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宇和海と生活文化(平成4年度)

(4)高野長英と村田蔵六の宇和島来藩

 伊達宗城は、先述のように蘭学の導入と兵学・軍事の近代化を図るため、傑出した蘭学者の高野長英(1804年~50年)と村田蔵六(1824年~69年)を招いた。二人が宇和島藩に与えた影響は極めて大きいものがあった。

 ア 高野長英の来藩と二宮敬作の再会

 (2)のウで述べたように、高野長英と二宮敬作は長崎のシーボルトの鳴滝塾で共に学んだ間柄であった。高野長英は渡辺崋山と尚歯会(しょうしかい)(*2)を結成し活動していたが、天保10年(1839年)幕政を非難したとして捕えられ永牢(えいろう)(終身牢)の身となった。いわゆる蕃社(ばんしゃ)の獄(*3)である。しかし、高野長英は弘化元年(1844年)江戸の牢舎の火災に際して脱出し各地を潜行した。伊達宗城は高野長英の「夢物語」をひそかに読み長英の傑出した見識にうたれ、伊達家に出入りしている佐賀藩侍医の伊東玄朴のあっ旋で長英に会った。  
 幕臣の内田弥太郎と宇和島藩家老の松根図書(まつねずしょ)を介して伊達宗城に招かれた高野長英は、幕府のきびしい探索の中を嘉永元年(1848年)4月、藩医富沢礼中に伴われて宇和島に到着した。長英は潜行中の身のため蘭学者伊東玄朴の門人伊東瑞渓(いとうずいけい)と変名し、四人扶持の待遇を与えられて蘭書の翻訳と宇和島藩の家中の講義にあたった。このようにして宇和島藩における最初の蘭学塾「五岳堂(ごがくどう)」が生まれた。藩命によって門人となったのは、谷依中(たにいちゅう)・土居直三郎・大野昌三郎・斎藤丈蔵・二宮敬作の次男の逸二ら有能な青年たちであった。特に二宮逸二はよく励んで進歩が早かったといわれる。長英が宇和島に滞在したのは9か月余であるが、その間オランダの兵学書を訳して「砲家(ほうか)必読」(大砲小銃の操練と砲台の作り方)11冊などをあらわし、「訳業必要之書類目録」・「知彼一助(ちひいちじょ)」(国防論)・「三兵多古知幾(さんへいたくちき)」(歩・騎・砲兵の三兵の訓練と実戦技術)を伊達宗城に提出した。また、久良砲台を設計するなど長英は宇和島藩の蘭学と軍事近代化に大きな足跡を印した。
 高野長英に対する幕府の探索が迫ってきたので長英は嘉永2年(1849年)1月、宇和島を去った。長英は、途中卯之町の二宮敬作方に立ち寄ったが、ただちに広島に向け出発した。広島に滞在した後、鹿児島へ向かったが、薩摩藩は島津家の家督争いで藩論が分裂し混迷していたので、同年5月下旬、再び卯之町の敬作方に立ち寄った。
 今日、卯之町の中町には江戸時代からの古い「しもたや」が建ち並び昔日の面影を残しており、その一隅に愛媛県指定史跡の「高野長英の隠れ家」がある(写真4-1-14参照)。この家は敬作本邸の離れで元は二階建てであったが、二階だけ切り離して保存されている。隠れ家の近くに庄屋清水甚左衛門(しみずじんざえもん)の屋敷があり、今日も当時の鳥居門(とりいもん)(町指定文化財)と屋敷の一部が残っている。酒の好きな長英と敬作は、この清水邸や自邸において夜を徹して痛飲し「両雄盃を傾け、熱し来たりて談国事に及ぶや、互いに慷慨悲憤(こうがいひふん)の状は、とても側に近寄れなかった。(①)」といわれている。
 二宮敬作邸の近所に父祖代々から住んでいる**さん(宇和町卯之町 明治42年生まれ 83歳)や**さんは「卯之町の伝承によれば長英はこの清水邸にも潜んでいたといわれ、今もカラクリのある隠し部屋が残っています。」と語っている。
 長英は半月近く潜伏した後、6月15日、敬作に別れを告げて卯之町を出立し、陸路八幡浜、船で磯崎・長浜・郡中をへて大坂・名古屋・江戸へ向かった。その際長英の下僕として敬作と清水庄屋に選ばれた卯之町の市次郎(いちじろう)という正直で寡黙な青年が名古屋まで従った。しかし、翌嘉永3年(1850年)10月、江戸の隠れ家を幕吏に襲われた長英は自決を遂げ、まれに見る幕末日本の英才は46歳の幕を閉じた。
 医療開拓の分野においても意欲的な宇和島藩は積極的に種痘の対策に取り組み、嘉永5年(1852年)には種痘所を宇和島に設けて種痘を実施した。敬作も嘉永年間当初より藩の種痘許可を得て卯之町において種痘実施に取り組んでいた。また、敬作は嘉永3年(1850年)、藩の許可を得て3畝(3a)ほどの薬草園を卯之町の光教寺(こうきょうじ)のほとりに開き、諸種の薬草を栽培して豊富な投薬に心がけ、さらに付近の医者にも分け与えた。この薬草園は、敬作が長崎に再度遊学する安政5年(1858年)まで7年間栽培され、その後は次男の逸二が受け継いだ。若き日の敬作がシーボルトの鳴滝塾において研究した本草学の成果が、伊予卯之町の地に実ったわけである。

