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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 生業の移り変わり

(1)林業と炭焼き

 ア 林業

 Aさん、Bさん、Cさんが下灘地区の農林業の様子を話してくれた。
 「双海町には35集落あるのですが、大きく三つに分類できると思います。まず上灘の高岸(たかぎし)辺りの標高100m前後までの所にある集落は、平坦部(へいたんぶ)で水田が中心の集落で、その後は、ミカン栽培が広がってきましたが、基本は水田が中心の集落になると思います。次に、標高200m前後の集落は、家族で食べるだけの水田があって、それ以外にも畑と山を持っている家が多い集落になります。最後にCさんの家付近の、標高300mから400mの集落は、山林の収益が中心の集落になります。
 昭和20年(1945年)代は、山がちの地形なので養蚕(ようさん)の収入より山林の収入が大半を占めていました。スギ材の値が良かった上に、プロパンガスが普及するまでは、木炭などの燃料として木の需要が多くありました。
 スギ山やヒノキ山より、クヌギ山が一番価値がありました。クヌギなら炭焼きの原料として10年ほどで伐(き)れるのでスギやヒノキより成長が早く、お金になるからです。一番いいのがクヌギの12年もので、10年で伐ると貫数(重量)が出ませんが、逆に15年もすると、貫数は出るが炭の質が悪くなりました。山主は、山が12か所もあれば毎年伐れるのでよかったのです。
 山を伐採して、禿山(はげやま)になると、自分たちでクヌギの苗木を植えます。苗木を植えてから、10年ぐらいは、下草刈りやかずらが巻きついたものを処理する必要があります。苗木が草よりも高く抜き出たら、下草を刈らなくてもよくなります。そうなるまでが大体10年ぐらいはかかるのです。その間の管理が大変で、昔はそういう仕事が山にはありました。今は、人手をかけても収入が出ないので何をしているか分からないです。
 昔は、山へ車で行く道などなかったので、山に行くときは皆、弁当を下げて行っていました。弁当箱はワッパでした。それに上の蓋(ふた)と下の底の2段重ね両方にいっぱいご飯を詰めていました。だいたい、午前10時ごろと午後3時ごろに弁当を食べていました。朝食と夕食をあわせると1日に4回ご飯を食べていました。朝が早いので、10時にはお腹がすきました。おかずは、今のお弁当みたいに沢山(たくさん)はなくて、たくあんと梅干ぐらいでした。ご飯でお腹を太らせていました。ご飯は米の飯でした。」

