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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)生活の水

 ア 天水うけ・水こし

 **さん(三崎町串 大正13年生まれ 68歳)
 **さん(三崎町串 大正13年生まれ 68歳)
 **さん(三崎町串 大正13年生まれ 68歳)
 串で生まれ、串で育った3人は大の仲良しである。「同級生の女の子が7人おったけど串に残ったのはわたしら3人だけよ。」と座らぬうちにもう始まる。
 **さんは「水は昔からよっぽど困ってタンクがあるのよなあ。92・93%は持っとる。7%ぐらいはない。地下に掘るとこがない者は上(あ)げタンクよなぁ。」といいながら指を折っている。「上げタンクは水が腐る。雨水(あまみず)(天水)を取って上げタンクへ入れてから水こしを通すんです」。
 **さんの説明が面白い。「水こしは石置いて、カラスミ(真新しい木炭)置いて、砂置いて、砂がぼらん(漏らない)ようにシュロ敷いてなあ。水こし通したものを使いよった。」というように、屋根に落ちた雨水をといへ集めて天水うけへ流し込むようになっている。
 屋根の瓦の汚れ具合によってしばらく流し捨てるのであるが、縦の集水管を天水うけの外へ振ればよい。乾燥期には瓦がかなり汚れるから、うっかり上げタンクへ流し込んでしまうと大変だという。出てくる水が悪い上に水こしの砂を汚してしまう。水こしの砂は浜で手に入れるが、質の良い砂は滅多に出ない。出た時に少しずつ家に持ち帰って貯めておくのだという。
 串の入口から漁港にかけては、きつい斜面に民家が密集しており、この3人の同級生はその緩斜面に住んでいる。地下は緑色片岩の岩盤であるが、場所によっては岩盤がないために地崩れをおこしてタンク(貯水槽)が掘れず、やむなく上げタンクにした民家もある。
 年間降水量は平均して1,600mmで決して雨の少ない地域ではないが、岩盤上の表上が浅く、傾斜地のために雨が降ってもすぐ海へ流れてしまうために昔から水は不自由で、大変な苦労をしてきた。当然のことながら天から授かった天水を、何とか海へ逃がすまいと努力しながら生きてきたのである。                   
 小川博氏が「伊予の御崎(ミサキ)の旅(③)」の中で次のように述べている。佐田岬灯台で船に乗りそびれた後のことである。
 「仕方がないので事務所でお茶をいただく。これは天水である。もっとも正野(しょうの)・水尻(みずじり)あたりでは天水をたくわえるセメント製の水槽をもうけている家は多い。」と。
 小川氏の御崎の旅は昭和36年であるから、合併して現三崎町ができた昭和30年(1955年)から簡易水道布設に踏み切った後も、三崎町西部地区と呼ばれるこの地域では天水に頼らざるを得なかった。

