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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)八幡浜の交通と交流

 **さん(八幡浜市本町 大正10年生まれ 71歳)米穀店経営
 **さん(八幡浜市新町 大正3年生まれ 78歳)時計店経営
 **さん(八幡浜市松柏 大正5年生まれ 76歳)元酒六工場長
 **さん(明治29年生まれ 96歳)
 「わたしの家の商売は、戦前は米屋さんに玄米で卸すのが仕事でした。米は、戦前は下関・門司を通じて、朝鮮米を移入しとりました。これは機帆船で宇和島・八幡浜を結んでおったもので、買うた米は(三崎)半島の村々に売ってました。釜山から米、木浦からは大豆等を運んでおったらしいです。年に1回は宇和島の業者も含め3,000tほどの特船をしたてて、台湾米(もち米)も買ってました。酒造家の酒米は、米どころの宇和から購入し、これもわたしの店で扱うことが多かったです。当時は八幡浜には8軒ほど酒造家がありましたか。宇和島の方の米穀商は、高知県や県内の山間部が主な販路だったようですな。雑穀や飼料等は神戸まで汽車で、そこから船便で入ってきました。
 わたしの祖父の代では、宇和から米を運ぶ時には、馬の背に3俵ばかり積んで、朝3時ごろ向こうを出て笠置(かさぎ)峠(現在予讃本線のトンネルが通る)を越え、夜が明ける前に家に着くようにしとったらしいです。米に関しては大洲との取引はなかったです。わたしが覚えている頃になると、現在の県道の五反田から鳥越(とりごえ)へ抜ける道を、幌(ほろ)つきの馬車で運んでました。近辺に米を運ぶには、昭和の初めは大八車で、やがて自転車につけたリヤカー、昭和10年(1935年)頃にダイハツ号という三輪自動車を千円ほどで買って運んでましたです。海岸部へは、港まで大八車で米を運んで、そこからトーカイ(渡海船)や定期船で、川之石・舌間(したま)・川名津(かわなづ)(現八幡浜市川上町)等に運び、また半島の瀬戸内海ビラ(側)も船で、二名津(ふたなづ)-釜木(かまぎ)-田部(たべ)-三机と運んでましたな。
 昭和14年(1939年)に鉄道が付いてからは、飼料等の神戸からの運送は、鉄道便が中心になりました。戦中の統制経済で、米屋ばかりでは食べて行けないので、製氷も扱うようになりましたが、昭和30年にそちらの商売は姉に譲り、また米穀専業になりました。戦前と違い交通が発達してきましたので、卸業は縮小し、配達等市内の商売が中心になってきております。」
 「わたしの祖父母は川之浜(現瀬戸町)の出身で、昔は船持ちだったと聞いてますが、船をなくしてこの八幡浜に来たらしいです。明治の初めですから、もう120年ほどになりますか。両親の代から時計を扱うようになり、大阪通いの船を通じて仕入れをし、最も古い特約店として、半島や保内、三瓶の小店(こみせ)に卸売をしてました。この場所でもう百年近く商売を営んで、新町筋では一番古い店になりますか。店は昭和5年(1930年)とついこの間の2回建て替えましたが、3間(約5.4m)間口のまま場所は変わってません。戦前は新町では大店の呉服屋さんが中心だったですが、多くはつぶれたり、店仕舞したりして変わってしまいました。わたしらの時計屋というのは、呉服と比べると、つましい商売で景気の変動とあまり関わりがなく、それが長く続いておる理由かもしれません。戦前はレコードやピアノも扱ってました。
 わたしが18歳の時に、養子さんをもらって家業を継ぎました。主人は兵庫県の出身で見習いからたたきあげた職人として、家で長いこと勤めあげた人です。当時は時計修理は、職人として20年近い修業が必要で、その間は無賃の見習いで住み込みでした。女中さんも2~3名おりまして、多くは半島の方から来てもらいました。仕入れは、毎年3回ほど主人の里に数日泊まり込んで、品物を選んできました。商売上からも大阪通いの船便に頼ることが多く、戦前の八幡浜は大阪方面の言葉や風習の影響が、やはり強かったようにも思います。信心深い母に連れられて、馬車で宇和の山田薬師や三瓶のコロリさん(金比羅さんか?)にも、何度かお参りに行きました。保内町には、まだ船で行ってましたですね。」