 イ 炭焼き

 「炭焼きの炭窯(すみがま)の大きさは窯に入れる木の重さで決まります。500貫(約1,875kg)から800貫(約3,000kg)までの炭窯がよく、最大800貫ぐらいです。500貫より少ないとめんどくさいですし、1,000貫(約3,750kg)以上ですと、窯の上部は鉄筋(てっきん)も何も入れてないので、窯がもたなくなります。窯は土で作りますので、雨をしのげるように窯を覆(おお)う屋根はスギ皮で作ります。私は子どものころから祖父が作っているのを見て一緒にやったので、全部覚えています。
 最初に、土を掘って形を作ります、そして炭にする木をだいたい1mぐらいに切って、それを炭窯の中に立てていきます。その後5cmぐらいに切った木を、並べてある木の上などに隙間(すきま)なく詰めていきます。そうやってきれいな炭窯の形に木を盛っていきます。その上に藁(わら)こもを置いて、土を20cmぐらい盛って固めていきます。丸太(太めの棒)を持って2人から3人が窯の上部を叩(たた)いて固めます。窯の上部の厚さは、枝の皮を剥(む)いて定規代わりにし、土を盛っている所に差し込んで調べます。窯の上部を固めるには、2mから3mのスギの丸太で叩(たた)きます。2人から3人で順番に丸太を打ちつけて固めていきます。20cmぐらい盛っていた土が、圧縮されて10cmぐらいの厚さになるまで打ちつけます。その作業で窯の上部ができても、まだ表面がぶしぶし(でこぼこ)になっているので、木で作ったコテのようなもので、窯の上部が斑(まだら)(でこぼこ)になっている所を、きれいにならしてツルっと仕上げます。これで窯の上部は完成です。
 炭窯の入り口は、人がくぐって入れるぐらいの大きさになります。高さは1mもなく、しゃがんで入るぐらいの70cmから80cmの大きさです。
 一番後ろには、煙突を立てるようにします。炭窯があったら、その後ろに別に穴を掘りまして、煙の出口を石で囲います。石で囲わないと窯の熱でその周辺から窯が壊れるようになります。
 炭に使用する原木は、枯(か)れた木や乾いた木では、いい炭にならないので、生木を組んで使うようにします。伐(き)りだち(伐ってすぐ)の木を使用するといい炭になります。
 窯のまわりが出来ると窯を焚(た)き始めます。3日ぐらい焚くと屋根が白く乾いてきます。乾き具合を見ながら作業を進めます。初めは煙突をつぶしておいてから焚き、屋根の乾き具合を見て、煙突を空(あ)ける判断をします。そうすると窯の中に火が燃え移ります。タイミングよく火を入れる必要があり、早く火を入れすぎると屋根が乾ききってなく落ちる場合があります。そのあたりのことは経験で作業します。
 窯の中にある小さい木が燃え始め、その火が本体の木に燃え移ったら、煙がずっと出続けるのですが、本体の木に移ってないと消えてしまいます。煙で確認して確実に本体が燃え始めたのを確認したら、焚(た)くところの入り口に石積みをして小さくし、空気の通り道を狭(せば)めます。それからは焚かないようにして、中の木炭の原木が焼けるのを待つようにします。
 最後のころになると、煙がかすかに見えるようになって、『これでもういいなあ。』と判断すると、煙突も入り口もふさいで、蒸し消します。そこの判断で、まだ煙が残っているのに『めんどいから。』と煙突を潰(つぶ)す時期が早いと、木炭の下の方がまだ本当に炭になっていないものができました。
 火を消す時期が夜中になるときは、煙突に何本か木の枝などを押しあてて、煙の量を抑えるようにして、朝までもたせるようにしていました。また、入り口の開け具合などで調整していました。火を消してから、だいたい4日くらいで、炭を取り出せるようになるのですが、中に入るとそれは熱くて、すぐに汗がぼとぼと落ちてきます。
 窯の中と外の人が連携して、炭を取り出します。外の人が窯の中へ竹でこしらえたものを差し込むと、中の人がその上にできあがった炭を乗せて、外の人が窯の外へ引っ張り出します。全部取り出すと、また炭焼きする原木を用意しておいて、中に入れていきます。外の人が中に原料を放り込んで、中の人が窯の中で立てていきます。最後のほうは、外の人から中の人へ、手渡しになってきます。
 同じ窯で2回目になると、窯の中に熱が残っているので1日ぐらい焚いたのでよくなります。それをまだ熱が残っているからと、何日も間をおくと、今度は逆に原木に燃え移らなくなり、倍ぐらい焚かないといけなくなります。だいたい1回の窯焚きが1週間から10日ぐらいかかりました。その間に山の原木を倒しては、小さく切って用意しておく必要があります。だいたい1回800貫で10回ぐらいやります。それで一冬(ひとふゆ)のサイクルになって、1万貫近くできます。個人でやる場合はこんな感じです。
 冬は炭焼き、夏はスギ山伐(き)りなどの仕事がありました。スギを伐るのもチェーンソーではなく、ノコギリで伐るので、時間がかかりました。スギを伐るのもなぜか競争のように皆黙々と仕事をしていました。