 イ 共同井戸

 **さんが「もう子供の時から自分で担えるくらい、下げれるくらいの水は井戸から汲みました。」というように、子供の仕事として生活用水の運搬が課せられていた。先祖が井戸掘りをした年代は知らないが、当時水があった井戸は4か所、水渇れしたのが六つあったという。
 **さんは「新川(しんかわ)の井戸(口絵参照)は恐ろしいくらいに思いよった。深い川の深川の意味じゃなかろうかといいよった。これが5番目で一番新しい。深いもんじゃけん巻き上げつるべじゃった。ヤジロベーみたいに。やぐら組んでな。**さん(*1)が作ってくれて。」と説明した。新川の井戸も翌朝行ってみると、最近使われた形跡はなくつるべにくもの巣が張られていた。軒下の真新しい電気洗濯機とこれまた真新しいエスロンパイプを見て思わずシャッターを押し、苦笑してしまった。この8月1日から南予水道用水企業団によって、野村ダムの水がここまで来ていたのである。
 昭和48年(1963年)愛媛新聞社の「旧街道(④)」に、三崎庄屋の記事があり「城主(宇和島藩主)はこの家にとう留して三崎と突端の中ごろにある串の殿川の泉から水をくんでは茶をたててたのしんだ。」という。聞き取りの中には、坂(さこ)組の坂の川や浜組の浜の川、上(かみ)の川・下(した)の川など地形から名付けられた組名の井戸は出てくるが、殿川というのが出てこない。「聞いたことあるかな?、聞いたことないで」との一声であきらめていたが、藤岡謙二郎氏の「岬半島の人文地理」に記されているとのガワが忘れられず改めて**さんに聞いてみた。
 三机の須賀の森公園に残る殿川井戸(⑤)のことを説明すると「ありますらい。」と元気のよい声が返ってきた。
 藩主が内の浦(佐田岬漁港)へ上陸される時は、流れの早い岬の先端は船だけ回しておき、串の胴切断層(どうぎりだんそう)(*2)の低いところ(神越(みのこし))を越えて瀬戸内側へ出る。その道筋にある「ヒヨイダの川」に違いないという。中学校裏の(三机の殿川井戸と同じく)2m四方くらいの浅い井戸であるが「汲んでも汲んでも濁らんのよ。」と以前には使われていたことも分かった。海がしけた時に藩主が陸路をとったコースである。きれいな水の湧くところに井戸を掘らせたのであろう。
 「今年だけよなあ、給水がないの。簡易水道ができてからも。あれ何時じゃったかなあ?」と**さんが聞くと「昭和34・35年頃じゃった。長男(36歳)が4つ5つの時に、工事しよる所を揺(ゆ)さぶっていわれて(叱られて)なぁ。」と**さんが答える。
 串まで簡易水道が伸びたのは三崎よりかなり遅れたようで、その後も給水は毎年のように行われていたのである。
 「1斗缶で一荷(いっか)(*3)。大きゅうても小そうても一荷給水された。大きいのはしんどいわい。しんどいけんど、しんどいはいわれんわい……。今年ぐらいじゃなぁ。」と給水が続いた去年までに思いを寄せる。以前は干ばつに見舞われることも多く給水車が三崎から来るのを待ったものだという。学校に給水用大型タンクが設置され、学校・病院用の水を確保したあと、家庭用に給水されたようである。
 家庭に作ってある貯水槽は前述のとおり地下貯水槽が主体で、上げタンクといわれる地上貯水槽は少ない。このあたりのことを**さんは「後からできた方がタンクが大きい。うちのは地崩れして掘れなんだらしい。すり鉢みたいで小さいのでな、15日か10日ぐらいしかなかったな。大正の始め頃、常松じいさんの奨励でなぁ、大けなタンクを持っている人はメタンガスのガスタンクを転用したんよな。お蚕さんを飼うためにランプにメタンガスを使うとって、電気の無かった時分じゃからランプのことを電気といいよった。電気がついたのは小学校3年の11月(*4)じゃった。カンテラで勉強しよった。(部屋の)隅っこへ行って、着物かぶって、カンテラでなぁ。」という。養蚕が盛んであった頃は従って大型タンクはなく、水の確保に費した労力は想像以上のものであり、また子供は学校がひけてから水汲みだけすればよいのでもなかった。
 **さんは「明るいうちは仕事ばっかしでなぁ、学校からいぬると来る(行く)山の名前を書いて、かるう(担(かつ)ぐ)荷物も書いてなぁ、晩じゃないと帰らんけん」勉強した覚えはないという。専業農家が少ない串では、男漁女耕の畑仕事に子供の労働力は欠かせなかったのである。
 **さんは「うちはカイコは飼うし、牛はおるし。牛を飼いよったけん名前付けて貰うて」(一同爆笑)。「今でもべべ**いわれてなあ。」と笑う。
 「百姓の大きいほど牛を飼いよった。『どこの**なら?』いうとの、べべの**よいうてのワッハッハッハッ。」と口を大きく開けて笑う**さんに誘われてもう一度爆笑するのであった。大きい農家のお嬢さんだったといわれる**さんは陸上選手で足が速く、西宇和郡でも屈指だったというから、放課後の部活動のために難を免れたのかも知れない。
 しかし、本人にいわせれば「学校から帰ると山仕事や牛の草刈り、それから水汲みと忙しかった」と友達並みに苦労をしたと主張する。
 どうやら生活用水の確保は一日の終わりの仕事として夜間に行われたようである。

