データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)独立して一人で商売

 ア 卸屋を探しながら仕入れる

 「昭和29年(1954年)に結婚しました。主人は5歳上で、養子に来てもらったのです。隣のおばさんの遠縁になる人が郵便配達に来ていて、おばさんが聞いてみると『養子に入ってもかまわない。』と言うので、おばさんの親戚の人にお願いして来てもらうことになりました。結婚するまでに主人とは一度会って話したぐらいでした。当時は、結婚もこんな形で決まることが多かったのです。式は私の家でしました。
 結婚してから、行商先の若いお客さんに『今度こんな服を仕入れてください。』と言われることが増えてきました。おばさんに悪いと思いながらも、一度卸屋へ行ってみようと決心して行ったことが、自分で仕入れをするきっかけでした。仕入れに必要なお金は、主人が月給を生活費としてくれるので、それをやりくりして使うことにしました。最初は卸屋がどこにあるかも知らなかったので、松山のお店を1軒1軒『ここ、卸屋ですか。』と尋ねて歩きました。何度か通っているうちに慣れてきて、どの店が卸屋で何を扱っているかがわかるようになり、自分で仕入れができるようになりました。卸屋は、松山の柳井町(やないまち)や河原町(かわらまち)にありました。後(昭和44年)になって山越(やまごえ)に卸団地もできました。卸屋は、普通に店を構えている衣料品店で、一般のお客さんも買いに来ていました。仕入れの帰りは、バスに風呂敷に包んだ大きな荷物を載せて帰っていました。荷物が大きいので運転手に『後ろの方に、乗っとうきや。』と言われていました。」

 イ 行商も2人になった

 「卸屋さんとの付き合いも50年以上になります。先日、柳井町の天狗屋さんに仕入れにいった時、『行商も伊予市の**さんとあなたの2人になったよ。』と言われました。卸屋へは大した額でなければ現金で支払っていましたが、普通は売り掛けでした。前金をいくらか入れておいて、後で支払うのです。慣れてくると高価な物は返品することもできました。お客さんへ売る値段は、仕入れ値に2割加えるぐらいを目安につけていました。お客さんはそんなに高額でないので、現金で支払ってくれました。昔は、物々交換でお米をもらうこともありました。
 ワンピース、ブラウスなど婦人衣料品、子どもの服、それから作業着などを主に売っていました。高価なものは山では売れないので扱っていません。昔の農家の女性は木綿縞(もめんじま)でモンペや半てんを縫っていたので、反物を扱ったこともあります。少しですが、乾物や飴(あめ)なども売っていました。
 品物は、大風呂敷に包んで担いで行きます。手にも風呂敷を持って出かけました。子どもがお腹にいる時には、大きいお腹の上にも荷物をのせて回っていました。商売が好きだったのだと思います。子どもが生まれてから、行商には子どもを連れて行ったことはありませんが、仕入れには連れて行きました。行商に出ている間、子どもは父が見てくれていました。」