 松山市や伊予市の平野部は田や畑が多く広がっていて、田畑を多く所有している人は家が大きかったと思いますが、こちらの地域で家が大きいのは、山を所有している人でした。こちらの地域でも中には、田畑を1町(約1ha)ぐらい所有している人もいましたが、だいたいは、山をたくさん持っている人の家が大きかったです。クヌギであれば、毎年のように炭焼きの原木が取れるのでよいのですが、スギやヒノキは数年に1回しかとれないので、価値としてはクヌギ山の方が高かったのです。
 マツは25年ぐらいで伐(き)れました。スギは30年から40年で伐っていました。そのため、スギは時間がかかりました。また松の場合は、回転が早い上に植林しなくてもよく、伐って禿山(はげやま)にしても、また自然に生えてきました。自然に生えてきた赤マツのほうがきれいで、手で植えた黒マツはあまりきれいではなかったです。マツタケもあり、子どものころマツタケを取りに行ったことがあります。
 マツ自体の値はスギより安いのですが、回転が早いので利益率はよかったです。植林しなくてよいメリットもありました。いっぱい生えるのですが、自然とマツは淘汰(とうた)されて、太るマツだけが残り、あまり手入れする必要がなかったです。
 私(Bさん)はずっと農業をしていたのですが、炭焼きの作り方などの農業の知識は、すべて父親から習ったものです。炭焼きの窯(かま)の作り方をもう少し補足(ほそく)すると、窯を造る土は、土質を見ないといけませんでした。土そのものは赤土を使用しました。鉄分が多い土を使用しないとダメでした。それは、地元にある土でした。
 火山灰(かざんばい)などが混ざっていると、窯がもたないのです。土を固めるために、いくら叩いてもダメでした。同じように見える赤い土でも、窯用の土としてふさわしい土とふさわしくない土がありました。ふさわしくない土で作ってもダメで、窯造りには土質が大事でした。
 炭窯の命は土質にあったのですが、もう一つ大事なのが、窯の火の止め方です。煙突などで調節はするのですが、煙で判断しないといけないのです。煙が浅葱色(あさぎいろ)になって薄くなっていくと、一応は炭の原木全部に火が通ったと判断できるのです。それが、まだ煙に白けがあったり、白さが濃い色だったりすると、まだ半分ぐらいしか出来ていない状態だと判断できるのですが、それは理屈ではわかるのですが、これは、何回か経験を重ねてみないとわからないことでした。
 煙がだんだん薄くなって、紫色みたいになり、最後は煙が見えなくなるのですが、炭を取り出すタイミングを間違えて遅れると、炭が灰になってしまって炭の量がとれなくなってしまいます。そのため、取り出すタイミングは、早すぎてもいけないし、遅くてもいけません。タイミングによっては、まったく量が違う難しさがありました。
 ほかには、あまりにも煙突を大きくして、タッタタッタ燃やすと、軟らかい炭ができてしまい、貫数(重量)が取れずお金になりませんでした。
 私(Cさん)はいつも、祖父について行っていたので、煙で判断できるようになりました。
 炭は森林組合に出していました。森林組合から全国や松山に送っていたと思います。そのころはどこでも炭を使っていて需要がありました。森林組合は、木材などを強制的に伐採(ばっさい)するために、昭和17年(1942年)に国が作ったのが始まりです。森林組合ができてからは、森林組合が炭も扱(あつか)うようになりました。全て林業関係は、森林組合を経由(けいゆ)するようになっていきました。森林組合は、昭和50年(1975年)ぐらいまで事務所を持っていました。
 昔、機帆(きはん)船を下灘の浜につけて出荷したこともあります。潮が満ちたときに浜に着けて、潮が引いたときに、砂浜にあがった船に荷物を積んで、また潮が満ちたときに出航していました。これは、私(Cさん)が小さいときの話です。
 出荷する製品は、海抜500mぐらいの所から『ネコグルマ』と呼ばれる道具で下ろしていきます。ネコグルマは、ここ下灘で発明された道具で、使っていたのを憶(おぼ)えています。ネコグルマには、荷台に木製の車輪が四つ付いています。ネコグルマに荷物を積んで、人間がネコグルマの前に立って、山道を下りていきます。ミカンもこれで出していました。ソリもありました。ネコグルマは、ソリに車輪を付けて発明された道具でした。帰りは、ネコグルマを担いで山を上がるので、体力のない人は使えませんでした。
 炭は、炭俵に入れて出荷していました。炭俵を編むのは、女の人がする仕事でした。カヤかススキを冬の間に刈ってきて、女の人が編んでいました。俵の上下には、わらで作った蓋(ふた)をしていました。炭俵は、直径30cmの長さ1mぐらいです。サンダワラと呼んでいました。炭俵三つを横にして3本縄をかけて縛っていました。
 私(Cさん)が小学生のころは、線路(予讃線)の横に小学校がありました。その横に倉庫があり、そこに炭俵を出していました。昭和30年代の中ころからは、『テーラー(荷台付き動力耕運(こううん)機)』や自動車が山に登りだし、積み出すようになり、ネコグルマを使う人は見かけなくなりました。」

