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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)ダム建設

 **さん(喜多郡肱川町道野尾 昭和12年生まれ 57歳)
 小太りで極めて表情が穏やかな**さんからは、あの難しいダム建設に12年もかかわってきた苦労人の面影はない。何を聞くべきか多少のためらいもあったが、ずうずうしくダム建設に至る苦労話を伺うことにした。

 ア 山鳥坂ダムに名称変更

 「昔は河辺川ダムと言っていた。河辺川にできるダムですからね。ところが、ダム造りの目的の一つに「松山導水」がありますのでな、松山へ行って、『河辺川ダム』言うと、河辺村にできるとみんな思うとるんですよ。『肱川町にできるのに、河辺川ダムと呼ぶんですか。』と言われるものですから、誤解があってもいかんということで建設省さんの方に名称変更を申し出ましてな、地名の山鳥坂ダムにしてもろたんです。」
 山鳥坂ダムは四つの目的をもつ多目的ダムである。
 「下流の洪水調節、維持流量の確保、かんがい用水の補給、松山市など3市5町(松山市、伊予市、北条市、川内町、重信町、砥部町、松前町、双海町)の都市用水の確保。」とすらすら口を突いて出る。目的の二つ目から、聞き手が理解できていないと思ってか、「これはな、河川の生態系を守っていくためには一定の流量が、いつも流れている必要がある。維持流量の中には、他にもいろいろあって、例えば、舟運に差し障りがない水量とか、魚を生息させるための水量とか、流域の既得用水というのがあって、農業用水・水道用水の確保もしなきゃならん。10ほどある。」と維持流量の確保について概説し、かんがい用水についても、「57、58年ころに、大洲市・喜多郡で農地開発をやっとる。特に大洲・内子・五十崎が中心なんですが、広い農業団地ができとる。ところが『畑は作ったが水はない。』状態で、このかんがい用水も確保していこうとね。松山など3市5町についても、生活用水・工業用水を確保しようとなっているんです。」と一気に都市用水にまで解説が及ぶ。

 イ ダム建設の手続き

 **さんはこの質問に対しても、そらんずる(暗唱する)ように、①予備調査、②実施計画調査、③ダムの基本計画、④生活再建の計画について、素人わかりのする話を聞かせてくれた。
 「最初は予備調査といいましてな、一応大雑把(おおざっぱ)な計画があるんです。その計画に基づいてダムの位置をどこにしたらよいかが決められんといかんのです。最近は技術が発達して、実際に山の中へ入って踏査しなくても、航空写真とかヘリコプターでやる調査方法があるんですが、これで大雑把な計画はできる。ところが、中ヘボーリングして岩質をみないと、ダムが造れる岩質かどうか分からない。そのための調査なんです。昭和57年(1982年)の8月に、建設省から肱川町へ正式(①)に予備調査の申し入れがあったんです。」
 「町も、議会や地域などいろいろなところへ相談しましてね、独断で決めるわけにいきませんから。で、この調査の目的が、ダムを造れるかどうかであって、調査をしたら即ダムの建設ということではないと説明があったので、そういうことならと認めたわけです。
 58年から60年まで、2年余りボーリングされて、候補地が2か所できたんです。上流と下流に500mほど隔てて。で、上流が適地ということになった。堤高120m級のダム建設が可能である。」と。
 「次にきたのが、実施計画調査(②)だったんです、建設をするための。『それをやらしてほしい。』となった時に地域からも反対が起こったんです。そのうち、流域全体の関心が高まってきた。」
 肱川町に対する推進側からの働きかけと、流域に高まる反対の中で議論が沸騰し、10年近くの歳月が流れた。その間に、ダムとかかわってきた**さんは全国のダムを見て回り、12年目の今年(平成6年)までに58か所のダムを訪ねている。
 「全国の事例を見ますとね、どこにも反対運動は起こっています。しかし、一方では、それが長引いて地域が衰退していった所もあるんです。そこではね、計画があるために住民の生活設計も立たんでしょ。水源地になる人たちは何もできんわけです。若い人たちも、その土地にとどまっても、いつ解決するか分からんと流出してしまう。30年も反対運動が続いたその地域は、結局衰退してしまった。」と言う。
 いろいろな意見を集約して、検討した結果、建設省や愛媛県の動向と流域の洪水事情も考慮して、結論が出たのであった。平成4年3月、建設受け入れに合意した。
 いよいよ地元の町村が合意したとなると、あとはダム建設に向けて必要になった手続きが、ダムの基本計画策定(③)であった。
 「ダムの基本計画を作って、建設大臣に認めてもらわななりません。山鳥坂ダムはこういう位置に、こういう規模で、こういう概算の経費がかかって、その経費はだれが負担するんです。目的はこれです。といった一連の計画を、大臣に決定してもらう手続きがあったんです。」
 「平成4年から2年かかりましたけどね。目的が四つありますから、目的のそれぞれの機関へ諮(はか)って協議をせないかんということがあったんです。非常に時間がかかりました。それが今年になって、平成6年8月1日、官報告示という形で決定されたんです。」と。