 イ 村田蔵六の来藩と前原巧山(まえはらこうざん)・二宮敬作

 伊達宗城は、高野長英が去った後の後継者として村田蔵六(大村益次郎)を招いた。蔵六は長州藩の村医であったが、大坂の緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた蘭学者であった。
 村田蔵六は、大野昌三郎の献策と二宮敬作の努力により緒方洪庵の推薦を得て嘉永6年(1853年)10月、宇和島に来藩した。蔵六は百石の知行待遇を受けて藩士となり、宇和島藩に大きな足跡を残した。
 この年の6月はペリーが浦賀に来航し、幕末の緊迫した情勢の幕開けとなった。
 蔵六は、安政3年(1856年)伊達宗城の参勤交代に従って江戸に同行し宇和島を去るまで、宇和島藩における兵制の近代化に貢献した。すなわち、西洋兵書の講義・翻訳・軍隊の組織編成・樺崎砲台の築造・軍艦の設計などに指導力を発揮した。蔵六は、宇和島において「軍艦内部構造説明書」・「海軍銃卒練習規範」などを著し、「海綿略記」・「船大工須知(しゅち)」などの翻訳を完成した。
 村田蔵六は安政元年(1854年)軍艦ひな形の製造に着手し、研究のため長崎に出張した。その際八幡浜出身の細工師で宇和島藩のお船方に登用され蒸気汽かん製造の任務を与えられた前原巧山(嘉蔵 (かぞう))(1812年~92年)も同行した。翌年、蔵六は巧山の協力により小型の軍艦ひな形の製作に成功し、宇和島湾において試運転が行われたが、伊達宗城も乗船して満足の態であったという(⑩)。
 前原巧山は長崎に前後3回出張して研究を重ね試行錯誤の末、安政5年(1858年)蒸気汽かんの製作に成功し、翌年には松束を燃料として蒸気船の試運転に成功した。前原巧山はこれまで蒸気船建造の上では度々失敗したので「おつぶし方」と陰口をいわれたが、蒸気船の成功は、小規模で弱い蒸気汽かんとはいえ薩摩藩に次いで日本人によるわが国二番目の建造という意義を持った。さらに巧山は、砲台模型・築城模型・藍玉製造・木綿織機械(水力を動力)を試作し、ゲベール銃も作製しており、宇和島藩における技術革新の先覚者であった。
 安政元年(1854年)の村田蔵六、前原巧山らの長崎出張には長崎遊学の経験豊富な二宮敬作も藩命によって同行し一行の便宜をはかった。この時、敬作は久方ぶりにイネに会い、今や28歳となったイネを卯之町に連れて帰った。イネは敬作のもとで再び産科・蘭学の修業に励んだ。

 ウ 二宮敬作と村田蔵六・イネ・三瀬周三(諸淵)の交わり

 卯之町における敬作は「生ける羅漢(①②)」ともいわれ、情熱的な医師として地域の人々の医療に尽くすとともに、医学、蘭学を志して敬作に教えを請う青年たちに二宮塾を開いて指導に当たった。しかも敬作は、医学の教授のみならず国家、社会の諸問題について啓蒙思想的な立場を取って「鎖港攘夷(さこうじょうい)に反対し、これ天下の大勢に通ぜぬ大言壮語であって実際問題として開国進取主義でなければならぬ。(①)」と力説した。国家、社会を論じる敬作の態度は医者とは思えないほどの迫力に満ち、聞く人々を感激させたといわれる。
 二宮塾において敬作に師事したのは、イネ・曽根研精(そねけんせい)・戸田良吾・二宮良一(敬作の養子)らであり、安政2年(1855年)には大洲から敬作の甥の三瀬周三(諸淵)(1839年~77年)が入門し熱気あふれるふんい気であった。
 さらに、敬作のすすめによりイネや周三は宇和島在住の村田蔵六に師事して蘭学を学んだが、イネや周三の熱心な研さんぶりには敬作、蔵六ともに舌を巻くほどであった。
 安政2年(1855年)には、敬作は宇和島藩より御徒士格に任じられ準藩医として宇和島に住居を移したが、イネも宇和島に居を構えて蔵六のもとでひたすら蘭学に励んだ。


*2 渡辺崋山・高野長英・小関二英らによる蘭学、西洋文物の研究会。
*3 天保8年(1837年)のアメリカ船モリソン号打払いを批判したとして渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の洋学者グループを
  処罰した事件。

写真4-1-14 高野長英の隠れ家跡(愛媛県指定史跡)

写真4-1-14 高野長英の隠れ家跡(愛媛県指定史跡)

宇和町卯之町三丁目。平成4年9月撮影