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宇和海と生活文化(平成4年度)

(4)南予綿業のリーダー酒井宗太郎の歩みと姿

 このような父六十郎の「背中」を見て育った子供たちは、営々として築いた綿業の道を父と共に兄弟力を合わせて歩み、八幡浜のみならず南予地方の地域を支える大樹に育ててきた。六十郎の6人の子供の中でも、特に酒井宗太郎は、強烈な個性と行動力を持ち、南予の綿業を代表する企業家であるとともに一方では政治家・宗教家・文筆家として活躍した。
 以下、「南予綿業の父(⑳)」といわれ、地域の政治・経済・文化の発展に貢献するとともに波乱に満ちた道を歩んだ酒井宗太郎の生き方と姿を述べる。

 ア 酒井宗太郎の青年時代(花眠(かみん))~波乱の青春

 先に述べたように、宗太郎は明治22年(1889年)2月3日、酒井六十郎とタツの長男として八幡浜市古町に生まれた。宗太郎は神山小学校をへて明治35年(1902年)4月、八幡浜商業学校第3期生として入学し青春の日々を送った。
 宗太郎の「半生の墓(㉑)」によれば、八幡浜商業学校時代の宗太郎は三人の教師より強い影響を受けた。まず文芸面では八商で初めて演劇を上演した井上雄馬(早稲田大学英文科卒)の感化を受けた。井上雄馬はその後郷里の宇和島に帰り南予時事新聞社の主筆を務めたが、その縁で宗太郎は「花眠」というペンネームによって井上雄馬の新聞にしばしば投稿するようになった。
 「花眠」というペンネームは、宗太郎が15、6歳ころ愛読していた大橋乙羽(おおはしおとは)の紀行文「千山満水」の中で、大橋乙羽が少年時代「眠花(みんか)」と号していたのを知り、その号を逆にして「花眠」としたわけである。したがって、大橋乙羽の「千山満水」は宗太郎にとって初恋の書であった。また、宗太郎は、「花眠」の「花」は田山花袋(たやまかたい)に通じ、「眠」は中江兆民(なかえちょうみん)の民に通じると得意満面になるほどの社会主義的な文学青年であった(㉒)。
 特に、宗太郎はキリスト教社会主義者の大内清作から影響を受け、彼の手引で社会主義新聞の「直言」を購読するようになった。宗太郎は、大内清作が東京へ引き上げた後も「光」・「平民新聞」・「新起源」等各種の社会主義的機関誌を愛読し社会主義思想に傾いていった。
 また、宗太郎は卒業間際に黒沼義介より知遇を得た。黒沼義介は大変運動好きで八幡浜商業学校に初めて野球熱を注入した教師であるが、後松山商業学校に転任した。
 このように思想的、文学的に早熟で読書好きの宗太郎は、花眠のペンネームで地元八幡浜の河野公平が発行していた「皇国新聞」にもしばしば投稿した。そのため宗太郎は思想的に要注意人物として警察の監視を受け尾行されるようになった。宗太郎にとって、もっとも長い尾行は下関から大阪までの旅行中であり、さらに、宗太郎本人の結婚式の行列まで尾行されて不快であったと回想している(㉑)。それでも当時発禁のクロポトキンの訳書や「平民新聞」は初号より保存したほどのしんの強さもあった。
 しかし、「私がかくの如く要視察人となったことを家族に知られる事は一番苦痛とした。(㉑)」宗太郎は元々、「私が社会主義を研究した事は、なにも第一線に立たんが為に非(あら)ずして、物ずきが嵩(こう)じていった位の程度だった。(㉑)」ので、大正6年(1917年)ころには警察の要注意人物のリストから外(はず)されたようだ、と思い出を記している。

