまく使いこなせない牛は、2本綱で扱っていたんです。使い込んだら1本綱でやるんです。牛は特に水田に入ることを嫌がるんです。田を多く耕作している者はよっぽど牛を大事にしとかんといかんのです。水田での作業が一番エネルギーを消費するんですよ。人間もこたえるんですが、牛も目に見えてやせていくんです。水の中で引っ張り回すんで足がこたえるんです。牛の回復は大豆粕のような非常にたんぱく質の多いものを食べさせず、小麦粕のような淡泊な味で力になるようなものを食べさせるんです。疲れている時は、濃厚なものは食べさせたらいけんのです。牛は反芻せんといけんので、咀噌(そしゃく)する力がなくなるとガスがつく(たまる)んです。
 お田植えが済んで田休み(*5)の折には、わたしのとこは、餅(もち)(ここでは小麦粉で作った蒸しパンのようなものを指す)を作って、第一番に『お世話になったのう。』と言うて牛に食べさせていたんです。」


*1:イネにもっとも大きな被害を与える病気で、昔は冷害の年などに激発し飢饉の原因となった。葉での発病がひどくなると
  成育が止まり、穂が侵されると白穂となる。
*2:株全体が萎縮して分けつ数が多くなる病気で、萎縮ウイルスを持ったツマグロヨコバイなどによって媒介される。
*3:おもに葉鞘(ようしょう)に発生する。とくに発生の多いときには葉や穂首に発病し灰褐色になって腐る病気。
*4:わらの保存方法の一つで、わら束を5束ほど寄せ集め、そのわら先を締め結び、その上に別のわら1束を水が入らぬよう
  にかぶせたもの。
*5:地域の田植えが終わると、地域が一斉に田休みの日を定め、すしや餅などを作って休養した。

写真1-1-1 苗代下駄

写真1-1-1 苗代下駄

平成10年11月撮影

写真1-1-4 芯縄と横縄

写真1-1-4 芯縄と横縄

左が芯縄、中央と右が横縄。平成10年7月撮影

写真1-1-5 田草機械(上)とハッタンズリ(下)

写真1-1-5 田草機械(上)とハッタンズリ(下)

平成10年11月撮影

写真1-1-6 油さし

写真1-1-6 油さし

各自で工夫して作った。平成10年11月撮影

写真1-1-7 足踏み脱穀機

写真1-1-7 足踏み脱穀機

平成10年7月撮影