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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 ミカンでにぎわったころ①

(1)温州ミカン

 「私(Aさん)は結婚したころ、家内が体を悪くして農業ができないので、私に農業会の技術員をやめて農家を一緒にやってくれと、家内の姉さんに言われていました。それで農業会が農協になった昭和20年(1945年)の12月で、私は技術員をやめたのです。それから家のミカン畑を広げていったのですが、農業会の技術員をやめたのはいいのですが、自由のきく技術員として重宝がられて使われていました。伊予園芸のミカンの選果場の評価員の指導者に選ばれて、指導者としてその後も行っていました。
 昭和39年(1964年)に下灘(しもなだ)地区の圓山(まるやま)園芸組合の組合長になりました。私が39歳のときです。そのときに、ブランドを統合して伊予園芸の「○伊」一本にするようになりました。それまでは、地域ごとにマークがありました。
 ミカンの生産は、昭和30年代にどんどん増えました。愛媛県が温州ミカンの生産量日本一になったのは昭和43年(1968年)で、全国の生産量が200万t(うち県内で38万t)だったそうです。
 昭和45年(1970年)に下灘のミカン生産量が、14,270t、面積は606haでしたから、下灘地区だけで全国の生産量の1%弱を占めていました。このころがミカンの全盛期でした。
 昭和30年代には、ミカン畑1反(約991m²)あれば子どもを県外の大学に行かせることができると言われていました。下灘(しもなだ)では、ミカン農家だけが松山(まつやま)のバーに飲みに行けた時代です。ミカン箱1箱売れば、一晩飲むことが出来ました。サラリーマンではバーに行けませんでした。本村(ほんむら)地区の人もテーラーに乗って、下灘から3時間かけて、松山のパレス(店名)に飲みに行っていました。途中でよくパンクしていましたが、パンク修繕(しゅうぜん)道具は常に持っていたので、自分で修理していました。
 ミカンは、今ではダンボール箱で出荷していますが、その前は、20kgぐらい入る木の箱で出荷していました。籠(かご)での出荷はなかったです。木のミカン箱は、自分で組み立てていました。それが夏の間の仕事でした。木の板が運ばれてきて、自分で釘(くぎ)を打って組み立てました。秋から始まる収穫に備えて、夏の間に材料を自宅に持って帰って、ミカン箱を作っておく必要がありました。ミカン箱は、一生懸命組み立てても、1時間に10個ぐらいしか組み立てることができませんでした。ダンボール箱で送るようになるのは昭和40年代になってからです。
 ミカン景気によって、この地域の水田や畑はミカン畑に変化していきました。棚田にミカンが植えられていきました。お米は作らなくなり、買うようになりました。
 ミカンが200箱入っていた(生産した)人が、『500箱入るようになったら、愛人をつくるぞ。』と冗談を言ってみんなを笑わせていました。浜で、生産したミカンを船に積んで運搬(うんぱん)し、代わりに札束を入れた箱が農家に行っていましたから、どこの農家が儲(もう)かっていたか、よく分かっていました。
 私(Aさん)が下灘の支部長をしていたのは昭和40年代ですが、当時、漁師の人でも100箱ぐらいは出荷していました。一番多い人は1,000箱以上出荷していました。兼業といっても漁師をしながらで、勤めに行きながらはなかったです。今では専業農家の人が、かつての3分の1もいなくなったと思います。今、下灘で組合に加盟している家が168戸になりました。昭和40年(1965年)ころは、540戸から550戸加盟していました。今、専業農家をしているのは、ハウスミカンをしている36、37人だと思います。
 ミカンの全盛期は昭和40年ごろで、伊予園芸とか西宇和園芸ではおよそ110億円の売り上げがありましたが、昭和43年(1968年)にミカンの大豊作と品質低下が重なったため暴落しました。それが第1回目で、昭和47年(1972年)に全国的な生産量の増加のため、2回目の暴落になりました。
 昭和50年代には、私(Aさん)の家もミカンが増えてきて、だいたいキャリーに5,000箱ぐらい取っていました。収穫が増えたので、お手伝いに、大洲市の八多喜(はたき)から若い夫婦連れが2組と、おばさんが泊まり込みで2人、合計6人が収穫時に来ていました。若い夫婦はこちらまで通っていました。お手伝いは、知り合いの伝手(つて)で来てもらい、12月ころに雇っていました。他の時期はそれほど困らないのですが、収穫時には人手がいりました。ミカンを摘(つ)む人を『摘み子さん』と呼んでいました。
 下灘でのミカン栽培は、『双海町誌』では、明治35年(1902年)に下灘(しもなだ)の加納善太郎さんが温州ミカンを導入し、村役場が補助金を出して奨励(しょうれい)したと記されています。しかし本村(ほんむら)では、明治時代に慶徳寺(けいとくじ)の和尚(おしょう)(真霊(しんれい)氏と仙涯(せんがい)氏)さんが、本村の『沢の池』そばの畑に導入したことから始まったと言われています。和尚さんは讃岐(さぬき)の多度津(たどつ)の出身で、和歌山(わかやま)あたりから持ち込んだのかもしれません。『ミカンを植えたら大儲(おおもう)けするぞ。』ということで始め、広めたそうです。それでミカンが増えて、その後、加納善太郎さんが販売のほうで活躍されたそうです。池の近くなので灌水(かんすい)も十分できたのでしょう。今、そこに『真霊 仙涯 両師稼殖地(りょうしかしょくち)』と刻まれた石碑があります。真霊さんが仙涯さんに寺を譲って、この地で隠居しながらミカンを作っていたようです。以前は、この石碑の前で本村の人たちが遺徳(いとく)をしのんで集まって昼を食べていた、と聞いています。
 双海町になってからは、町の特別会計にブルドーザー特別会計がありました。ミカン畑の農道整備のための特別会計で、ブルドーザーを使って頻繁(ひんぱん)に整備して軽トラックが走り易くなりました。当時(昭和30年代)の町長さんの名前をとって『松田(まつだ)彌太郎(やたろう)道(みち)』といっていました。
 ミカンの運搬は、ネコグルマからテーラーになって、トラックに変わりました。私たちが知っているのでは、ネコグルマは、ほんの少しの間だけで、ほとんどはテーラーでした。トラックは中古の軽トラックでした。
 本村には索道(さくどう)もありました。海岸にあった倉庫から山へと繋(つな)がっていました。索道の一番上の所までは、みんなでミカンを運び、そこからは、スーッと索道で下の倉庫まで降ろしていました。
 昭和40年(1965年)より前は、耕運機(こううんき)でミカンを運んでいました。テーラーです。テーラーは、昭和33年(1958年)には、下灘(しもなだ)の小学校で免許の実技がありました。テーラーの免許はちょっと実技をしたら、すぐ免許をくれました。
 下灘小学校の向こうに双葉館という映画館があったので、毎晩毎晩、テーラーで見に行っていました。テーラーには、家族中が乗って行っていました。映画館は、双葉館と東映館の二つありました。双葉館は松竹系でした。
 トラックは、昭和40年ころから乗っていたと思います。4輪のトラックです。このころから、ミカン園にモノレールが一斉に普及し、運搬が早くなり体も楽になりました。
 戦後間もないころ、夜の間に機帆船がきて、昔、炭などを積み出していた場所から、ミカンを積んで出荷していたことがあります。出荷先が農協とか森林組合とかでなく、私たち(Aさん)の地区で出荷したことがあります。農協に出すよりも値段が2倍も3倍にもなるので、ミカン箱をかるて(担いで)船に積んだのを憶えています。代金は現金払いでした。明(あ)くる日には、お金を分けてもらいました。
 林業でも、当時は木材の値がよかったので、『嫁入りさす(お嫁にいく)なら、一山(ひとやま)木を切ったら大丈夫よ。』と言っていました。当時は『役場に入庁すると食っていけない。』『郵便局に行きながらよく生活が成り立つな。』と言っていました。学校の先生をしながら、農業をしている人もいました。今では、逆になってしまいました。今、下灘全体のミカンの売り上げが5億円を切って4億円台だと思います。私(Aさん)が青果連に出ているときは、7億から8億円のミカンの売り上げがありました。最近、果樹試験場の顧問(こもん)になっている関係で、毎年歴代の組合長や今の職員と会う機会があるのですが、組合を退職してミカンを作っている人の話では、今は勤めていた時の年収の半分も取れないと言っていました。」