 イ 綿業家酒井宗太郎の歩み~企業家への道

 (ア)父酒井六十郎とともに基礎を築く

 明治39年(1906年)、八幡浜商業学校第3期生として卒業した宗太郎は新聞記者を志したが、家族は祖母・両親・8人の弟妹と11人の大所帯であったため上級学校への進学をあきらめ父六十郎の機業を手伝うようになった。そのころの酒井織物工場は(3)のアで述べたように18人の従業員を雇う小企業になっていたが、父とともにある時は職工、ある時は番頭に、または外交員にというように何事も苦労をいとわず働き続けた。
 大正3年(1914年)、六十郎は宗太郎と相談して小幅力織機54台を据え付け設備更新をはかり、さらに百数十台に増設し輸出綿布の基礎を築いた。宗太郎は当時を振り返って次のように述べている。
 「大正3年といえば諸物価が無茶に崩落した年で綿糸はタダの百円を十円も割り込む年で、同業者が多く倒産した。当時木綿縞一反がタッタ三十八銭まで下がった。その年に思いついたのだからかなり無暴だ。ある同業者の如きは今度は酒井も失敗だといわれたくらいだった。その時私は銀行から八千円借りた。ところが欧州の戦争が始まって、一時不況のドン底に落ちたが、まもなく諸物価が上がりはじめた。ドイツとの国交断絶は染料の騰貴を促し、果ては、綿糸の奔騰(ほんとう)となりて現われる等で私は十年償還の心持ちで借りた資金を大正6年に返した。その時の嬉しかったことは今に忘れ得ない。(㉑)」        
 さらに、大分県の耶馬渓(やばけい)の奥に支店を開き九州方面に販路を拡大し、自家製品では間に合わなくなったので八幡浜周辺の機屋に下請けを依頼する程になった。耶馬渓の奥の大分県玖珠(くす)郡中村に支店を開いたのは、かつて大橋乙羽の紀行文に影響され度々耶馬渓方面に旅行したからであった。
 同業者との競争も激しくなったが、「遂に大正6・7年のころには先へ追い越して行った。かくして次から次へと目標を追い越すことに努力した。その間傍目(わきめ)も振らずに働いた。そして一意専心向上発展に勇躍した。(㉑)」と宗太郎は20歳代後半時代の事業拡大の様子を振り返っている。
 宗太郎はこのように堅実な経営努力によって大正期の経済不況を克服し事業実績を挙げてきたので、八幡浜地方の綿業界においてその手腕が評価されるようになった。

 (イ)綿業界のリーダーシップをとる

 宗太郎は大正6年(1917年)には共同染工所の取締役に就任し、さらに、大正10年(1921年)、32歳の時に西宇和郡織物同業組合長に推され、変動の多い織物業界のリーダーシップをとるようになった。宗太郎は、常に世界経済の動向に目を向け、来るべき経済恐慌に備えて綿業界が一致団結するよう主張してやまなかった。
 昭和に入ると昭和2年(1927年)の金融恐慌、昭和4年(1929年)の世界恐慌と昭和時代前半は経済不況の嵐が吹きすさび業者の倒産が続出し、八幡浜地方も例外ではなかった。
 昭和3年(1928年)酒井宗太郎は経営難にひんした三瓶織布株式会社を買収し、入山(いりやま)綿布株式会社を設立して社長に就任した。昭和6年(1931年)6月には八幡浜織物工業組合が設立され、縞三綾など輸出綿織物の製品の声価を高めることと生産過剰の統制を図った。初代理事長には岡田虎三郎が選ばれたが、岡田織布株式会社が倒産したので宗太郎が後を継いだ。
 (2)のウで述べたように岡田虎三郎は、明治40年代から八幡浜地方の綿織物業の近代化に努めたパイオニアであり、産業革命の旗手の役割を果たした産業人であった。彼は大正5年(1916年)ころより積極的に輸出向け広幅布物に重点を置き合名会社岡田本店と改組し、大正8年(1919年)には広幅織機160台を増設して岡田織布株式会社に改組した。特に日蘭貿易会社を通じ東南アジア・インド・アフリカ方面に「南洋美人」の商標で販路を拡大し海外市場に名をはせ、各博覧会にも出品して数々の賞を受けた。また岡田虎三郎は社員に報酬株を与え労使協調の先べんをつけた。大正11年(1922年)には天神通りの工場を焼失したが、直ちに大平に新工場を建設してイギリス製織機150台、日本式織機250台を備え160人の工員が織布生産に従事した。さらに、岡田虎三郎は八幡浜町会議員・信用組合理事・西宇和郡織物業組合長・共同染工場社長等の要職を兼ね八幡浜地方の各界で活躍した代表的産業人であった。
 しかし、岡田織布は世界大恐慌の嵐をまともに受けて輸出不振となった上、日蘭貿易会社破たんの影響を受け経営に行き詰まり銀行管理となってしまった。
 昭和7年(1932年)6月10日、酒井宗太郎は八幡浜地方の財界の要望もあって経営不振の岡田織布株式会社の全設備を買収し、丸喜(まるき)綿布株式会社(「酒六」の前身)を設立した。同時に個人経営を会社組織にして宗太郎は初代社長に就任するとともに本社を大阪に移し関西経済界における拠点とした。ここに酒六の母体が築かれたのである。
 昭和8年8月、八代(やしろ)工場を開設し、続いて、経営不振の日土(ひづち)村の関西タオル株式会社、喜須来の昌栄社等を買収して盛寿タオル株式会社(のち酒六株式会社日土工場)を開設した。このようにして着々と酒六の基礎を築いた。

