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愛媛の景観(平成8年度)

(2)小田深山は今

 上浮穴郡小田町の小田深山(おだみやま)はその名が示すように、四国では最も深く広い原生林に覆(おお)われた地帯であった。その歴史については詳しくは分からないが、古くから木地屋(きじや)(*8)が定住し、明治12年(1879年)には13戸が木地挽(きじび)きを生業としていたという。その後、営林署による伐採事業が始められ、明治末年には山中に集落が形成され、芝居小屋ができるほどの賑(にぎ)わいをみせたという。昭和中期まで残されていた深山の原生林も伐り尽くされ、植林地域の伐採が進められている。しかし渓谷沿いや景勝地の森林は残されていて、自然林の面影は失われず、木材搬出のために建設された林道や、明治末年に陸軍の砲兵演習場となって、大野ヶ原に通じていた旧砲車道(*9)がその中央を通っていて、そのまま探勝道となっている。また、大正12年(1923年)には、小田町宮原(みやはら)から深山の渕首(ふちくび)間に高知営林局2級森林鉄道(*10)が敷設され、国有林の木材が大量に搬出されるようになった(⑨⑩)。
 小田深山地方は、周囲を山で囲まれたほぼ三角形の山地で、渓谷は標高700~950mの高度にあるが、その景観は激流岩を噛(か)む厳しさはなく、平底谷の中を悠々と流れる温和さがあり、谷は広くて明るい。かっては里人の行けぬ秘境として、荒らされることもなく、四季おりおりの彩りをなしていた小田深山渓谷も、今日では道路の整備とマイカーの普及によって、春の新緑、秋の紅葉のころには、日ごろは静かな深山の渓谷も好日ともなれば、人々の往来が絶えない。

 ア わがふるさとは小田深山

 **さん(松山市西石井町 大正9年生まれ 76歳)
 **さん(松山市西石井町 大正7年生まれ 78歳)
 営林署を定年退職後松山市に住む**さんは、小田深山の渓谷のほとりに生まれ育ち、国有林の山林とかかわって生きてきた。**さんと結婚後も二人は深山で働き続けてきた。いわば、深山は**さん夫妻にとって、くらしの場であり、ふるさとでもある。その深山のくらしについて、**さんの口述の概要を文献とともにまとめてみた。

 (ア)深山の木とともに-木地屋と**の姓-

 「**の姓は珍しくめったにありません。以前、その由来についてNHKから取材にきたことがあります。**本家の2代前の当主の話によると、『いつのころか、木地屋の祖先と言われる惟喬(これたか)親王(844~897年)の菊の紋章入りの系譜が本家で見つかり、おそれ多いので、その系譜を返納に皇居に参内し、それまでの小椋姓を返上して**姓を名乗るようになった。元を正せば、木地屋は京都の出身。』ということでした。今も**の本家では菊の紋章入りの桐の箱と古文書を保存しています。これがあれば昔は全国どこの深山へ入って『木地挽きのくらしをしてもよい。』という関所の通行手形であったと言います。木地挽きはわたしのころは見かけることもなかったのですが、その道具が大切に残されていたこと、家の近くに木を磨くためのトクサ(常緑のシダ植物、乾燥さして物を磨くのに用いる)が多く生えていたのは、その名残りでしょうか。本家のお墓もハナツキにありましたが、現在は、**家の一族は全て松山周辺に移住して深山に残っている人はいません。この周辺で**姓のものは全部身内です。
 わたしが小さいころ、父はすでに国有林の仕事をしていました。自前(じまえ)の牛を飼い、木材を積んだ台車(トロ)を渕首から獅子越峠(ししごえとうげ)(写真3-1-12参照)へ曳(ひ)き上げる請負の仕事です。その後を継いでわたしも国有林に職を求めたのです。親子2代にわたって目にしてきた深山の移り変わりは、特に激しいものがありました。その落ち目というか、国有林事業が変わる節目にわたしは定年を迎えたのです。
 わたしらが通った小学校は渕首の川端にありました。その下手には底が知れないほど深いといわれる安芸貞(あきさだ)の渕があります。当時の集落は、渕首、平川(ひらかわ)、桶小屋(おけごや)、六郎(ろくろう)にあり、全部で40戸余りだったと思います。」

