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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)遊水池の大洲盆地

 ア 写真が取り持つ縁

 **さん(大洲市新町 昭和9年生まれ 60歳)
 **さん(大洲市新町 昭和7年生まれ 62歳)
 建設省大洲工事事務所を訪問した。借用した写真の中の1枚が、思いがけず、撮影現場と、二人の当事者に引き合わせてくれたのであった。
 2階のひさしへ届くほどの水かさに驚いて、「すごい洪水ですね。どの辺りでしょうか。」と言う問いに、松楽旅館の**さんは、「こんなものじゃない。うち(肱南)は2階の軒先もつかった。」と言ってしばらく見つめ、「これが**さん、その向こうの角が喜多ゴム工業所(現宇和島自動車の営業所)。」と解説するのであった。今も㈲太田米穀店は健在と知り、若宮地区へ向かう。
 **さんは、写真の家族を一通り説明して「この白鉢巻きが弟、その横に立っているのが僕よ。もう51年たつのよなぁ。」と感概にふける。「おじいさんに抱かれてなぁ。『これが最後かも知れんけん、足を洗うてやる。』言うてな、階段の降り口で。1段だけ残して水がきとりました。」と言う。
 昔、大工をしていたおじいさんは、1階の入り口からすべて戸をくぎ付けして、家財道具はみんなで2階へ上げた。2階へも水がきそうになって、天井の一部を破り、道具を上げていた。「その後じゃな、この写真は。」と言って、2階から長いさおを操っているのは、流れてくる材木やごみを押しのけて家を守っているのだと説明する。
 同じ場所から写真を撮りたいと申し出て、斜め向かいの**さんに声をかけてもらった。
 「どうぞ、どうぞ。うちにも写真があらい、おやじが写真屋じゃったけんな。」と角形2号の茶封筒を持ってくる。「古い写真」と表書きした封筒から、無造作に出された写真に同じものがある。実は、これが原版で、大洲工事事務所で拝借したのは複写であることが分かった。
 元中野写真館の2階の窓から、51年後の**さんを撮り、2歳年上の**さんから当時の様子を聞き取る。
 「ここまで水がきてな。」と、竹の物指しで示す位置は、落ちた壁を手入れしたもので白い。階段の方へその高さを目で移動すると、やはり1段残る。「うちも**さんとこも、地盤が高いほうじゃったけんな。」と。
 「フジの所が決壊してな、水がドーッと押し寄せた。窓を閉め、戸板で補強した。おやじは洪水の半鐘がジャンジャン鳴るとな、すぐに自転車で町内を、『土手が切れたぞ。』と知らせに走ったり、屋根伝いに横の太陽館の櫓(やぐら)(現在は尾崎歯科医院)へ上がってな、写真を撮りよった。」と言う。
 また、水位が最高になったころ、「水圧でガラスがくぼんで、やっと持ちこたえとるのに、舟の見回り(警防団)が来ると、波でパチーッと破れて。」と、防水ぎりぎりの模様を語る。
 そのころ、食堂も経営し、飲食組合の役員をしていた**さんのうちには、預かったメリケン粉が40俵ほどあった。「ぬれんように2階へ上げてな、だんごにでもして食べれば1週間が(でも)2週間でもあるのに、『みんなの物じゃけん。』言うて手をつけなんだ。子供らは、流れてくるカボチャをヤスで突いて拾い、炊いて食べた。」と言う食糧事情でもあった。

 イ くの字に曲がった柱

 **さん(大洲市大洲 大正7年生まれ 76歳)
 「それにしても肱川というのは、源流は正信(宇和町正信)にあるんじゃから、何とよう曲がって来たもんじゃと思う。」と切り出した**さんは、肱川が一級河川の中でも5指に入る、311本の支川を集めてV字谷の底を停滞して流れること、中流から下流にかけての河床勾(こう)配が小さいことなど、肱川の特徴を流ちょうに述べた後、嵩富(かさとみ)川下流域の柚木(ゆのき)から本町に至る洪水体験を、昭和18年にさかのぼって、次のように語った。

