データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)人と人とをつなぐ

 ア さまざまな情報を運ぶ 

 「商売に出て行く回数が増えると、だんだんと知り合いもできて、買ってくれるようになります。そのうち『いついつ旅行に行くから、こんな服をいついつまでに持ってきて。』というように注文されるようになりました。注文されれば、間に合うように松山へ行って仕入れて持って行きました。そうやって、お客さんと信頼関係を築き、得意先をつくっていきました。全盛期には広田の集落の半分ぐらいを回り、得意先は100軒ぐらいありました。もちろん広田にも衣料品店はありましたが、店まで遠かったり、忙しくてなかなか店に行けない人には、行商が都合よかったのだと思います。また、衣料品店で売るより少しは安く売っていたことや、あの人にはこれが似合うかなと思って品物を持って行っていたことで得意先が増えたのだと思います。
 1日に回る家は、10軒ぐらいです。品物を売るだけでなく、世間話や健康のこと、子どもの話などいろいろな話を聞いて帰っていました。あっちこっちに行っているので、いろいろ知っていると思われたのでしょうか、『うちにこんな娘がいるので世話をしてくれないか。』と言われるようになり、結婚相手を探すこともありました。仲人も何回か頼まれました。昭和40年代に入ってお嫁さんの支度で呉服の反物を売るようになり、頼まれれば、広田に仕立て屋さんがいたので着物を縫ってもらっていました。
 1回行ってから次に行くまでの期間は、近くなら1週間から10日ぐらいです。10日以上行かなかったら、『どっか、体の具合が悪かったの。』と逆に心配されることもありました。高市や臼杵などの遠方へ行くのは、一月に1回ぐらいでした。毎日は行商に出ません。仕入れに行く日もあるので、週に3、4日です。仕入れは10日に1回ぐらい行っていました。」

 イ 行商に出る人、来る人

 「昭和30年代に、広田村で行商をやっていた人は、私の他に4、5人はいました。衣料品を自転車に載せて売るおじいさん、担いで農作業で着る雨ガッパを売るおじいさんなどです。自動車で売る人はずっと後になって出てきました。広田の女の人で行商をしていたのは私だけだったと思います。隣のおばさんもそのころになるとほとんど行商に出ないで、近くの石山(いしやま)へパンやクズシ(かまぼこ)など食べるものを売りに行ったり、昔は家の前がバス停だったので、バスが停まるとアイスキャンディーを売ったりするぐらいでした。
 広田に行商で来る人もいました。昭和20~30年代には、車で乾物を売りに来る人、三津(みつ)から魚を天秤(てんびん)棒で担いで来る男の人や砥部から陶器を売る人も来ていました。陶器を売っていた人が雪で帰れなくなって、泊めてあげたこともありました。水枕に焼酎を入れて売りに来ている人もいました。かんざしやゴム、ピンなどの小間物を売りに来るおばあさんもいました。お祭りが来たら、子どものおもちゃを担いで売りに来る人もいました。時々ですが、小田から木偶(でく)回し(人形まわしのこと。信仰的なえびすや三番叟(さんばそう)のほか娯楽的な人形芝居まで幅広い。)も来ていました。昭和40年代までは、お正月になると徳島から木偶(でく)回しに来る人もいました。昔は村ごとに芝居をしたり、踊ったりしていました。満穂に電気が通った時には、踊りを踊ったこともあります。満穂は万歳(まんざい)の盛んな地域で、よく行われていました。」