 ウ 地方自治に尽くした酒井宗太郎

 (ア)八幡浜商業学校廃校問題と酒井宗太郎

 酒井宗太郎が地方政治にタッチしたきっかけは、大正9年(1920年)9月に突如として起こった八幡浜商業学校廃校問題であった。この問題は県当局が、近年南予地方においても中学校の志願者が増えてきたが、中学校の新設は県財政上無理があるので八幡浜商業学校を廃止して中学校に切り替えるという案であった。八商廃止案に対しては八幡浜商業同窓会を中心に八幡浜地方の各町村はじめ各界挙げて廃校反対運動を展開した。第3回の卒業生である酒井宗太郎は反対運動の先頭に立ち、八幡浜の寿(ことぶき)座において有志と町民大会を開いて廃校反対決議の上、代表として愛媛県庁に乗り込んだ。松山へは大洲の弁護士で一年先輩の佐海直隆(さかいなおたか)とともに当時珍しい自動車で同行し、馬渡俊雄(まわたりとしお)愛媛県知事と長井喜太夫学務課長に面会して強く抗議した。さらに、松山市三番町の城戸屋(きどや)旅館に「八幡浜商業学校存続期成同盟」の看板を掲げ、県会議員に陳情するとともに各新聞社に訴え新聞紙面を通して廃校反対運動を展開した(㉑㉒)。
 大正9年(1920年)11月に開かれた愛媛県通常県議会においても八商問題が取り上げられ、清家吉次郎(せいけきちじろう)議員(北宇和郡選出、政友会)などが県当局を批判する論陣を張った。また西宇和郡選出の県会議員、郡会議員、町会議員など有志数十人が大挙して県庁に陳情した。
 各方面より猛反対を受けた馬渡県知事は、12月の県議会審議において八幡浜商業学校の存続を表明せざるを得なかった。このようにして八幡浜商業学校は存続と同時に校地移転拡張が決まり、現在の地に新校舎の八幡浜商業学校が出現した。
 宗太郎はその後の運動場拡張や学級増問題についても同窓会の中心となって母校のために尽力し、昭和6年(1931年)の八幡浜商業学校創立三十周年記念式典の際には功労者として表彰を受けた。
 大問題となった八幡浜商業学校廃校反対運動を通して酒井宗太郎の名が県下に知られるようになった。のち宗太郎は当時を振り返って「佐海君と二人で乗合自動車に乗って八幡浜の町はずれまで出かかった時に、八幡浜商業の生徒が整列して見送ってくれた劇的シーンは今に忘れ得ざる所である。(㉑)」と述べている。