 (ア)6万ザヤの木材を守る

 「とにかく、水が出たいうたら、大洲地方は盆地で、なだらかになっとる所じゃから遊水地帯で、すぐ、たまってしまいよった。結局、五郎駅ですわいな。あそこが狭いでしょ。おまけに高低差がない。長浜と大洲の高低差が13mから14mでしょ。だから、矢落川までの、支流の水を集めると、出口が狭い上に、満ち潮じゃ、高潮じゃいうと、水が下流へ流れんのでね。」と、盆地底である大洲の、宿命的な地形と氾濫因子を説明する。
 昭和18年の洪水時、**さんは25歳の元気な若者であった。先代(祖父)に育てられ、仕込まれた**さんは柚木に松田製材所を持っていた。18歳で、総馬力数19馬力半の丸のこ製材を始めた。現在、旧嵩富川を廃川にして埋め立て、土地の区画整理をしている所である。その貯木場に6万ザヤ(*1)の木材があった。「水が出るといっても、まず、水に流すことはなかったんですが、この時ばかりは、物すごい水ですからね。2分半(径2.6cm)ほどのわら縄(製品の箱を縛るために、幾つも置いていた。)で、筏(いかだ)に組むというのではなしに、『何でも、浮いてくる物を絡(から)めい。』と言いましてね。材木は、ちょうど海洋筏を浮かべたように、ぼっかり浮かんでね。本当に6万ザヤを流さなんだのはうちだけでした。」
 「第1日目に200mmほど降ったでしょうか、嵩富川分の水が(南久米の方からくるのと野佐来(やさらい)の方からくるのが合流して)、押し寄せてきましたからね。うちの工場のすぐ前にあった家が、大きな音がしたと思うたらひっくりかえったんです。方言でヤマゼと言いますが、水が吹き抜いてきて、水勢(みずせ)でもって家がころっと倒壊して。その家の奥さんが亡くなったが、そういう状態を目の当たりに見ても、どうしようもなかった。製材所は浸水したが胸まで水につかって頑張ったかいがあって貯木場が助かり、本町通りの松楽旅館へ帰ってみようと思い立ったのは3日目であった。」
 「わたしは、材木・木炭・製材などの男仕事をしとりました。」と言う**さんは、小さい時から、先代の後を継がねばと心に決めていた。だから、夏になると、繭の乾燥もやった。昭和11年、18歳で乾燥技術をのみ込み、乾燥監督として、三崎の方から来ていた若い衆30人ばかりを使っていた。タバコの乾燥のように、土壁の家の中で、練炭をおこした熱で、ひと夏2万貫(75t)くらい乾燥したと言う。松楽の男仕事として、製材工場も経営したのである。