 (イ)谷の水が動力源の製材所

 「昭和10年(1935年)に両親の『なりや(できれば)、雨の当たらんとこが、ええだろう』という勧めで、営林署の小田深山事業所直営の簡易製材所に入りました。検知(けじ)(素材の材積調査)補助が国有林の仕事の振り出しです。この製材所は水力を動力源としており、豊富な谷の水を活用したものです。帯鋸(おびのこ)の製材機が大小5台座り、天然木の素材(丸太)を帯鋸盤(ばん)で大割りをし、盤や板に小割りしていたのです。わたしの役はこの大割りの際の木取りです。『この木をいかに生かすか』という製材の基本です。この素(そ)材からどんな製品を取ればよいか、ということを見抜くことです。大割り、小割り、盤、角、板などに取る木の見分け方について、先輩からたたき込まれたものです。形状の異なる木を一目で見分けるには、経験以外に何物もありません。これによって製品の歩止まり、品質などが決まってくるのです。熟練と勘のいる大切な仕事ですが、召集される昭和16年(1941年)までの6年間で大体の『こつ』がつかめたような感じがしました。製材所の最盛期には、職工(製材工)約20人、女性作業員30人も働いていたのです。
 ビルマ(現ミャンマー)の最前線に出征し運よく生還できたのは、1箇中隊180名中25人でその中にわたしも含まれていました。昭和21年(1946年)に元の職場に復職したのですが、数年後電力が供給されるようになり、水力製材所も廃止されていったのです。わたしの担当も、最も長い務めとなる伐採の現場へ配置替えになったのです。その当時の深山の木材と製材品は、ほとんど森林鉄(軌)道で獅子越峠を経由して小田方面に搬出されていたのです。」
 深山住まいの**さんは、森林鉄(軌)道について次のように話している。「トラックが入れないころは、深山で病人や怪我(けが)人が出ると大変でした。いつ出るか分かりません。救急の場合の交通機関は軌道のみです。機関車の運転は誰でもはできないので、獅子越峠まで台車(トロ)を押し上げて、そこからは制動しながら、小田町の病院へ運ぶのです。大怪我の時など、振動で痛がりスピードを出すことができません。病人と山仕事の怪我人が最も怖かったのです。」

 (ウ)深山の森林鉄(軌)道

 **さん(上浮穴郡小田町中川 昭和8年生まれ 63歳)
 深山への道も、古くは間道(ぬけみち)、往還(とおりみち)とよばれる人畜の往来のみであったと思われる。年月とともに一人二人の通行から、いつのまにか道形となって山道ともなっていったことが考えられる。その山道も人の通行のみで、深山の豊富な木材を搬出するための道はなく、深山の名が示すような秘境であった。しかし、徐々に人が入り込み、木材を牛びきで小田方面に搬出されるようになり、次いで砲車道が利用され、さらに鉄(軌)道運材、トラック運材へと変わって、現在のように大量に搬出されるようになった。昭和28年(1953年)、森林鉄(軌)道が廃止になる以前の8年間、軌道運材に携わってきた**さんの話を略述する。
 「鉄道は列車編成で機関車が牽引(けんいん)して走行します、軌道は台車に木材を積載して、軌道の下りこう配を利用して制動しながら、一台ごとに間隔をとって運行するのです。4、5人が1組になります。わたしらの仕事は、獅子越峠から木材を積んだ台車の下げ役です。朝早く近道を通って峠へ上がってくと、空の台車は2台垂ねて、牛びき役が、すでに峠へ引き上げてあります。渕首の製品事業所から台車に積まれて来た木材を、この峠の中継地で積み替えるのです。これは下げと上げ荷用では、台車の長さが異なり、積載量も違うためです。積み替えが終われば、下げ役の出番です。堀田式という制動器を操作しながらゆっくりと下りていきます。終点の宮原土場(どば)(貯木場)へ着き荷下しがすみ台車の整備をしてその日の仕事は終わりです。雨や、秋口からの霜、雪などでレールに水滴が付着すると、レール上を車輪が滑ってブレーキが効かなくなり、止まらなくなることがあります。これが一番怖いのです。年に1、2回はブレーキ綱を手離して、避難することがあります。最後尾車が暴走し始めると、組になっている4台とも追突により暴走か、脱線、転覆です。
 搬出材はほとんど製材品でしたが、天然木の厚さ15cmの板盤で、幅、長さは樹種により異なりますが、それは見事な貴重材ばかりでした。搬出した原木で最大、最長のものは元口径約2m、長さ10m余りという特大のケヤキでした。元口(もとくち)と末口(すえくち)をそれぞれ別の台車に乗せて、じわじわと出すのですが、外カーブはいいのですが、山側の内カーブは曲がり切れないのです。仕方なく台車の上で、ずらしながら搬出したのです。軌道運材の仕事もトラックの発達で昭和28年(1953年)に廃止になりました。わたしの仕事も、深山の伐採現場での集材作業へと移ったのです。」