 ウ もらい風呂

 風呂はもらい風呂が多かったという。「近所へ借りに行きよった。」という風呂は五右衛門風呂(ごえもんぶろ)で子供時代には苦労したらしい。**さんのところも昭和40年頃にやっと風呂を据(す)えたが、もらい風呂の期間が長かった。
 断水のことも考慮して風呂の水は入れ替えせず少しずつ足して使うのが普通で、最後は便所へ流して肥料として使った。だから、風呂を借りる時は水を1荷担うて行き、薪(たきぎ)も持参するのが礼儀であったという。
 **さんは娘時代の入浴風景を想い出すように「からだをする所も、いいともない(いうのが恥ずかしい)ような所で、ちょっと屋根を付けただけの風呂で」といい、暗い明かりの下での、かけ湯もままならぬ入浴は今とは隔世の感だという。
 **さんももらい風呂の共通体験があり、五右衛門風呂の自由にならぬ底板のことをあれこれ説明し「それでも行水するよりましじゃった。」というのであった。水不足のこの地域は、入浴の不便さも想像を超えるものがある。
 風呂水汲みについては、**さん・**さんの話から、浜(はま)の川(かわ)・下(した)の川(かわ)が使われたようで、水質の関係もあろうがどちらも串では低地にあった。「夜ためるのよ。ちょろちょろたまるけんな。」「担い棒を渡して自分の番を貰うてなぁ。」「最後の人の後の番を貰うてな、11時も12時もなったらいやになって止(や)めるけんな。」という順番取りをする。
 真夜中に小娘が、昼間の山仕事で疲れたからだにむち打って一荷の水を運び、さらに番外の水を家族のために順番待ちする。串の女性のしたたかさはこうして子供の時から培われてきた。
 「丑三(うしみつ)時(*5)の1時から2時は淋しいわいの、峰(みね)(*6)をかたいで(担いで)、誰ぞ来ちょったら恥ずかしいと思い、来ちょったらええが(心強いが)と思うてなぁ。」というくだりは明らかに1人で、心細い深夜の水汲みである。 1時間に2・3荷たまる低地の共同井戸への。
 洗濯の水はどうであったか聞いてみた。
 「最後に、飲めんようになって洗濯だけしたな。」と**さんがいう浜の川は、近年になって下水が混入しはじめ、洗剤と水を大量に使用するようになって濁りがひどくなったという。「井戸水も、昔はミナクチ(*7)が変わるけんきれかった。今は毒じゃと思う。」ほどに変わってきた。
 **さんは「ふとんは毎年夏に1回ふとん替えをした。浜へ行きよった(浜組の井戸)。解いて、浜へ行って、ノリつけて、石の上に干して……シーツなんか無かったけんな。」といい、不慣れな電気洗濯機の失敗談でみんなを笑わせた後で「子供らはあんな不自由知らんもんな。都会とおんなしになってしもうて、水の不自由なんか忘れてしまわいな。もうわたしらのあの観念無うなってしもうた。」と嘆くのである。