 (イ)濁流を泳ぐ

 「自分が寝起きしとりますわが家と旅館(当時の松楽は本町繁華街の真ん中にあった)が気になっていかんから。」帰ろうと思案し、松田製材裏の亀山へ登ってみた。「雨は、3日目になっていたから、400~500mmは降っとったと思うんですが、頂上の、墓地などもある辺りの獣道(けものみち)がね、ゴボリゴボリ、膝(ひざ)まで足が入るんです。湿地帯を歩くのと同じでした。山自体が、相当な水を含んでおったと思われます。そういう状態で、山を下まで降りてきました。」
 「亀山公園(国民宿舎臥龍苑の裏山)に、馬車ひきの馬を避難させとりました。そこは水につかっていなかった。何を食べさせたのか、馬が腹痛を起こしとったんです。獣医が間に合わないから、自分で治療しましたよ。」
 召集解除で帰ってきた**さんは、山砲隊時代の経験を生かしたのであった。
 「馬は、牛のように反すうして物をかむことができないから、ゲップが出ない。だから、腹痛を起こしたら、ラムネやサイダーのように、ゲップの出やすいものを飲ませるんです。『ガスが詰まっとるのを上へ出させる。』と、獣医がよくやっておりましたからね。正式には芒硝(ぼうしょう)(硫酸ナトリウム)を飲ませるんですけど、応急にはラムネかサイダーで。結局は、これも間に合わんので、尻から手を入れて、たまっとるのを一所懸命に出しましたぞ、全部。そしてわき腹の柔らかな所をさすってやって、回復の見通しがついたので、すぐに川の中に入って泳ぎながら帰った。」
 柚木(ゆのき)から澤田の酒屋さんを経由して、旧公会堂(現立体駐車場)まで山越えをする途中、馬が腹痛を起こしていた。ポカポカ浮いて来たラムネを拾って飲ませ、鞍(くら)下の毛布を腹に巻き、温湿布ができるように、手入れの仕方を正式に教えて山へ上がった。
 清源寺・法華寺を通って、山越えして旧公会堂まで出てみると、見渡す限り湖と化している。本町のバス停も木本のお菓子屋さんも屋根がつかっている。それらを確認しながら飛び込んで行こうとして、そこまでついて来た若い衆に、「お前はここから帰れ。」と言ったが、「大将、わたしも行きます。」と言うので二人連れで泳ぐ。案の定、途中で「もうなんぼにも大将、よう泳がんぞ。」と言う。「そこら辺の家へすがって、上がっとれ。」と言い残して、松楽までたどり着く。
 「それがね、泳いでみるのに、普通の時の水と違うんです。ものすごく冷たかったですね。えぇ。ちょうどあの年の水じゃったと思うんですが、長谷(ながたに)(嵩富川の上流)が崩壊したのも。泥がね、水の中に6、7割はあったろうかと聞いたんですが、とにかく冷たい、泉のような水が一緒に流れとったんでしょう。えぇ。一度上がって、また島田屋薬局から本町の方へ向けて泳いで帰ったんです。2階のひさしは完全につかっとりました。」

 (ウ)ウナギのかば焼き

 松楽は明治23年(1890年)に創業の割ぽう旅館でウナギのかば焼きが専門であった。**さんが心配したのは、どうも旅館ではなくて、ウナギのことであったらしい。「ウナギは大阪から仕入れておりました。養魚ですからサナギを食わしておりますので、肱川で1か月以上置いてそのにおいをとる。その間、何も食べさせませんから身も引き締まって、とても良い味になりよったんですよ。」と言うウナギを活(い)かしておく船が1そうあった。当時はまだう飼いがなかったので、遊覧船を持っていたのは松楽だけで、3そう持っていたと言う。屋根付きの屋形船ではなく、苫掛(とまが)け(スゲやカヤをこもに編み、船の上部を覆った)なので、雨が降ると船の面積だけ雨水がたまる。台風がくると、大揺れの船上で何回も雨水をかい(汲(く)み)出した。
 旅館にたどり着いた**さんは、急いで4そうの船を引き寄せ、つなぐ所がないので、木造3階の1階の柱に縛りつける。「18年の出水の時は、船が引っ張るもんですから、脚元を引っ張られた柱は、土台石ごと表へずれましてね。2階の柱は反対に傾いてくの字に、3階は1階と同じように曲がって、おかげで曲がった家になりました。それでも船は助かったんですが、前の柱から中の柱へ、三つくらい縛り変えて、船も踊りながらしがみ付いとったみたいですね。」とおもしろおかしく説明するのであった。