 イ 深山のにぎわい

 愛媛県内の国有林は山岳地帯に位置し、奥地の天然林が多いため自然公園に指定され伐採の制限を受ける保安林(水源かん養林など)や自然公園の占める面積が広い。
 現在国有林は3種類の林地に区分して管理されている。
 第一種林地は保安林・自然公園・鳥獣保護区・レクリェーションの森などに指定され、施業が制限されている林地で、県内国有林地(35,858ha)のうち67%を占める。
 第二種林地は施業に特別の制限が加えられない林地で、小田深山に多く、国有林の素材生産の中心地となっている。
 第三種林地は地元住民の福祉向上のために設けられた林地で、「部分林」(国有林に国以外のものが造林し、その収益を分収する森林)が設定されているが、最も少ない(①)。
 小田深山の国有林において、素材生産事業が盛んになっていったのは、昭和10年代からであるが、生産事業の機械化により昭和40年代にかけて最盛期を迎える。それとともに人々も多く移り住みにぎわいを見せてきた。その移り変わりとともに過ごしてきた**さんは、次のように語っている。

 (ア)林木の伐採

 「山の木を伐(き)り倒すことは、杣夫(そまふ)(伐採夫)の何倍も年輪を重ねてきた木の生命を絶つことです。年輪を重ねた老木ほど、なんとも言えない畏敬(いけい)の念を感じます。木の周りを確かめ、斧(おの)を入れる前に木をたたいてみて、空洞、腐れを確認して、どこに斧をいれるか、どの方向に倒すかを決めます。鳥の巣があったり、ヘビが棲(す)んでいたりすると縁起をかついで、一日延期したりする杣夫もいました。伐倒方向は山の斜面に対して横に倒すのが、後の作業にとって最も都合がよいのです。斜面の下方にそって倒すのは勢いがつき過ぎて木を傷めたり、割れたり、折れたりすることがあります。伐倒方向が決まると、先ず「受口(うけくち)」といって、倒す側の木の中心まで、斧でV字形の切り口を入れます。次いで、反対側から鋸(のこ)で「追口(おいくち)」をいれていきます。倒れる前に『右、よこやまにーいくぞー。』というように大声で伐倒の方向と危険を知らせます。これは山の神に知らせるものだともいいます。チェンソー(動力鋸)の時代になりホイッスルを使用するようになりました。
 山の現場へ出たころは、伐採は全て斧、鋸などによる手作業でした。原生林には、ケヤキ、トチなどの、今では想像もつかないような巨木が林立していたのです。この中で、特に苦心して伐採したのはケヤキの大木です。ケヤキは最高の貴重木ですが、伐採のとき裂(さ)けやすいのです。ときには魚を裂くように、元から先まで裂けてしまうことがあるのです。値打ちのあるケヤキを倒す時は事業主任に届け出をして、前以って『さばどめ』(魚の尾のように出ている分枝を切り落すこと)や『かすがい打ち』をして倒すのです。昔は『みつひもきり』という斧のみで倒すこともありました。
 山仕事の安全を祈願する山の神の祭祠は、夏に向かう5月9日と伐木の時期に入る9月9日に行われていました。この日には担当区の事業主任さんが、越智郡大三島町の大山祗(おおやまずみ)神社からお札を受けて来て祭り、山仕事はすべて休みになります。翌日はそれぞれの現場でお神酒(みき)を供え、安全を祈って仕事にかかります。その他、毎月20日が山の神を祭って休日ですが、その他に休日はありません。小田深山で最もにぎわったのは、6月6日と7日の十七夜の鬼ケ臼(おにがうす)の観音さんの縁日です。この日には露店が並び、映画や芝居も催され、小田町、柳谷村方面からも多くの人が訪れていました。」