 エ 地下貯水槽

 **さん(三崎町串 大正2年生まれ 81歳)
 **さん(三崎町串 昭和7年生まれ 60歳)
 串の**さんは待っておられてすぐ部屋に通された。テレビの前に大きめの籐椅子が置いてある。にこにこ笑っておられるが一向に動かれないでいる。とっさに足を悪くしていると感じて、あいさつもそこそこに手を貸してテーブルへ着いてもらった。
 「年をとったら、もう足が弱っていけませない。」とにこにこされたままの第一声である。傾斜の急な段々畑を生き抜いてこられた姿を想像したのであった。色白の顔は赤味がさして、ひげのそり跡が青く眼が生きておられる。美容師の若奥さんがひげを当たったのであろう。来意を告げ、水の話に入る。
 「常松じいさんが器用な人でなあ、東京の水産学校(東京水産講習所)へ行って、もんてからいろんなことしたんですらい。地元の丸一組(丸一缶詰、明治22年串出身加藤太郎松氏創業)に勤めて、長浜分工場に居った時ですらい。電気をおこしたりしましてなあ……。その時のメタンガスが出よった所が水タンクになっとりますのよ。今もありますがなあ。まわりにも勧めて、大分作ったとこもありますらい。」といわれたところへ息子さん夫妻がそろって見えられ、あいさつもそこそこに「電気のことは伝宗寺の先代住職さんから聞きました。」と補われる。ここでは有名な話のようである。やがて**さんがみえる。
 「あれが常松じいさんです。がいなひげでしょう。」という**さんが、**さんに代わって説明をしてくれる。**さんは町教育委員会関係の仕事もされていて、三崎のことに大変詳しい。
 常松さんは、技術方面のなかなかのアイデアマンで丸一缶詰でも業績を残したが、地元の串に貢献したことも大きかったという。当時、農業はイモ・麦の畑作と養蚕が主体で、カイコの世話をするのにすべてランプを使っていた。東京で身につけた技術を駆使してメタンガスによる発電を試みたのはカイコの飼育のためであった。
 「ぽっと火がついてなあ、大事に持っとったが、がわ(外側)が壊れてなあ、薄いもんじゃったけん。」と**さんが所作(しょさ)で説明してくれる。三崎町誌にはそのことを「発電の研究」と記しているが、実用化に至ったかどうかは定かでない。このことは、2回目に串で聞き取りをしたとき、3人の女性がそれぞれ常松じいさんのことを語った内容でもあった。狭い地域内のこと、それもたどれば血縁で結ばれる身近な関係もあろうがよく知っている。こうして優れた先人が地域の人々の心の中に生き続けるのであろう。
 **さんの奥さんが見えない。ご主人の農業にまつわる水問題もさることながら、家庭と耕地の水を一手に支えてこられた奥さんが現れないので聞くと、「あれはなあ、ちょっと外へ出とります。これが元気でなあ、大正元年の12月26日生まれで」と奥さんの生年月日を教えてくれた。
 からだは元気であるが少し耳が遠くなったという。「めんどしい」のであろう、出たままで帰らなかった。後で気が付いたことであるが、串の女性は控えめで決して出しゃばるところがない。老人も中年もそうであった。
 **さんにしても、父親のことを聞かせてはくれるが、「いやあ、別にわたしは。」といって自身のことは語ろうとしない。控えめでつつましいのである。
 **さんの説明でおおよそのことは分かった。8月から南予用水の水が来ているが、それまでは雨が降ると貯水タンクへ雨水をためたこと、東部地区の松部落に水源地があって、穴地蔵(303.7m)の水系の水をためて西部地区へ送水してきたこと、使う時は水こし(炉過器)を通すこと、水こしは砂と木炭が主体で下層に石ころとシュロを使うこと、4・5年前までは、夏だけでなく冬も渇水があり、給水は最近まで続いたことなどである。保内町以西は水との闘いであるとも付け加えられた。
 **家のタンク(こちらでは貯水槽と呼ばず、タンクが一般的)を見せてもらった。1間半(2.7m)四方、高さも1間(1.8m)といわれ深い(写真1-1-5参照)。
 きれいな水が、周囲の青石で青味を帯びて見える。ここが多くの生命をはぐくんできたのかとしばし凝然(ぎょうぜん)。しかし、カメラでとらえた水は天水ではなく南予用水である。「上水道が来ても、タンクが要(い)らんことがはっきりするまでは除けん。」ときっぱりいわれた**さんの声がタンクの中に響く。
 メタンガスを利用したランプは大正の終わり(**さんの12・13歳)から昭和の初期にかけて使われていたという。昭和5年(1930年)には三崎村・神松名(かんまつな)村併せて400戸の養蚕農家があった(④)と記されているので、桑畑と夏柑が中心の景観であったに違いない。**家も常松さんが40代半ばの働き盛りであり、**少年のモッコ姿も想像できるのである。