 (エ)スズキ狩り

 **さんにとって、なれ親しんだ肱川の思い出は、先代の思い出でもある。旧郵便局の辺りが、当時は中島と呼んだ州になっていて、繭の乾燥場があったので、中州へよく行った。中州の水の流れの中にイモリやカエルがおって、わさ(紐(ひも)を輪状に結んで、引けば締まるようになったわな)を作って引っ掛けたり、トンボを追って遊んだ。学校へ通うようになると、川釣りもよくした。「釣った魚は、ハヤ・ドンコ・オオヤマスドンコ・フナ・ゲンゴロウブナ・イダ(ウグイ)、もちろんアユもですが沢山おりましたね。イダは普通の場所じゃなく、独自の場所で投げ釣りに鈴を付けて放ってね。」と、どうもイダ釣りが得意のようであった。得意といえば、**さんが最も得意とするのは泳ぎである。大洲で生まれ大洲で育った者は、**さんも含めてほとんどの人が武術の神伝主馬流(しんでんしゅめりゅう)(元和3年〔1617年〕大洲城下の淵で発祥)に長じていた。前記の大洪水に際しても、濁流をものともせず、平気で泳ぎ切れたのは、神伝流の泳ぎが上達していたお陰だと**さんは思っている。
 中学生のころには、先代から、遊び用の船を造ってもらい、「漕(こ)がしたら腕は達者でした。先代は、『船頭(3そうの遊覧船に専属の船頭がおり、3年たつと船は無償で払い下げられた)じゃいかん。お前来い。』と言うて、『(櫓(ろ)を)押さえて押さえて、控えて控えまして。』と漕がされました。」というぜいたくな川遊びをした中学時代であった。
 松楽の先代は肱川の漁業も手掛けた。「肱川の漁師の中で網の統数を一番多く持っていたようです。みんなでスズキ狩りをするとなると、総指揮官をしとりました。わたしが中学3年のころだったと思うんですが、第14代加藤泰通(やすみち)公(大洲市名誉市民第1号)が東京から帰られた時に、スズキ狩りを見せようじゃないかと、魚市場にかかわる漁業者・旅館業者でね。やったんです、先代の指揮で。ウサギ網をくい打ちして張り、新嵩富橋の辺りから網で追い込んでね。臥龍淵の岩の隙間に魚が逃げ込む穴があって、青竹の下に布を巻き付け岩をしばったものを上から打ち下ろし、魚道から追い出すわけなんです。見ておったら、『お前、学校の試験があろうが。早う帰れ。』と追い返されましたけど。」と、壮大なスズキ狩りを思い出す**さんであった。水の透明度が大きく、水面のさざ波を透かして見える魚影は、今もなお鮮明だと言う。大人がかぎで引き上げて、しっぽは地面で曲がっていたほどの大物であった。

 (オ)先代から受け継いだ生活文化

 「藩政時代に藩立の学校を持つ藩が八つあった。その中の一つが大洲藩の止善書院明倫堂(しぜんしょいんめいりんどう)でした。平家(ひらや)の藩塾があったんです。現在、大洲市指定史跡止善書院明倫堂跡となっている所です(大洲警察署)。油屋の熊おっさん(熊太郎氏)とうちの源さんは、そこへ通う仲良しだったようです。」と、二人の腕白ぶりを楽しそうに語る**さんであった。老舗(しにせ)の主人として川縁(べり)にとどまる二人の若者は、川とともにくらす術(すべ)を次々と身に着けていく。そして、後継者となった**さんは、年の離れた源さんと熊おっさんにかわいがられて、「川と向き合ったくらし」の中へ導かれていった。
 先代は、「肱川というのは肱を曲げたようになっとるので言うのだ。」「峠一つ越えた源流の正信から河口まで直線距離で、わずか20kmの間に311の支流を持つ一級河川で水量も多い。」「臥龍の淵辺りから昔はさらにぐっと曲がって、市役所(大洲市大洲690番地)の所をえぐって、小学校の外堀の所を流れていた。」「治水を考えてなげを造った。」「脱穀した後のもみ殻を、平水・中水・大水と分けて流し、水勢の加減を見てなげを計画した。」「本町の石畳の遊歩道まで水が来ると中水と言った。」「臥龍の淵は、明治12、13年ころには長浜から潜水夫を雇って掘らせた。」「辰巳(たつみ)(南東)から風が強まり、雨も降ると大洲は台風の直撃になる。」「ツバメが高う飛んどる時と低う飛んどる時では、天気もこうなるんじゃ。」「寒い年には、カエルは地深く潜るんぞ。」「風の強い年には、ハチは軒深く巣をするぞ。」とか「火事がいく時には、ネズミは1週間前からおらんぞ。」など、よく話していたようで、**さんも「いつの間にか身に染み付いていました。」と一気に語って聞かせた。


*1:直径1寸(3.3cm)で長さ2間(約4m)の材を1サヤとした。