 (イ)チェンソーの響き

 「山の木と毎日接しながら行われてきた伐採の仕事に大きい変換期が訪れたのが、昭和40年代のチェンソーの導入です。わたしは、深山の作業員の中では最初にその使用方法や木取りについての講習を受け、伐採作業の班長として4名の班員の指導もすることになったのです。その当時、柾(まさ)小屋谷には入り口から奥の詰め(最奥の地域)まで昼なお暗いような天然林で覆われ、数百年を経たような巨木がぐっつりと詰まっていたのです。今までの鋸と斧による手作業で伐採すれば、20年はかかると言われていました。この谷をチェンソーで皆伐することになり、伐採を開始したのですが、わずかに8年間で伐り尽くしてしまい、トラックによる搬出までしてしまったのです。造材された木材には、長さ1間(1.8m)、末口(すえくち)径も1間という、縦横が分からないようなケヤキ、トチの巨木もありました。チェンソーの導入は、伐木・造材作業の能率を向上させ、天然林の伐採を早めるとともに、振動による白ろう病(山林労務員の職業病)を発生させることにもつながりました。
 もともと深山の国有林の林木は、立木のままで払下げ処分をしていましたが、大正初期から営林署直営の択伐作業が行われるようになったのです。チェンソーの導入によって皆(全)伐作業が進められ、その跡地にはスギ・ヒノキの植栽が施され、わたしも、定年前の数年間は植林作業を担当しました。結局深山の原生林はチェンソーの導入により、一部の区域を残して、その姿を人工林に変えたのです。しかし、現在もブナ峠(1,330m)の砲車道跡付近のブナの天然林、渓谷入り口からの道路沿い、道路から見えない尾根筋などに、昔の面影を残す天然生の美林が残っています(写真3-1-14参照)。
 今静かに考えてみますと、取り返しのつかないというか、祖先から受け継いだ貴重な財産を失ったという思いがしてなりません。

 ウ 深山のくらし

 (ア)たった一人の卒業生

 館報『おだまち』平成8年4月号(⑬)には、「たった一人の卒業式」として次のような記事が載せられている。

  -小田深山小学校休校-
   『小田深山小学校の生徒は、**さんと**くん姉弟の二人だけです。**さんが卒業し、**くんは4月から小田小学
  校に転校するため、小田深山小学校は休校となります。3月25日には卒業式とお別れ会が行われ、小田深山小学校にさよ
  うならを告げていました。卒業式では、4年間担任だった先生の進行のもと、卒業証書授与、学校長式辞などが厳かに行わ
  れた後、在校生の**くんが大きな声で送辞を述べると、お姉さんの**さんが堂々と答辞を行いました。卒業生一人、在
  校生も一人、そしてこの4月から休校ということで、おそらく最後の卒業式でしょう。』

  小田深山小学校の沿革(⑨)

