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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)旧家を継いで

 **さん(八幡浜市浜之町、大正12年生まれ 69歳)
 (なお、この項における年中行事や生活習慣等は、あくまで**さんご自身の体験であり、八幡浜全域に共通するものをまとめたわけではない。)

 ア 旧家の慣習

 「父が、(当地生まれで後にここで開業しましたが)勤務医だった関係で、わたしは名古屋・東京等で育ち、松山高等女学校(現松山南高校)を卒業しました(昭和16年=1941年)。卒業後、母の実家である**家へ帰って祖父母と同居し、後で従兄弟を養子に迎えて、現在にいたっております。
 **の家は、八幡浜浦と呼ばれた江戸中期の寒村の時期から住んで、いつからかしょう油、酒、木蠟(きろう)の製造や販売をしておりました。当地が伊予の大阪といわれて降盛を極めていた頃、本家も分家三軒も大繁盛で、大勢の人を使っていたらしく、海老崎(えびさき)の蔵の入り口から持船に荷を積んで、大阪に売りに行っていたとか…。今は、海岸ははるかかなたになって、海老崎・浜之町・船場通りの町名が不思議なくらいです。わたしが**家に入った頃はしょう油だけになっておりましたが、それもまもなく戦争になって、(他の会社とともに)強制的に『南予醤油』『八幡浜醤油』という2会社に統合させられて、主人たちは月給取りに、使用人の人たちはやがて兵隊や徴用にとられ、急に寂しくなりました(戦後しばらくして2会社は解散した。)。
 それまでは、どこの商家も住み込みの雇人が何人も居りまして、男衆(おとこしゅ)は頭の一文字を取って、『助ヤン』『文ヤン』などと、女衆(おんなしゅ)は女中は『ネエヤン』、子守は『モウヤン』、乳母は『アンマヤン』と、年上の人を何の疑念もなく呼んでいて、今思えば気の毒なことだったと思います。食事も雇人の人たちは足を洗ってから灯明をあげて、土間で箱膳で食事をしていました。わたしどもは座敷でちゃぶ台を使っておりました。ただ何か事のある時(祝い事等)は、わけへだてなく酒さかなの振舞をしてました。当時は公休日などはなくて、年に2回お盆と正月の後に、『宿下がり』(やぶ入り)がありまして、小遣いと着物をあげ里に帰ってもらいますが、この時にお嫁さんも里に帰らせてもらう家も多かったです。
 その当時、このあたりの広い家は人手もありますので、冠婚葬祭はほとんど自宅でしていました。結婚式ばかりは夜でこの時は親戚の男性が中心です。そもそもお客事中心に家が建てられてまして、その際には間仕切りの襖は全て取り払い、周囲は屏風を立て廻して大広間に模様替えし、蔵からお道具類を運んで、料理人を雇ってごちそうを作ります。特に、結婚式の翌晩は『また板洗い』と言って、道具片付けをすまして、手伝ってもらった女客や手伝人の人たちに少し手軽な慰労をこめた簡単な宴席をしました。」

 イ 戦中戦後の生活の変遷

 「戦前は、魚・野菜ばかりでなく着物・菓子・髪結(かみゆ)いにいたるまで、行商人や馴染(なじ)みの店の御用聞きが家まで来てもらっており、店に直接買物に行くことは少なかったです。祖母は『外足のおなご(よく外出する主婦)は、よもち(世持ち?、家事のやりくり)が悪い』などと言っていたものです。しかし戦争の激化とともに、町内はほとんど老人・女・子供ばかりとなって、座っていてはまったく暮らせない時代となりました。わたしもモンペをはいて乳母車を押し配給品を取りに行ったり、隣組が出来てからは勤労奉仕・バケツリレー・竹槍訓練と、毎日のようにひっぱりだされ、女は出歩くものではないと言っていた祖母も、乳飲み子の長女の子守をしたり、畑仕事に精を出すようになりました。夜は暗い電灯の下で、祖母と二人で下駄の鼻緒から足袋にいたる、更生品作りの夜なべ仕事の毎日でした。そのうち、焼けだされた身内の人たちがどんどん疎開してきて同居し、一時は私宅に6家族が乏しいものを分け合って暮らしておりました。
 戦中に祖父が死去して莫大な相続税を払ったばかりなのに、敗戦となり、毎月強制的に買わされていた『国債』『満鉄株』など紙切れ同然となって、そのうえ財産税まで取られて、戦後、どうやって乗り切ったのか不思議なくらいです。それまで、一生優雅に遊んで暮らせた当地の分限者(金持ち)達も、慣れぬ事業を始めたり、サラリーマンになったりして、時流に乗る人、乗れぬ人と様々な様子で、当地の資産家たちの地図は、次第に塗り替えられていきました。
 4人の孫たちをそれは大事に見守ってくれた祖母が、昭和28年に突然亡くなり、(使用人がいることを前提とした)昔の造りの家で、わたし一人が広い土間をあっち走り、こっち走り、風呂といっても20mも離れていて薪で沸かすといった生活は続かなくなり、次第に家の中も改造し、電気製品も増えていきました。戦後、PTA活動で、初めて長女が小学校へ入学する時は、自己紹介だけでもどきどきしたものでしたが、様々な活動でいろんな人との結びつき、校区内でのつながりができました。それ以外にも外に出る機会が、主婦として日常の中でも増えてきました。またそうでなければ、生活が成り立たない時代になったわけですけれど。今は、『奥さん』どころか『おそとさん』で、毎日のようにパート・趣味・スポーツ・ボランティア・買物と忙しくて、主婦の皆さんは賢くたくましくなられました。」