 (イ)町村合併問題と酒井宗太郎

 宗太郎が地方政界にかかわるようになったのは八商廃校問題からであった。この問題を宗太郎にいち早く耳に入れたのは当時西宇和郡会議員であった佐々木長治(ささきちょうじ)と和田清治(わだせいじ)(二人とも政友会)であり、それ以降地方政治家との交遊を深めるようになった。
 宗太郎は大正12年(1923年)の県会議員選挙では和田清治を支持し、翌大正13年の衆議院議員選挙では佐々木長治(政友会)を支持して選挙運動を展開した。この時の衆議院選挙は、政友会、政友本党、憲政会の政党が三つどもえの激しい選挙戦を展開し、第6区(西宇和郡、北宇和郡)では政友会の佐々木長治が憲政会の本多真喜雄を12票差で破って当選した。しかし、開票をめぐって紛糾し憲政派は選挙無効を主張して訴訟したが結局大審院で敗訴した。
 しかし、宗太郎は、その後昭和初期にかけての政党同士の泥仕合的な対立抗争に自ら嫌気がさし、昭和初期には政治の世界から離れるようになったと回想している(㉑)。                  
 一方宗太郎の「卓抜した政治的手腕(⑮)」は八幡浜地方の町村合併問題において発揮された。
 明治時代後半から八幡浜町と隣接町村の合併問題が論議されていたが、特に神山村との合併が大正8・9年(1919・1920年)ころから具体的な問題となり、大正12年(1923年)末から合併論議が再び盛り上がった。
 大正13年(1924年)4月、35歳の宗太郎は村民の期待のもとに神山村長に推され八幡浜町との合併問題に取り組んだ。周囲から「合併村長」とあだ名されるほど合併問題に前向きの酒井村長は村会に諮(はか)って合併委員会を組織し、八幡浜の菊池儀蔵(きくちぎぞう)町長と折衝を続けた。当時隣接の矢野崎村と千丈村は合併問題は時期尚早として合併交渉に加わらなかったので神山村の単独交渉となった。しかし、同年5月に行われた衆議院議員選挙における政友会と憲政会の激烈な対立抗争の後遺症が尾を引いたため大正15年(1926年)5月、菊池八幡浜町長は辞任し、浦中友治郎(うらなかともじろう)が町長に就任した。浦中町長は就任早々に神山村との合併を無条件白紙主義で臨むという声明を出したので、酒井村長は再び浦中町長と折衝をかさねたが合併話は前進せず両者の溝が深まってしまった。
 昭和2年(1927年)4月再任された酒井村長は、町村合併を推進するため神山村に町制を布くことを決意して愛媛県当局に働きかけた結果、昭和3年(1928年)7月1日神山町制が施行された。周辺からは神山村に町制施行など無理だと批判されていただけに意表を突いた町制施行に村民の多くは狂喜したといわれる(㉑)。
 このようにして初代神山町長となった酒井宗太郎は、新八幡浜市、大八幡浜市の実現目指して全力を投球した。宗太郎の大八幡浜実現の持論は「新川(しんかわ)中心論」であり、要旨は「八幡浜は北に延ぶべき余地は全く無くなった。一つに発展南面に存するのみだ。すなわち南へ南へと延ぶるあるのみだ。その結果は神山との合併が最大急務となる。将来は新川が中心となるにあらずんば八幡浜の発展は実現しない。すなわち、新川が中心地となるの時初めて大八幡浜成(な)るの時なのである。(㉑)」というものであった。
 酒井町長は、この新川中心論に基づき八幡浜町との合併実現の土台として新川のほとりの神山町に洋式の八幡浜警察署、伊予鉄道電気KKビル(宇和水電と伊予鉄が合併)、御殿造の武徳殿を誘致することに成功し、大谷口に火葬場を建設した。さらに近江帆布株式会社から受けた寄付金を基に地方では珍しいほど完備した神山小学校の新校舎を建築した。

 (ウ)近江帆布移転問題と酒井宗太郎

 昭和4年(1929年)4月、宗太郎は八幡浜町にあった近江帆布(おうみはんぷ)工場の三瓶町移転問題について近江帆布株式会社と三瓶町との仲介の労をとった。しかし、大工場が八幡浜から他町へ移るのは、町村合併をして市制を施こうとする八幡浜にとって死活上の大問題である、と八幡浜町議会はじめ地元の神山町議会など各方面から宗太郎は激しい非難批判を受けた。そのため事業家と行政家の立場の上で板挾みとなった宗太郎は、昭和4年5月神山町長を辞任した。
 第2章第1節の3「湾奥の三瓶のくらし」で述べたように、三瓶町は近江帆布工場の誘致に成功し、同工場は昭和5年(1930年)9月より操業を始めて三瓶町の基幹産業となり町活性化の基盤となった。なお、近江帆布は昭和8年(1933年)朝日紡績、昭和19年(1944年)には敷島紡績三瓶工場となり南予の代表的紡績工場として活動した。のち宗太郎は近江帆布の監査役に就任し紡績業界の発展にも努めた。
 宗太郎は、近江帆布三瓶移転問題について「私としては相省(かえり)みてかくのごとき大事業をなしとげた。(中略)いずれにせよ数度の故障難関を突破してきてようやく大成をなし得たとは自分ながらよく出来たと思った。(㉑)」と述べ、また、近江帆布株式会社から受けた寄付金を基に神山小学校を新築したことについて「私は前後通じて教育方面には力の許す限り努力した。幾分この点にたいしては目的を達し得たと自負している。(㉑)」と回想している。

