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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)商いの師匠は隣のおばさん

 ア 初めての行商

 「私は、この峠(上尾(うえび)峠)で生まれて育ちました。この峠には家が2軒しかなく、次に民家があるのは2kmぐらい先になります。隣には行商をしていたおばさんが住んでいました。私が小学校5年生の時、母が亡くなったため、子どもがいなかった隣のおばさんには大事にしてもらいました。そんな縁で行商の世界に入ったのです。
 中学校を卒業して、昭和24年(1949年)数えで16歳の時に行商に出るようになりました。婦人の衣料品を主に行商をしていた隣のおばさんに、『売りに行ってみるかな。』と言われて行商に出るようになったのです。私は5人兄弟の長女で、私の上に兄が1人、下に妹と弟が2人いましたが、一人の弟は母が亡くなる1年前に、妹は母と同じ年に、兄は母の1年後に次々と亡くなりました。父は炭焼きなど山仕事をしたり、満穂鉱山(銅山)で働いたりしていましたが、体が弱く、弟もいたので私に仕事をさせなければならないと思ったのでしょう。もう一人の弟は私の3歳下でしたが、中学校3年生で亡くなりました。結局、私一人が残り、この家にずっと居ることになったのです。
 最初は、時々隣のおばさんについて行く程度でしたが、そのうち一人で行くようになりました。初めて1人で行商に出た時は、家の近くをまわりました。恥ずかしかったので『なんか、いらんかな。』と小さな声を出して、そのままじっと突っ立っていました。すると、近所の人が、『何があるん。』と声をかけてくれて、『この子は母親が亡くなって、行商に出ている親孝行な子だから、買ってあげないかん。』と言って買ってくれたことを覚えています。普段は、日帰りの行商でお弁当を持って行商に出ていました。最初のころに『家にお米なんかない。』と言うと、隣のおばさんが、『ご飯だけならある』と言ってお弁当に入れてくれたこともありました。おばさんの家は田んぼでお米を作っていたので、お米があったのだと思います。その時代(昭和20年代)はまだ食べ物がなくて、トウキビやイモを食べていたのです。小学校4年生の時、兄が道後の病院へ入院したので看病に行きました。病院で隣に入院していた人が、お米のご飯を食べているのを見て、『お米なんかは見たこともないのに食べている。』と思ったことがありました。小学校の4年、5年生ころには、『口減らし』と言って、農繁期の1週間ぐらい泊り込みで子守に出たこともありました。その時は、二名(にみょう)(久万高原町)まで行って小学校へ上がる前ぐらいの子どもを見ていました。」

 イ 1日に山道を20km歩く

 「行商へは週に3、4日は出ていました。行商に出始めたころは、戦後のモノがない時代であったので、風呂敷に包んだ衣料品を全部買ってくれた人もいました。高市(たかいち)、臼杵(うすき)、二名などの遠方へ行く時は、同級生や知り合いの家に泊めてもらいました。泊めてもらう時は、お礼に何か品物を渡していました。昭和46年(1971年)にバイクの免許を取るまでは、ほとんど歩いて行商に出ていました。1日に山道を20kmぐらいは歩いていました。遠くへ行く時はバスを使ったり、知り合いのトラックに乗せてもらったりしていましたが、二名から歩いて帰ったり、臼杵から露峰(つゆのみね)(久万高原(くまこうげん)町)まで歩いて行ったこともあります。
 隣のおばさんには姉がおり、姉妹で行商をしていました。5、6年は、おばさんの下でいろいろと教えてもらいながら行商をしていました。仕入れは全ておばさんが行い、品物の値段もおばさんが決めます。私は、それを売り、売り上げの1割ぐらいをもらっていました。1日に200円~300円ぐらいだったと思います。仕入れにまとまったお金も必要ですし、その当時は卸屋が松山のどこにあるかも知りませんでした。自分で商売をするようになるのは、結婚してからです。」