(2)シイタケ栽培

 「私(Cさん)は、昭和47年(1972年)にミカンが大暴落をした時に、『こらいかん。』と思って、シイタケを始めて、ミカンとシイタケの2本立てでやっていました。シイタケの原木はクヌギです。毎年10、11月の落葉前に原木を伐採(ばっさい)します(元切り)。翌年の1、2月に、長さ1mくらいに切りそろえます(玉切り)。2月から4月にはシイタケの菌を入れます(植菌(しょっきん))。植菌から1年後、春と秋にシイタケができます。だいたい3年間は収穫できますが、5年目ぐらいになると原木が腐ってしまうので、毎年、新しい原木に植菌を続けます。
 シイタケは儲(もう)かりました。生シイタケ100gのパックを、1パック20円から80円で松山中央卸売(おろしうり)市場に出して、そこそこよい収入になりました。乾燥シイタケは、10kgから15kg入る大きいダンボール箱に入れて売りに行きました。軽トラックに1回積んで行っては、1kgあたり2,000円から7,000円で売っていたように憶(おぼ)えています。販売先は、松山市の立花(たちばな)にあった3軒の問屋さんです。各問屋さんそれぞれ値段が違うので、1軒目で交渉が決裂しても、別の所に持っていって売ったりもしていました。それでもだいたいは、問屋の言い値で売っていました。生産者によっては、問屋さんと交渉して、値段が上がらないと売らない生産者もいました。ですが、そういう生産者は、すぐに顔を憶(おぼ)えられるので、得するのは最初の1回だけで、後はずっと損をしていたように思います。高値で交渉してくる生産者には、問屋は初めからよい値段を提示(ていじ)せず、低い値段からシビアに交渉していました。私(Cさん)は変に交渉せず、問屋さんの言い値で売りましたので、最初からよい値段をつけてくれました。昭和の終わりごろから、中国産が輸入されるようになり、急に値段が下がりました。その後、シイタケをやめ、キウイフルーツの栽培を始めました。次に、水田をやめて、ハウスミカンをやり始めました(図表2-2-2参照)。」

図表2-2-2 Cさん方の農作物の移り変わり

図表2-2-2 Cさん方の農作物の移り変わり

Cさんからの聞き取りにより作成。