 エ 宗夢居士(そうむこじ)となった酒井宗太郎~信仰に徹する

 このように昭和3・4年(1928・29 年)は宗太郎にとって多忙と激務に明け暮れた年であったが、無理を重ねたため肝臓をいため体調を崩した。昭和4年(1929年)12月、保養を兼ねて上阪して際、知友の橋本春陵(しゅんりょう)画伯の紹介で京都の天竜寺(てんりゅうじ)に参禅し、一週間昼夜を通して只ひたすら座禅を続ける臘八接心(ろうはちせっしん)(*7)という猛修業に励んだ。体調も整い俗塵を全く洗い清めて「無の境地」を体得した宗太郎は、天竜寺の関精拙(せきせいせつ)老師よりお褒めの言葉とともに「宗夢居士(そうむこじ)」の居士号を頂き、以後頭をそったけさ姿の「宗夢居士」が誕生した。宗太郎は天竜寺の関精拙(せきせいせつ)老師を生涯の師と仰ぎ安心立命(あんしんりつめい)(心を安らかにし俗事に心を動かさないこと)を願った。宗夢の居士号については、のち八幡浜の万松寺の南野周山和尚は「本人宗太郎の宗の字と天竜寺の開山夢窓(むそう)国師の夢の字とによって宗夢居士を名づけられたものだと思う。(㉒)」と語っている。また、宗太郎は長谷(はせ)寺にも常々参禅して心の修業に励んだ。
 宗太郎は、すでに大正時代末から上阪の度に寸暇を割いて大和奈良地方の古寺名刹(めいさつ)を尋ね仏教美術に触れていた。奈良の帝室博物館・正倉院・法隆寺・法華(ほっけ)寺・新薬師寺・河内観心(かわちかんしん)寺・室生(むろう)寺などの仏像・絵画・工芸・建築の美の世界に感動した宗太郎は、大正13年(1924年)から15年にかけて「古寺順礼記」3巻を著し心の糧とした。また大阪本社で事業に打ち込むかたわら、昭和8年(1933年)には大阪の自邸に観音堂を建て観音経の読経に徹する日々を送った。

 オ 酒井宗太郎の初代八幡浜市長就任と死去~われ等の太陽逝(ゆ)く

 ウの(イ)で述べたように八幡浜町と隣接町村の合併問題は昭和3年(1928年)に一とんざを来し立ち消えとなっていた。しかし、翌年再び合併話が盛り上がって、まず昭和5年(1930年)1月矢野崎村と合併し新八幡浜町が誕生した。さらに、国鉄松山・八幡浜線の路線が夜昼峠にトンネルを通して八幡浜に達する計画に伴い、昭和7年(1932年)7月八幡浜駅の位置が内定したことによって一段と合併の気運が盛り上がった。翌昭和8年(1933年)から9年にかけて浦中友治郎町長の主導のもと八幡浜町はじめ神山町・千丈村・舌田村それぞれの町村議会は合併と市制施行を決議するに至った。
 このように大正時代以来のうよ曲折を経て昭和10年(1935年)2月11日、内務省告示によって地域の人々が念願した八幡浜市が実現した。
 「今日の八幡浜町は町村に併合を決行し、市制を施き市街地を形成して、商業地、教育地、工業地、住宅地、とそれぞれの地帯の大成を計り用意を完成して産業の大を計りて百年の大計をなすべきである。(㉔)」と宗太郎らが大正12・3年以来主張し続けてきたことが、まさに実現したのである。
 初代八幡浜市長には、町村合併を推進し大八幡浜市の実現を熱烈に主張してやまなかった酒井宗太郎が名誉職市長(非常勤)として迎えられた。しかし、就任してから2か月たらず後の11月25日、胃腸カタルのため死去した。享年46歳であった。当時の八幡浜地方の各新聞は筆を揃えて「われ等の太陽逝く(㉒)」と最大級の弔辞を掲げ衷悼の意を表した。