(2)養蚕

 「戦後間もないころは、乾燥シイタケの栽培や養蚕(ようさん)、炭焼きをしていました。ミカンが主流になる前には養蚕が盛んで、農家の換金作物は、養蚕とお米しかなかったのです。養蚕は年に3回の蚕(かいこ)飼いが4回になって、子どものころによく真綿(まわた)をとらされていました。
 山がたくさんある人は、お蚕(かいこ)を飼わないでもよかったのですが、山林の少ない人は、ミカンが主流になる前は、養蚕や、炭焼の手伝いに行ったり、薪(たきぎ)を拾って売ったり、そういう仕事をしていました。
 お蚕は今の飼い方と違うのです。私の家でも、私の子どものころ、母が夜も寝ずにお蚕の世話をしていました。お蚕は、春から秋にして、お蚕には、春子(はるこ)、夏子(なつこ)、秋子(あきこ)と『子』をつけて呼んでいました。寒いときは、炭を入れて温度を保っていました。1日3回ぐらいお蚕に桑の葉をあげていました。餌(えさ)以外にもお蚕のしるや糞(ふん)を掃除しないといけません。棚にお蚕を置いているのですが、それを次から次へ順番に掃除する必要がありました。
 棚に網があって、それを代えて、糞を除(の)けてまた新しい網を置いておくようにします。その上に桑の葉をおいてお蚕の餌(えさ)を準備するようにします。
 お蚕が大きくなって繭(まゆ)を作るころになったら、桑を食べなくなって透き通ったような色になります。そうなってくると、繭づくりのため、蔟(まぶし)に入れて繭を作らせます。繭ができると、『繭むぎ』と言って、繭を1個1個、手でむしり取ります。繭には、クモの巣にゴミが付着するように、いらないものがいっぱい付いているので、それを取り除くために、繭を入れて手で回したら、むしりとる器具があるのです。昔の洗濯機のローラーで回すような器具(蔟折機(まぶしおりき))に繭をかけると、繭が転げて繭の表面に付いているゴミみたいなものがいっぱい取れます。それできれいな繭になったものを出荷するのです。とにかく、手間がいる仕事でした。」

(3)牛を飼う

 「どこの農家も牛を飼っていました。我が家も牛を毎年1頭飼っていました、牛は、子牛を産むので、それを売って収入源にしていましたし、田畑を耕したり、畑に入れる堆肥(たいひ)をつくるのに重宝(ちょうほう)していました。毎年、子牛を出産するのですが、私(Cさん)が小学生のころ、メス1頭5万円ぐらいで売れました。オスの子牛は安くメスの半値ぐらいで、メスができると喜んでいました。
 各地区に『爪切り』といって、獣医さんがまわって牛の爪を切っていました。地区に獣医が到着すると、各農家の牛が集められて爪切りをするのです。昭和20年代が一番盛んでした。牛市も下灘の海岸近くで毎月開かれていたのが、年に3回、年に1回となり、そしてなくなりました。それは、昭和27年(1952年)ごろから小型のテーラーが普及してきて、だんだん牛がいらなくなったからです。それでも昭和30年(1955年)ころまでは、まだ牛を使用していたように思います。『肥やし牛』と言って、牛を太らせてから販売する農家もありました。そのころから、シイタケ栽培や養蚕(ようさん)などから、ミカン栽培にシフトしていったのです。
 当時の現金収入としては、お蚕(かいこ)と子牛を売っての現金収入でした。牛は肥料などない時代ですから、牛糞を肥料に使用しながら、牛を飼って子牛ができると売っていました。
 そのため、下灘(しもなだ)村村営で牛市がありました。牛市は、今の下灘小学校のプールの所で行っていました。牛市自体は毎月ありましたが、それは小さい市で、9月22日ごろに、1年で一番大きい牛市がありました。村中の牛のほとんどは9月の牛市に集まってきました。そのときには、博労(ばくろう)さんも大勢来ていました。各農家が全部の牛を連れて運動場に来ていました。子牛も連れてきているので、セリ人が1頭1頭の値段を、『ナンボじゃ。』と決めていました。各農家は、できるだけ9月の市に出せるように、逆算して子牛を生ませていました。昭和20年代、牛市で一番よく買っていたのが、満野(みつの)の人でした。よそからも来ていましたが、その人が一番よく買っていたので、牛の値段はその人の言いなりみたいになっていました。農機(農業用機械)が出回るまでは、みな牛を飼っていました。昭和30年代になったら、農機の普及とともに、だいぶ減りました。
 今の小学校のプールの所に牛市がありましたが、そこに種牛もいました。種牛には、ちゃんと種牛を管理する職員が一人付いていまして、発情したメスを各農家が連れてきて、そこで牛を種付けさせて連れて帰っていました。メス牛がいつ発情するか分からないので、種牛は年中待機していました。日にだれかは連れてきているぐらい牛がいました。牛市のねき(すぐ近くに)に種牛の納屋がありました。
 小学校のころ、友達に誘われて、休み時間に種付けしている牛を見にいったら、授業の開始時間が分からなくなって、先生に叱(しか)られたことがあります。今みたいな人工授精ではなくて、大きい牛がメス牛の上に乗っているのが面白くて、時間を忘れて見ていました。小学校のちょうど下でしたので、すぐに見に行けました。見たことないので興味がありました。牛市に出店が出たりすることはなかったです。」