 ウ 戦前の伝統行事

 「年始には、玄関先におめでたい屏風(びょうぶ)を飾って名刺入れを置くとともに、一家の主人は親戚や近隣に年始回りに行きます。お雑煮は、『丁銀(ちょうぎん)』と言う小判型の餅を熱湯で蒸らしてから、春ぼこり(高菜)・かまぼこ・大根を入れたおすましに入れます。またこれは私宅だけだったかもしれませんが、正月三が日毎朝、店の机の上・蔵の入り口・庭神(にわがみ)様・お水神様・お荒神(こうじん)様(台所)・農具・はばかり(便所)の入り口に、ごぼう・大根・にんじん・いりこ・餅を細く刻んだものをお供えしました。お下がりは、七草がゆの日雑炊にして家中食べさせられましたが、いりこやごぼうが口の中でもそもそしてまずいので閉口しました。二日には、仏様のお正月ということで、家中で墓・寺にお参りに行きます。十五日には小豆粥(あずきがゆ)を炊いて、お飾りを外して燃やし(どんど焼き)、それで正月行事はおしまいです。新正月は何セットものお鏡餅・丁銀・あん餅等、旧正月はあんもちやかきもちを搗(つ)いておりましたが、今は自宅で搗く家は市内にはないんじゃないでしょうか。
 節分は、いった大豆を年の数だけバラ銭と一緒に紙に包んで、夜中に家の近くの四つ辻に行って、豆の入った包みを体にこすりつけ息をかけてから(厄落(やくおと)し)、後向きでほうりなげます。そして、後を振り向かないようにして、急いで家に帰ります。私宅が辻にありますので、翌朝の掃除が大変です。家では撤きません。これは今でもしております。他の地域ではそのようなことはしないようですね。
 八幡浜では、春のお彼岸が初彼岸で、(前のお盆から後に死んだ)新仏(しんぼとけ)様のおまいりをします。おひな祭りの翌日(4月4日)は『雛(ひな)あらし』と言って、かわいらしい重詰料理を作って女子供が中心となって、裏の愛宕(あたご)山へ花見をかねてお弁当を食べに行きましたが、この風習も見かけなくなりました。旧の4月19日は八幡神社の春の祭で、祭そのものは内々に済ましますが、『お新客(しんきゃく)』といって新婚のお嫁さんの里に夫婦でお披露めに里下りする風習もありました。
 7月7日は七夕祭りですが、前日になると奥の千丈の方から『笹(ささ)えー』『笹えー』と竹を売りに来ますからそれを買い、朝早く蓮(はす)畑へ行って蓮のはっぱの露を集めて墨をすり、色とりどりの短冊に願い事を書きしるして笹に結び付け、『ぎふちょうちん』に灯をともし、お供えをした前で星空を眺めたものでした。その笹は翌朝新川に流していましたが、これも今は保育園でしているくらいではないでしょうか。市内のあちこちに見られた蓮畑も今はいっさいありません。
 7月31日は夏祭りで、太鼓の音につらされて八幡様の山へ登り、『ちがやくぐり』をすると智恵を授かるといって、今でも大勢お参りされます。新盆(しんぼん)(死者が死後初めてむかえる盆)の家では、その31日の夜、門口で麻木(あさぎ)をたいてお迎え火をし、お霊供(りょうぐ)を供えはじめます。昔は新盆の家の玄関先に細いローソク立てをたくさん並べておいて、お参りの方々に『とぼしあげ』をしてもらっていましたが、今は見られません。
 普通の家の盆行事としては、(8月)13日と15日の夜に、やはり麻木をたいて、『お迎え火』と『送り火』をいたします。昔は、床の間一杯に『お精霊棚(しょろだな)』を組立て、何人前ものお霊供膳を供えておりました。お霊供の脇には『餓鬼仏(がきぼとけ)』様のために一皿料理を置いておきます。お霊供は、おすし・そうめん・団子(おはぎ)・乾物等で、お下がりを捨てたら罰(ばち)が当ると言って(冷蔵庫の無い時代ですので井戸の中にぶらさげて冷しておいて)何日も食べさせられ、胃腸の弱いわたしはお盆の間はいつもお腹をこわして困りました。今は、仏壇の前にお供え机をするくらいで簡略になっております。お坊さんは、お盆の三日前に『棚経(たなぎょう)』と言って町内を一軒一軒お経をあげて回られます。新盆の家では、仏前に紙燈篭(かみどうろう)を作って、毎晩明かりをつけて下げておき24日ごろにお寺に行列を作って持っていき、まとめて燃やしますが、これを『燈篭(とうろう)おくり』と言っております。
 10月19日の八幡神社の秋祭りには、町筋ごとに山車(だし)の上に人形を飾って賑やかでした。遠方の領戚も帰って来る人が多いので、祖父母らは、誰それには案内したか等早くから楽しみにしておりました。今は『みなと祭』として市主催のイベントに代わり、お客さんは特別呼ばぬ家が多くなりました。11月末になると、亥(い)の子祭りで、子供たちの歌声を聞くと、しみじみと冬が来たと思ったものでしたが、今はアスファルトが痛むということで、当地方ではなくなってしまいました。」

図表2-3-5 箱膳

図表2-3-5 箱膳