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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(4)長屋門を構えた農家の住まい

 松山(まつやま)平野の農村地帯にはいると、道路に沿ってどっしりと構えられた長屋門を持つ農家がよくみられる(口絵参照)。
 「長屋門」とは、一般に棟の長い切妻(きりづま)造り、または、入母屋(いりもや)造りの屋根の建物である長屋の一部を開放して出入り口を設けたもので、江戸時代において家格を表すものとして上級武士の屋敷や許可を得た庄屋などの豪農層にのみ建てることが許されていたものである(⑨)。長屋門に限らず、江戸時代には住まいに関して実にさまざまな制約が設けられ、住まいが身分統制策の一つとして利用されていたのである。明治以降は、そういった制約がなくなったため、人々は、長屋門をはじめとして家普請に力を入れるようになった(⑩)。愛媛県の場合、その力の入れようは「伊予のたて倒れ」という諺(ことわざ)に集約されるほどのものであったが、長屋門自体は農家のくらしに必要な建物として使われてきたのである。その具体的な使い方について、松山市東垣生(ひがしはぶ)町で農業を営む**さん(昭和6年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)夫妻に聞いた。
 「私が物心ついたときには、もう長屋門はありました。私の父ではなく、祖父か曾祖父(そうそふ)の代に建てたと聞いていますから、明治のころに建てられたのだと思います。この家の東隣にもありました。昔はこの辺り(東垣生町)には通りに面して長屋門を構えている家がたくさんありましたが、オリヤ(母屋)を建て替える際に、壊してしまうところも多く、昔と比べるとずいぶん少なくなりました。
 この辺りに長屋門が多い理由の一つは、農家はいろいろな穀物をしまっておく場所や、唐箕(とうみ)(風を送って玄米と籾殻(もみがら)を選別するための農具)などの農具を置いたりする場所が必要なためだと思います。そして、もう一つは、やっぱり門というのは、一番目につくところですから、家の見栄えというのがあったのではないでしょうか。
 長屋門はたいていどこの家でも入り口を挟んでどちらか一方に寝起きができる部屋が作られていました。私のところは東側が部屋になっていました。門の東側には部屋ばかりでなく、トイレや五右衛門風呂(ごえもんぶろ)もありました。そして、反対側は農機具を置いたり、作業したりするための納屋でした(図表序-8参照)。私の家は畑が4反(約3,698m²)あり、昭和10年代のころだったと思いますが、父と祖父だけでは畑仕事が大変でしたので、男の人を雇っていました。私たちはその人たちを「にい」と呼んでいました。年齢は今でいう高校生ぐらいで、10代後半の年代でした。その人たちが寝泊りをするのが東側の部屋でした。機織(はたお)りをやっている家では、女の織り子さんたちがそういう部屋に寝泊りをしていました。やがて、そういう人たちを雇わなくなると、私の家ではこの長屋門の部屋を祖父の隠居部屋として使うようになりました。祖父が他界してからは、私の父はこの部屋を使わず、物入れになりました。
 一方、長屋門の西側の建物は納屋になっていて、いろいろな農作業をしました。ここにウシを飼っている家もありましたが、うちでは門の外に牛小屋があって、門の内部にはヤギを飼っていたときがありました。西側の建物ではツシ(屋根裏)も小麦わらをたくさん保存するのに使っていました。それというのも、昭和47年(1972年)に家を建て替えるまで、私たちの家はわら葺(ぶき)屋根で、庇(ひさし)の部分だけ瓦葺(かわらぶき)だったので、屋根の補修のためにたくさんの小麦わらが必要だったのです。わら屋根は、月日がたつとコケがついたりして弱くなり、長さが少しずつ短くなっていきますから、専門の屋根屋さんを雇って古くなったわらを抜いて、新しいものに差し替えていました。だいたい5~6年に1回の割合で補修をすることにしていました。ですから、私のところでは小麦を1反(約992m²)ほど毎年作っていました。そして、補修の年がくるまで刈り取ったわらを保存し、蓄えておく場所としても長屋門を利用していたのです。」
 このように、長屋門はその見栄えもさることながら、構えた家それぞれが実用的に用い、今日までその姿をとどめてきたのである。

図表序-8 長屋門の見取り図(昭和10年代)

図表序-8 長屋門の見取り図(昭和10年代)

**さんからの聞き取りにより作成。