 カ 宗夢居士を語る~酒井宗太郎の思い出

 翌昭和11年(1936年)6月7日、八幡浜市の万松寺において酒井宗夢居士をしのぶ座談会が開かれた。八幡浜市を担う政界・財界・産業界・言論界・教育界の代表的な37名の有識者が集まって本堂で追悼法要が営まれた後、参会の人たちから故人の思い出が語られた。
 この座談会における思い出話は、酒井初代市長の助役を務めた河野隆嘉が編集し「宗夢居士を語る(㉒)」と題して八幡浜毎夕新聞社の手で出版された。126ページの中身は、宗夢居士の少年時代、八幡浜商業学校時代から町村長時代、事業家あるいは宗教家・読書家・文筆家としての宗夢居士に関する数々の思い出に満ちあふれ、「南予綿業の父」といわれるとともに地方自治に尽くした酒井宗太郎の多方面にわたる歩みと姿を今更のようにほうふつさせてくれる。
 まず、序文において佐々木長治(伊方町出身の衆議院議員、のち貴族院議員)は次のように述べている。「酒井君、つとに社会主義思想を理解して而も時代を超飛せず、資本主義において時流に流されず、世俗にありて仏教に精進し自己の修養と趣味に生き事業を忘れず、ことに万巻の蔵書を読破咀嚼(そしゃく)して談論風発筆硯(ひっけん)縦横、酒井君に接するものをして悉(ことごと)く魅了(みりょう)せられざるを得ざらしめしに事一度事業の事に到るや、俊敏明快人の知らざる内に用意周到なる、実に感嘆せがらんとしても能(あた)はざるなり。酒井君の足跡は偉大にして郷党ひとしく仰ぎ見るところなり。而も酒井君の真領はなお今後に多くの期待を残せしものと余は信ず。」
 その中から宗太郎の多様な姿についていくつかを紹介する。

 (ア)文芸思想を通しての宗夢居士……坂本石創(さかもとせきそう)(*8)(作家、酒六役員)

 「故人が始めて本を出されたのは歌集『ヘルニヤ』であります。これは、故人が大正11年(1922年)の6月5日、多年の懸案であったヘルニヤの手術をして、十日間というもの、東京は芝佐久間町の岩島病院に入院しておられた間の、徒然(つれづれ)の儘(まま)に始めて歌をつくって見たものです。ここに収められている短歌四十章、皆悉(ことごと)く故人の温かい人間味の溢れ出ているものでありまして、ここにも故人の天才的な一面をうかがう事が出来ます。」
 「大正13年、酒井花眠(かみん)著として『八幡浜及八幡浜人』という本を、大八幡浜新聞社から出版しております。これは、新聞に連載されたもので、故人が心から郷土を愛し、郷土のために書かずにいられなかった真情を流露(りゅうろ)しているものであります。」
 「大正13年という年は故人の文章の最も華々しく冴(さ)えかえった秋で、一方に仏教美術を隈なく賞味し『古寺順礼記』の第一巻を上梓(じょうし)しておられます。この頃から、次第に仏教に深く這(は)入って行かれた故人の心境をうかがう事が出来ます。つづいて大正14年の10月『古寺順礼記』の第2巻が出ております。その翌年第3巻を出しておられますが、この3巻によってもと故人の文芸的才能の並々でなかった事が、はっきりと分かります。」
 「この懐かしい『花眠』は、昭和4年故人が天竜寺にて臘八接心(ろうはちせっしん)に関精拙老師に参禅して、宗夢という居士号を頂くとともに死んだのであります。そしてこれから宗夢居士となったのであります。宗夢居士は直ちに死んだ花眠のために『半生の墓』を執筆されたのであります。これこそ故人の自叙伝ともいうべき、最も故人の面影をよく今日に伝えておるものであります。これは単行本として上梓するや、非売品にもかかわらず、八幡浜毎夕社へ講読を申し込まれる読者日に何人と知れず、毎夕社におきましても人々の真情をくみ、一度単行本として出した『半生の墓』を転載致しました。その頃の宗夢居士の人気というものはすばらしく、県下におけるナンバー・ワンでありました。」
 「つづいて書かれたのが『雑記帳』で、これは毎夕新聞に連載されたものでありますが、多忙の故人は時折中絶しながらも、遂に一巻として、昭和8年に出版されたものであります。ここには故人のあらゆる面が遺憾なく発揮せられ、筆は円熟の境に入っております。」