 オ くよくよしない串の女性

 小学校の同級生3人がそれぞれに苦労をしながら、それでも串を離れるのではなく、一見陽気に暮しており、恥も外聞もなく彼女たちの生きざまを語ってくれる。
 **さんが「母が弱かったけん、うちが仕事しよった。わたしがおもになって畑なんかしよったもの。」と口をとがらせるのは、他の2人から「**さんはお嬢さんじゃから寝とったらよかったもん。」といわれたお返しである。**さんの生家は串では大きい農家で、「百姓の大きいほど牛を飼いよった。」といわれるところの、カイコも牛も飼育した家で牛駄屋(うしだや)が今も残っているという。
 女性と子供が畑仕事を任されて、母親が病身では遊んで寝ておれるはずはない。**さんは「みかん(夏柑、ダイダイという)は少ししかなかった。クワ山が広かって、クワ山つぶしてみかん山にしたんじゃけん。」という。やがて第二次世界大戦が始まり、戦時下の食糧難時代を迎えるとみかん山は再び麦と芋を作る畑にかえってゆく。傾斜地の重労働と、行き帰りのモッコでからだをいじめた少女時代・女子青年時代である。疎開で帰ってきた人も畑を開墾して芋を作った。「変動の中で生きてきちょるやけん。……わたしらは青春時代が灰色じゃった。」という**さんは、「旦那さんはこっちの人じゃなかった。校長先生の子供でなあ、三菱の会社員だった主人が名古屋生活の後、満州へ行って帰ってから風土病で死んだ。わたしなんか21(歳)か。泣く間もあるかい。」とかみしめるようにつぶやく。
 「くよくよしよる間がない。」という**さんは数え年36歳で一人になった。「マラリアでふるうとるがに嫁とるんじゃけんの。黄色い粒を瓶に入れて持って帰った。薬は何いうたかの。うちは子供が3人で、3人目のしり子(末子)は8歳も違うのよ。(生後)8か月で主人が死んだ。その子はここで(**さん方)育ったようなもんよ。クリスマスをようせんと連れて帰って。うちよりあんたとこで育ったようなもんよなあ、**さん」。**さんと**さんは親が従兄弟だという。何という心の絆であろうか。**さんの面倒見がいいのか、血縁に困っている者が居れば、面倒見ざるを得ない土地柄なのか、何れにしても驚嘆すべき絆の強さである。
 なるほど、丸一組の韓国進出をもたらした出稼ぎ(明治14年から昭和15年まで約60年間続く。最盛期は明治44年の韓国併合の頃で、200人もの海士が全羅南道水域に行った。(①))の留守地は一枚岩の相互扶助がなければならないはずであり、三崎村から串へ移り住んで以来の地域の結束力となっているのであろう。
 しり子の面倒をみた**さんも苦労したという。女手一つで子供を育てた**さんとは少し違う。
 「旦那がお利口すぎて貧乏しよるけん。」といえば、「**さん下田へ行くのはわたしらが三崎へ行くようなもんじゃけん。」と**さんが補足する。
 ご主人は船主さんで?という質問に再び「それがまたお利口さんやけん。22時間(伊豆まで)かかりよった。」と笑う。
 ご主人の**さんは外洋の漁場開拓をつぎつぎと手がけた沖合漁業の先駆者である。
 愛媛新聞連載の「三崎半島」(昭和40年1月1日~同3月20日)に「出かせぎ・集団出漁㊦」の見出しで**さんの記事がある。
 「**さん(42)=三崎町串出身=は、三崎漁協伊豆船団の新洋丸(14トン)第八新洋丸(19.9トン)の船主であり、みずから第八新洋丸に乗りこんで船長兼漁労長をしている伊豆出漁10年のベテラン船長だ。31年に伊豆の漁場へくるまで、東支那海や玄海灘へゆく鮮魚運搬船の航海士をしていた。漁業はしろうとだったが、いまでは伊豆船団の中で最高の水あげをし、船団のりーダー格になっている。……略」
 お顔は拝見していないが、聞き取りの電話に出られたので話を聞くことができた。**さんは、「キンメダイに将来性があると思うて、東京の海上開発などから資料を求めて、個人ではじめてミッドウェーまで行った。組合は1年後から来た。キロ200円から始めて大体キロ500円くらいまでいった。北海道の連中が刺網(さしあみ)を使っていた。年に1回か2回串へ帰ったが、後はずっと向こうに居た。といっても海の上が殆どであったが……」というように1航海が約10日間、基地の下田港へ帰港して二・三日休んでは出てゆく。シケると「船は頭から水をかむって潜水艦と同じ」だという。
 休みの二・三日に合わせて、**さんの伊豆行きがあったわけだが元気なものではある。地元の串では「親の面倒も見よりゃ山へも行くけん。」という仕事と、3人の子供の他によその子の世話までする。船長夫人としての地元の仕事もあったであろう。**さんは「この人でけんことはないわ。わたしらがまねでけることでなかった。」と称賛する。しかし、漁民魂の権化のような**船長の度重なる漁場開拓のおかげで、陰の苦労も並大抵ではなかったのである。
 聞き取り会場の公民館を出る頃は、長い夏の日もとっぷり暮れて坂の石段が暗い。防犯灯らしきものも少ない。ここは用心もよいのであろうが、夜の灯はあまり必要でないのかも知れない。朝まずめ(*8)を狙う漁師たちは夜も早い。日が落ちると電話も遠慮すると何かで読んだ。**さんが「ここで敬老会もしてなあ、130人もおるけんわたしら立ったままで……」と、暗い石段を平気で降りながら。**さんの弟さんが区長さんである。聞けば、敬老会の名簿には138人(男58、女80)とのこと。いま串には164戸、481人の人が住んでいる。65歳以上の比率は実に28.7%になる。しかし、串の老人たちは生き生きと、今日も大きなロを開けて陽気に笑っている。


*1 やぐらは台風で壊れ、現在は**さんの脚立で間に合わせている。つるべが2個ロープでつながれていた。
*2 佐田岬半島にはいくつもの胴切断層がみられ、その手前は幅も狭く、尾根も低い。
*3 天秤棒の両端にかけて一人の肩にになえる量。
*4 昭和6年。
*5 午前2時から2時半をさす。夜中過ぎはこう呼んだのであろう。
*6 狭い道がついている串の尾根沿い。
*7 湧き水の出口、井戸も湧水も井戸といい、川という。
*8 夜明けから日の出までの時間帯、魚がよく釣れる。

写真1-1-5 **家の地下貯水槽

写真1-1-5 **家の地下貯水槽

平成4年8月撮影