 「わたしは、大洲の生まれで、女学校を卒業して数えの18歳になって、こちらに嫁入りをしました(大正2年=1913年)。実家では、八幡浜からの大洲中学生を寄宿させておったのですが、八幡浜の生徒は、大洲に比べて元気があって騒がしく、言葉も荒いように感じて、恐る恐る接してました。家に入ってくる時に、『ハーイ』と言うて入って来るのも不思議に思ったものです。大洲から嫁入りの時は、人力車で夜昼峠を越えてきました。(大洲-八幡浜間は)箱馬車もありましたし、しばらくしてから乗り合い自動車も走るようになったのですが、わたしはすぐ酔う体質なので、(毎年大洲の祭りの時には、里帰りしましたが)実家に帰る時も、峠越えは歩くか人力車でした。峠のトンネル前には茶店があって、ラムネ等売ってましたか。
 松柏(まつかや)(旧千丈村)のこの家は昔の大洲街道沿いで、家も百年は経っております。昔は藍(あい)の製造をしていて、染屋(そめや)さんに卸しておったらしいんですが、わたしの来る前に主人の父が亡くなって店をたたみ、藍蔵等はなくなってしまいました。主人は八幡浜商業(現八幡浜高校)を卒業後、郡役所等を経て八幡浜商業銀行に勤めてました。支配人としてまずまずの収入で、生活に支障を感じたことはありません。朝5時には起きて、女中さんと一緒に主人や子供の弁当を作るのが日課でした。
 戦前までは、4月15日(新暦)の松柏神社(白王(はくおう)神社・松尾神社合祀)の祭りは、おみこし・唐獅子が出て、20~30人ほどもお客が家に来てにぎやかでしたが、千丈村と八幡浜市との合併(昭和10年=1935年)後、戦中戦後のごたごたの中で、市中央のお祭りに合同されてしまったのが残念に思います。」
 「母が乗り物に酔うので、わたしたちも大洲までの道はよく歩いたものです。4・5歳の頃から大洲祭りに歩いて行きました。昔は歩くということは普通のことでした。八幡浜商業時代の足に自信のある友人が、八幡浜-大野ガ原(野村町)-松山-八幡浜と200km余りの道を、2泊3日で踏破し、我々を驚かせました。当時松山に出るには、船で夜八幡浜を出港し、翌朝三津浜に着く定期船を利用していました。しかし、わたしが京都の大学に行く頃には上灘まで汽車が通じましたので、大洲までバス、大洲から長浜まで私鉄に乗り(愛媛鉄道)、またバスで上灘に至り汽車に乗るようになりました(昭和7年=1932年国鉄上灘-郡中間開通、昭和8年国鉄が愛媛鉄道買収)。
 戦後(昭和21年)中支から復員し、日立製作所を退社して地元の酒六㈱に入り、松柏や三瓶の工場長等を勤めました。当時は『ガチャマン』(織機の運転音がガチャンと音を立てる毎に一万円の金が入るといわれた)時代と言われた繊維産業全盛期で、工場も大小合わせて12・3か所、従業員は2,500人ほどおりました。内80%が女子工員で、毎年中学卒業生を200~300名ほど、主に南予一体の学校から採用していました。南予の子は勤勉で辛抱強くよく働くということで、繊維業界では大変評判がよかったようです。当時は、3回に分けて雇う時期をずらしていたのですが、ある年の入社研修の際、一本松出身の入社時期の違う子が1人いる。9月に改めて来るようにと言うと、村で盛大に送別会もしてもらって餞別ももらっているので、今更帰れないと言うので困りまして、わたしの家でお手伝いさんとしてしばらく住んでもらいました。その子は米の飯しか食べたことがないというのでびっくりしたのですが、家に挨拶に行くと本当に大きな農家で、他にも裕福な家の出身者が結構多く、南郡では嫁入りする前に働いて世間の風を知り、家事見習の代わりとするという考え方が強かったように思います。その子も、本当に頭が働き字もきれいで子供もなついたのですが、2か月ほどで工場に欠員ができ、正式に入社するようになりました。そのような優秀な労働力の存在が南予の繊維業界の発展の背景にあったのでしょう。
 その後経済が豊かになるとともに、進学率も年々高くなり、中卒女子は『金の卵』と言われ、全国各地から募集員が南予に殺到し、年々採用が難しくなりました。日本が繊維産業から先進国を追い越していったように、今は発展途上国が、安価で豊富な労働力により繊維産業を通じて近代化の道をばく進しております。わが国の繊維産業が次第に陰をひそめてきたのも、時代の流れと言えるでしょう。」

写真2-3-2 旧道夜昼峠頂上のトンネル

写真2-3-2 旧道夜昼峠頂上のトンネル

平成4年7月撮影