 (イ)読書人としての宗夢居士……五味常真(ごみじょうしん)(元八幡浜商業学校長・大洲中学校長・のち松山中学校長)

 「居士は晩年に盛んに書物を買い入れられていましたが、その買い入れられる状態を見ますと、二つの著しい特徴が目につきます。すなわち仏教に関する書籍が非常に多いことと、故人が書物を買われるには物好きではないかと思われるほど普通の人に殆ど不要ではないかと考えられるものを数多く集めて居られるというこの二つの事実であります。」
 「御蔵書の内にある『三界経(さんがいきょう)の研究』のごとき殆ど全国の有名図書館以外には持っていない稀書(きしょ)で、特殊な人かその存在を知らぬ学者の研究的書物であるが、実に私はこれを求めて来られたときに驚いた。居士自身も著者の隠れた努力をしきりに褒めていられたが、私はこうした珍籍を集めて来られるだけでも氏の素晴らしい事業である、と居士の読書眼に一入(ひとしお)敬服した次第です。」
 「酒井氏は八幡浜商業学校の非常な大先輩でありまして又一面恩人とし没すべからざる功績を残しておられるお方であります。しかも、それでいて私の在職七、八年のうち、その間一度として学校職員生徒の人事問題について未だかつて言葉をさしはさまれた事がありません。八年間一言もそうした言葉を述べられたということがなかった。これは到底常人には出来ることではない。私は今顧みて、この点感謝もし、流石(さすが)に偉いところだと感じ入っている次第である。隠れた氏の人格の高潔さを物語る一挿話として、ここに付け加えさせて戴きたいと存じます。」

 (ウ)事業を中心として見た宗夢居士……高橋定善(共盛社社長、八幡浜運輸会社社長)

 「今日、本邦綿業界の立役者として華やかな進出ぶりを期待された酒井君の業界におけるその奮闘の四十七年史は、そのまま地方業界の発展史と表裏をなすものとして興味深いものがある訳でありますが、酒井君が商売道に第一歩を切った当時は、私の友人の家でありますが、酒井君の家が一番小(こ)まい工場でありました。」
 「その時分の販売法というのがほとんど、現今でも市内合田部落あたりに僅かにその面影を止めておりまする、出売商人の力に俟(ま)ったものなのです。その頃出売商人の本場としては高浜沖の温泉郡睦月島で、季節季節になると、そこの商人達は大挙して当地方に小巾の手織縞を仕入に出掛けて来たものであります。その時分になると汽船の発着時には市内の織屋という織屋がズラリと港頭に勢揃いをして、まるで今日の宿屋の客引きのように、睦月島のお客さんを奪いあったもので、たしかに、一異風景を呈しておりました。
 その間に伍して、一番貧弱な酒井君の店が、それらのお客を誘引するには一段の苦心と努力を要したわけでありますが、酒井君は、他の店が、料理屋政策などによってご馳走ぜめにして注文を取るといった奇道を行くに反して、あくまでも正道から只(ただ)質実に家族同様に心からもてなすといった風のようでした。その着実さが認められたものか、次第にそれらの商人達から一番信用を受けて利用されてくるようになりました。」
 「酒井君は皆様ご承知の如く、広巾を製織をし出してからは、阪神方面へ乗り出して丸紅の伊藤忠兵衛氏、豊島氏らと手を握り、近江帆布とも因果関係を生じてくるようになりました訳でありまして檜舞台に乗り出してからは彼の地一流の紳商とガッチリと組んでその地力を認められ、近江帆布の如きは、同社にとって、なくてはならない存在にまでなっていたようでありますが、酒井君が資本金において、金融関係において、自分より何十倍もある大工場の倒れたのを、続々と引き受けて、今日の大をなした原因を要約いたしますると、前述いたしましたようによく時代に波を見分けて、やるべき時期にやり、替えるべき時に替え、拡張すべきときに拡張した、先見の明があったことに帰すると思います。」
 「それから、なほ一言申し加えておきたいことは、酒井君は何事にしろ一端(いったん)やるとなったら必ず、千万金を費やしても惜しまない、一端火蓋(ひぶた)を切った以上は倒れるまでやるといった強い信念の人でありました。この信念が、直ちに、取って以って、酒井君の今日の事業に重大な要素をなしていることは申し上げるまでもありません。」
 更に、今日、八幡浜地方の織物史に詳しい**さん(豊予社社長)(八幡浜市松柏 昭和16年生まれ 51歳)は、酒井宗太郎について次のように語っている。
 「酒井宗太郎はまれにみる逸材の人物で、大正から昭和のはじめにかけて八幡浜の政治・経済・文化に大きな足跡を残しました。その強烈な個性のためか、父六十郎氏の陰は薄くなっているのは無理からぬところです。南予綿業の父ともいわれますが、宗太郎氏こそ胎動する八幡浜の風雲児でありました。この酒井宗太郎氏の波乱に富み、しかし太く短い人生と七つの顔を持つスーパーマンばりの行動は大変魅力的で今なお輝いています。」