 〇大正2年8月13日
   西参川尋常小学校小田深山分教場として創立、校舎は渕首にあり、運動場20坪(1坪は3.3m²)、単級編成(在籍数大
  正3年時で20名)。
 〇昭和8年4月11日
   小田深山分教場新築落成。
   翌9年現在地の六郎に、もと国有林地労者集会所を借地、借家して移転、運動場290坪(在籍数41名)。
 〇昭和12年4月1日
   小田深山分教場2学級編成、教員数2名となる(54名)。
 〇昭和25年4月1日
   参川中学校小田深山分校が併設される(39名)。
 〇昭和25年11月28日
   校舎落成。3教室、66坪。
 〇昭和30年4月1日
   独立校となり、小田深山小学校として3学級編成、教員数4名となる。
 〇昭和30年5月20日
   合併により小田町立となる。
 〇昭和30年11月7日
   各教室ストーブを取り付ける(59名)。
 〇昭和37年1月23日
   第3学期始業式大雪のため延期。
 〇昭和37年1月25日
   積雪のため集会所倒壊、後日愛媛県より被害調査に来校(60名)。
 〇昭和38年1月9日
   校舎の屋根の除雪作業、集落民30余名で実施、大雪のため電話不通。
 〇昭和38年1月31日
   積雪1.8mのため臨時休校。
 〇昭和38年6月19日
   テレビ取り付け(63名)。
 〇昭和54年2月6日
   小田深山スキー場で小中合同スキー教室を実施(16名、以後生徒数減少期となる)。
 〇平成8年4月1日
   休校となる(平成7年度の在籍数2名)(写真1-3-15参照)。

 (イ)校庭の紅葉

   a 深山の子供たち

 **さんは小学校時代のことを次のように話した。
 「わたしは昭和元年(1926年)に渕首にあった小学校に入学したのです。全校生徒20人、1学級、先生1人でしたから、みんな家族のようなものです。振り返ってみると、そのころの深山のくらしは、みんな同じようなものですが、実に貧しいくらしでした。普段は、米の入ってないトウキビ飯、ときたまには丸麦飯といった食事です。深山では焼畑耕作は禁止されています。母が山畑を耕してトウキビや野菜を細々と作っていました。少しずつ米の飯が食べれるようになったのは戦後のころからです。その当時『一升飯(約1.8ℓの米を炊いた飯)を食わんと、山仕事はできるもんじゃない。』などと杣夫さんの仲間でいわれていたこともあります。
 小学生のころの楽しみは、なんと言っても両親はもとより深山の人がほとんど来てくれる運動会でした。この日は米の飯の弁当です。当時の子供は、みんな家の手伝いとして子守をしていました。おもちゃなどはとうてい買ってもらえません。いろんなものを自分で作りました。材料はいくらでもあります。正月に鉢合わせをする『たたきごま』、竹とんぼ、竹鉄砲、パッチンなど夢中になって作ったものです。両親や先生には、いつも怒られてばかりいましたが、今も心に残っているのは、深山から転任していく先生との別れです。たった一人の先生を峠まで送っての帰り道は、何とも言えない寂しさでした。4月になると新任の先生が来られ、深山の一員となります。いつもたたかれていた怨(うら)みの竹の根のムチを、こっそりと隠したら、翌日には新しいムチを先生に届ける友達のいたことなど、楽しい思い出です。
 昭和2年(1927年)小学校2年のとき、初めて機関車が深山へ上がって来るというので、学校の勉強などそっちのけで、いつ来るか教室で首を長くして待っていました。やっと上がって来た機関車は米国製のガソリン車でしたが、力が弱く雨天の日など車輪が滑って、こう配の急な上り坂では、3両連結の台車をけん引することができないようでした。主に晴天の日に渕首の製品事業所から獅子越峠までのこう配のゆるい区間を、木材を積んだ台車を3台くらい連結して走っていました。それ以前には牛で曳(ひ)き上げていたのです。
 昭和12年ころには生徒数も50人を越えるようになり、2学級で先生も二人になり、さらに30年代には、生徒数60人余り、学級数4、先生5人のころもあったのです。
 厳しい深山のくらしの中で難儀なとき、楽しいときなど、折に触れて人々が集まるのは、なんと言っても学校です。子供から老人まで老いも若きも集まる場所、心のよりどころはやはり学校でした。娯楽のない深山にテレビが初めてついたのは昭和33年(1958年)でした。テレビは教室に置かれたのですが、一目見ようと大勢の人が押しかけ、子供とともに大相撲を見て楽しんだこともあり、先生はさぞ迷惑だったと思います。
 今年(平成8年4月)から休校ということですが、さみしいですね。ふるさとのあの木造りの小さい学校がなくなっていくことは。校庭に残された木々は、春の新緑、秋の紅葉と人影のない学校に四季の彩りを添えていることでしょう。」

