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河川流域の生活文化(平成6年度)

1 暴れる肱川

 「太平洋戦争たけなわの昭和18年7月17日、サイパン島付近に台風が発生した。台風は、24日愛媛県を北上して日本海に去った。中・四国地方と九州東海岸では、台風と不連続線の活動により、21日から24日まで降雨が続き、各地で記録的な大雨となった。」
 これは、愛媛県警察本部が昭和53年に発行した『愛媛県警察史』第2巻(①)の「昭和18年の大水害」についての書き出しである。続いて、「肱川上流で700mmから900mmを超す降雨があったため、大洲町で明治19年(1886年)以来という出水量を記録し、大洲平野は泥海と化した。」と述べ、特に肱川流域で降雨が激しかったことを指摘している。
 そこで、肱川の源流宇和町の状況を、卯之町警察署の『水害状況報告』(昭18・7・25 警防第234号)でみると、当時の日誌には次のように記されていた。

 今回ノ豪雨ハ 7月21日午后2時ヨリ降リ始メ夜二入リテ雨勢ヲ増シテ間断ナク降リ続キ 翌22日終日降リテ同夜二至リテハ更に雨勢ヲ加ヘ 23日未明其ノ絶頂二達シタルガ 同日午前6時ヨリ稍衰ヘ天候回復スルカニ見ヘタルモ午后4時以降再ビ豪雨トナリ 夜二入リテ更二猛烈ヲ加へ24日午后0時頃迄降リ続キ午后稍衰ヘテ午后5時降リ止ミ25日朝来晴天ト爲レリ 風ハ終始穏カニシテ雷鳴ヲ聞カズ

 また、大洲署沿革誌からの抜粋として、『愛媛県警察史(①)』が掲載している大洲町での水位は「21日午後7時、雷鳴と共に降雨となり、豪雨激しく、水かさ急増して大洲町肱川の水位6mに達す。23 日午後1時7.87m、24日午後4時8.48m。」とある。大洲町では卯之町より5時間遅れの夕食時、雷鳴を伴う降り出しであった。その後さらに水かさを増し、桝形地点・若宮地点の水位とも8.6mを記録している(写真4-1-1参照)。
 建設省大洲工事事務所から発行された『大洲工事五十年史(②)』によれば、昭和18年の洪水を主要洪水の冒頭に取り上げて次のような説明がある。「低気圧と不連続線が本流域付近に停滞したためにもたらしたもので、7月21日~24日の4日間に年間降雨量の約1/3の降雨量があった。このため山地の崩壊・地辷(すべ)り等が各所に起こり、河水は濁流となって氾濫し、人畜の死傷、民家の流失、堤防の決壊等、未曾有(みぞう)の大被害をもたらした。流域総雨量は本川上流宇和町で755mm、支川小田川の小田町で406mm、日雨量は宇和町で228mm、小田町で160mmを記録した。一方水位は、大洲桝形地点で8.6mを記録し流量は、約4,800m³/sと推定された。」
 土佐沖から北上したこの台風は、肱川流域に停滞した不連続線を刺激して記録的な豪雨をもたらしたのであった。
 この時、8人の語り部(べ)は、それぞれ次のような体験をしたのである。

写真4-1-1 肱川既往最高水位記録標(大洲城下、桝形地点の海抜9.617mを零点高としていた。)

写真4-1-1 肱川既往最高水位記録標(大洲城下、桝形地点の海抜9.617mを零点高としていた。)

元大洲工事事務所跡(大洲市立喜多小学校内)。平成6年11月撮影