 キ 酒六の発展と終えん~南予綿業の大黒柱として

 酒井宗太郎の父六十郎は昭和17年(1942年)7月病没した。享年75歳であった。酒井六十郎、宗太郎亡き後の酒六は、創業者である二人の意思を受け継ぎ、六十郎の四男繁一郎(酒六社長)、五男頼一(酒六役員)、さらに繁一郎の長男寿太郎氏(現酒六社長)などを中心に運営され、全国一の大規模な綿織物工場として南予地方を支える基幹産業の役割を果たしてきた。もちろん、酒六はじめ南予綿織物業の発展を大きく支えた柱の一つは、南予の人々の粘り強い勤勉性にあったことは言うまでもないことである。
 以下、戦前(昭和10年、酒井宗太郎死後)、戦後(昭和20年代)における酒六の発展の歩みを略年表で掲げる(㉕)。

 〇昭和13年(1938年)
  八幡浜地方の縞三綾の輸出増大、史上最高の生産高となる。
 〇昭和14年(1939年)
  酒六、東宇和郡宇和町に宇和製糸工場開設。八幡浜町に五反田工場開設。
 〇昭和16年(1941年)
  八幡浜染工所(染色加工工場)開設。創業者酒井六十郎の頭文字を組み合わせて社名を「酒六」とする。喜多郡内子町に
 酒六酒造株式会社内子工場開設。
 〇昭和18年(1943年)
  西宇和郡川上工場・穴井工場を吸収。八幡浜町古町織布工場を靴下工場に転換。
 〇昭和19年(1944年)
  八幡浜工場、広海軍第11航空廠工場に転換。
 〇昭和21年(1946年)
  輸出綿布の生産再開。
 〇昭和22年(1947年)
  海軍に接収の工場が酒六に返還される。栗之浦作業所(織機の保全修理工場)開設。酒六活版所開設。松柏(まつかや)工
 場(特殊織物)開設。
 〇昭和25年(1950年)
  昭和天皇四国御巡幸の際、酒六八幡浜工場御視察。
 〇昭和28年(1953年)
  鐘紡の神山製糸工場を買収。以後、工場の拡大増設と多角的経営を図る。

 このようにして戦後酒六はいち早く復興を果たし、昭和24年ころには戦前の活況を呈して、「ガチャ万時代」(ガチャと織機の音がすれば1万円儲けたという意味)を現出する中心となった。
 しかし、その後の綿織物業は、綿織物業界における生産過剰、ダンピング、生産設備の制限、休機による生産制限、過剰織機の処理等と盛衰を繰り返したが、国内外の経済構造と時代の変化の波に勝てず衰退の一途をたどった(図表4-1-10参照)。
 かつて全盛期には2,500人の従業員を擁し隆盛を誇った酒六もまた時代の変化の流れに対して例外ではなく、平成3年には酒六の織物部を閉鎖するの止むなきに至った。


*7 禅寺において陰暦の12月1日から釈迦が悟りを開いた12月8日の朝まで座禅を続ける修業のこと。
*8 明治30年(1897年)生まれ、処女作「開かれぬ扉」で文壇に登場し、小説「梅雨ばれ」・「蘭子のこと」や名作とされ
  る伝記「西山禾山(かざん)」などがある。昭和24年(1949年)死去。

図表4-1-10 八幡浜地方の綿・スフ織物生産高表(昭和34年以降生産の合繊織物は除外)

図表4-1-10 八幡浜地方の綿・スフ織物生産高表(昭和34年以降生産の合繊織物は除外)

「八幡浜織物史資料(⑭)」P33・34より作成(昭和33年までの統計の単位は平方ヤード=0.836m²)。