   b 深山の女たち

 「妻は小田町の生まれですが、この深山までよく嫁いで来てくれたと思います。わたしが定年になるまで、深山で子ども3人を育て、山や事業所の仕事をしながら、よくやってくれたものだと感謝しているのです。今思えば経済的にはともかく、夫婦ともに健康だったことが何よりだったと思います。」
 **さんは、深山のくらしについて次のように話している。
 「戦後、嫁いだ先が夫の里の深山で、広く深い山ばかりでした。住んでみると水がきれいで、春には山菜がとれ、秋には空気が澄みきって、紅葉が何とも言えない美しさでした。しかし、冬の寒さと雪には大弱りで、ことに昭和38年(1963年)の豪雪のときは大変でした。家が日ごろ往き来する道から小道を上がった所に建っていたので、4間(約7.2m)ほどの坂道を一度登り、屋根の雪が落ちて軒端まで積もっているため、その雪の山を越えて、再び戸口まで降りて家に入るのです。水道は凍っているのでも飲み水を川からくみ上げなければなりません。どこへ行くにも戸口の雪の山を登ってまた下らなければならないのです。その途中で、軟らかい新雪の中へ滑り込んだりしたら、小柄なわたしなんかは、どうしようもなく、中々出ることができなかったのです。そんな大雪のときに急病人が出たのです。元気な大人は総出で、久万町の落合からトラックが上がって来ているところまで、ソリで病人を運びました。男の人が雪道を交代で踏み開け、病人を乗せたソリを女性が引っ張って行くのです。雪が深くて、朝6時ころから午後も遅くまでかかりました。背負った弁当がこちこちに凍ってしまうほどの寒さでしたが、人々からは一言の不平も聞かれませんでした。やっとトラックの来ているところに着き、危急を脱することができました。幸い、その後病人は全快することができました。その大雪の時には、救急物資がヘリコプターで空輸されたり、小田町の多くの人たちが背負って届けてくれたこともありました。深山のくらしはみんなが家族のようなものです。『いざ』という時は、深山ぐらしの人全員が寄って来てくれます。しかし、トラックが入って来れるようになる以前や、雪が深くて動けない時など、子供が病気になったりすると、本当に心細くどうしようもない思いにかられます。この思いからどの家も置き薬屋さんとは親しくなり、薬屋さんが長とう留をしていくこともありました。一つ家族のようにしていた仲間たちも、今はみんな深山から出ていってしまいましたが(写真1-3-16参照)、わたしたちにとっては何と言っても深山がふるさとなのです。」


*8:挽物などの材料の木地を荒引きし、ろくろを用いて盆や椀などの日用の椀物を作る人、ろくろ師ともいう。
*9:明治40年(1907年)、大野ケ原が陸軍の大砲演習場となり、砲車道が通じたが、その後廃止された。
*10:国有林で林産物の搬出を目的とする簡易鉄道で森林軌道と併設され、緩勾配区間を列車編成で、下り勾配区間は台車
  (トロ)1台ごとに運材された。小田深山では主に渕首、獅子越峠間を機関車が牽引した。

写真1-3-12 獅子越峠

写真1-3-12 獅子越峠

かつての鉄道と軌道運材の積みかえ地点。平成8年8月撮影

写真1-3-14 小田深山渓谷沿いの天然林

写真1-3-14 小田深山渓谷沿いの天然林

平成8年8月撮影

写真1-3-15 休校になった小田深山小学校

写真1-3-15 休校になった小田深山小学校

六郎にて、道路はかつての森林軌道敷。平成8年7月撮影

写真1-3-16 廃屋の目立つ六郎の集落

写真1-3-16 廃屋の目立つ六郎の集落

平成8年11月撮影