 ウ 酔わなくなった酒

 ダム建設に至る手続きに12年の歳月が流れた。これはそのまま、**さんがダムとかかわった年月でもある。その間、彼は微妙な立ち場で事に当たってきた。「住民の人が一方におり、一方には町長がおります。わたしが全部を任されておるわけじゃないので、わたしの判断で動かないけんことと、町長の判断で動くこととがあります。どうしても板挟みになるところがあるわけです。建設省の大洲工事事務所に対しては、すべてわたしが窓口ですし、松山市など3市5町に対しても、町長との板挟みになりますね。」と仕事の難しさを語られる。「おかげで、酒を飲むことが多く、酒を借りて話をすることもままありましてな。それが重なるうちに、酔えんのが酔わんようになりました。」と笑う。
 まだ「生活再建計画」が残っている。このことばは嫌いだと言いながら、建設省サイドの仕事(町道・県道の付け替えルートの決定、建設工事のための工場配置)のほか、町の仕事として、水没する人たちの移転先の問題と、あとの生活をどうするかについて考えていかなければならない。どうやら、酔える酒を飲める日は少し先になりそうである。

 エ 水源地域対策特別措置法

 肱川町は、鹿野川ダム建設の経験があるからと水を向けると、「鹿野川ダムは昭和34年(1959年)、そのころは、造る側は地域にはあまり目を向けなんだんですな。そういう時代でした。」と。『大洲工事五十年史(②)』にも、治水(洪水調節)と利水(発電)の多目的ダムとして位置づけられている。
 「そのうち、現場の市町村からもっと地域の面倒をみてくれという要求が上がってきた。それを「水源地域対策」と言うんですが、『水源地域対策を抜きにしてダム建設だけやるのなら反対も辞さない。』と、全国規模で出たもんですから、国会の議論になって、特別措置法ができたんです。昭和48年(1973年)の水源地域対策特別措置法です。」
 ダム建設で大きな犠牲を受ける地域については、その犠牲をできるだけ緩和するために地域の整備(新しい地域の再開発)を推し進めようという法律だと言う。
 「だから、その法律に基づく整備計画と生活再建計画をうまく調和させて、新天地作りをする計画を今進めているんです。」となると、鹿野川ダムの時代とは随分違うなと思うのであった。
 「あのころは不動産屋さんもなかったと思います。親せき縁者・知人を頼って、自分で見付けて移転されておる。それが286戸ね。」である。地域にとどまった人は少ない。
 肱川町では、水没する人々ができるだけ町内へとどまってくれるように願って、計画を進めている。また、補償のための用地調査(一筆調査)にも取り組んでいると聞く。いろいろ教えてくれた**さんの、最後の仕事になるのだろうか。