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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)イワシと段畑

 南宇和郡西海町で、水田耕作のできない地域の食とくらしについて探った。
 西海町は県西南部に位置し、豊後水道の入口に突き出た半島にある。夏は、台風の通過地点となり、冬は強い季節風にさらされる地域でもある。地形的には標高約300m級の山が連なり、急斜面をなし平地に乏しい。
 半島の北側と東側は緩やかな斜面となりその斜面に階段状に集落が形成されている。小成川(こなるかわ)地区はその東側の1小集落であり、『西海町誌』によると、明治のはじめ福浦(ふくうら)地区から移り住んだ人々と、宇和島地区・小池地区・三浦地区から移った人々によって拓(ひら)かれた集落(⑩)である。
 昭和30年(1955年)1月の小成川の戸数50戸、人口308人に対して、平成15年(2003年)1月の戸数37戸、人口119人である。

 ア 段畑とイモ

 平地の少ない西海町では山林を切り開いて畑に開墾し、さらに段畑の土壌流出を防ぐため石垣を組んで階段状の畑を形成していった。
 この段畑での農業はほとんどが主婦の仕事で、大変な重労働であった。その上、漁があればいりこ炊きやめざしを作る作業にもかり出され、主婦が料理の献立をゆっくり考える暇などなかった。地元で古老たちは「イモにかいぼし(カタクチイワシを干したもの)、箸いらず。」と言い、サツマイモを主食にかいぼしをおかずにし、箸が不必要であったこの地域の食生活を端的に表現している。
 西海町小成川は水田耕作が出来ない地区の一つであった。その小成川で生まれ小成川で生活してきた**さん(大正10年生まれ)、**さん(大正12年生まれ)夫妻に、昭和30年ころまでの食とくらしについて聞いた。
 「昭和の初めころが私の子ども時代ですが、そのころは麦やサツマイモが主食でした。イモは10月の終わりころに掘りますが、収穫したイモは一年間食べなくてはなりませんから、家の中にイモ壺(つぼ)を掘って貯蔵していました。
 サツマイモは、裏山の段々畑で作っていました。今は雑木林になっていますが、昭和40年代初めまでは頂上近くまで開墾されていました。11月から3月の間に、サツマイモの切干しを臼で砕く作業をしましたが、これを切干しかちといいました。これを臼で挽き、粉にして、いも団子、いも餅の原料としました。この作業は主に女性がしていました。
 サツマイモをかんなで削って、干して乾燥させて、杵(きね)で叩(たた)いて粉にして、この粉を鍋(なべ)に入れて沸かすこともしていました。そして粘り気の出たものをおつめというご飯にして食べていました。ご飯といってもイモだけの食事です。小成川には水田がないので、米は全て購入しなければなりませんでした。
 つめ粥(がゆ)もよく食べました。おつめに適当に切った生イモを加えて一緒に炊くとおつめがやわらかくなり、イモのねばりが出ます。焦げつかないように火加減をみながら炊いたものです。子どものころはサツマイモだけで麦が入ることもありませんでした。
 ふかしいもは、蒸したサツマイモのことで、つめ粥、つめ飯とふかしいもはともに、三度三度の食事や間食の主食になるものでした。
 終戦後は、新たに畑を開墾して麦やサツマイモを多く作っていました。トウキビも作りましたが、主食としては利用しませんでした。」

 イ イワシに頼って

 (ア)ほうちょう汁

 **さんは、続けて次のように語る。
 「私は高等小学校(旧制の尋常小学校卒業者にさらに高い初等教育を行った学校)を出てすぐに海に出ていました。夜、小型のまき網漁船(イワシ、アジ、サバなどの魚群を取り巻いて魚網を敏速に張り漁獲する漁船)で夜漁に出て、朝帰って一休みして畑に出るという生活でした。
 食事は一日3回でした。朝食は味噌汁にいつもイワシが入っていました。おかずは魚・いりこ・野菜・たくあんでした。いりこは粉にし醤油(しょうゆ)をかけておかずにもしていました。魚は主にカタクチイワシで煮付けが多かったです。魚を買って食べることはありませんでした。高級魚などはそんなに食べたことはありません。
 この地域では冷や汁といっていますが、さつまと他では言うのですかね。いりこを粉にして入れたり、イワシを焼いて入れたりして麦ご飯にかけて食べていました。
 うどんは子どものころからありました。麦を作っていましたが、その1割、2割が小麦で、これは貴重品でした。小麦粉を練って、うどんのように切ったものを、汁の中に入れて“ほうちょう汁”といったものを作って食べていました。その中にイワシなどのすり身を丸めて入れたり、サトイモや野菜を入れて量をふやしたりします。特に寒いときには皆よく食べました。ほうちょう汁は、手軽に作れて生の魚や、あり合せの野菜を煮込んで作りますから栄養もあったと思います。
 小さいときに米を食べることが出来なかったので、半分でも米を入れたご飯が食べられればと願っていました。終戦後兵隊から帰ったとき一時病気になり、米のお粥を食べたことがありました。このときも自分だけ米のご飯を食べてと、心苦しく思ったことがありました。米のご飯を家族が食べられるようにとがむしゃらに働きました。」

 (イ)いりこといか飯

 **さんはさらに語る。
 「いりこは、カタクチイワシやマイワシを海水などで煮た後乾燥させたもので、煮干しともいいます。だしとして使いますが、手軽に使えるところから、冷や汁を作るときに、よくいりこを入れていました。丸ごと食べられるいりこは、カルシウムが多く含まれているので、子どもたちのおやつにもなりました。遊びに行くときなどは、ふかしいもを懐に入れて、浜に出ればいりこがたくさん干してあるのでそれを失敬して、見つかり怒られたことがありました。いりこのつくだ煮は、お弁当のおかずなどによく入れました。
 たくさん小イカがとれたときには、米をイカの腹の中に3分の1程度つめて炊くいか飯を作っていました。生から炊くのは時間がかかりなかなか炊けにくかったのを覚えています。ご飯が炊き上がってから、味つけしたイカにご飯をつめたりしたこともあります。麦ご飯が中心の時代で、米の取れないこの地域では特別のときの料理だったと思います。イカの足やひれを細かく切って野菜などといっしょに炊く、炊き込みご飯が一般的で、いか飯はお祭りや“何か事”の時の料理だったと思います。」

 ウ 祭りのごちそう
 
 (ア)すがたずしを作って

 **さんは、「戦前のお祭りの料理には、今のような盛り込み料理はなく、きつねずし(いなりずし)があればごちそうでした。
 この地域の、夏のお祭りには、小成川のお祇園(ぎおん)様(7月15日)、大成川(おおなるかわ)の十日恵比寿(とうかえびす)(7月10日)、福浦の和霊(われい)祭(7月24日)があり、それぞれのお祭りのときに炭酸餅(もち)(炭酸まんじゅう)を作って親戚(しんせき)に配っていました。これも心待ちにしたものでした。秋の祭りは11月3日が小成川の八坂神社のお祭りです。この時はきつねずしが中心で、おこわも作っていました。祭りといってもたいした料理はありませんでした。ウルメイワシのすがたずしはおからを入れてたくさん作っていました。他の地域でいう丸ずし(写真3-3-19参照)のことです。」と語る。
 西海町では、写真3-3-19のようなおからを酢と砂糖で味をつけて丸めイワシや小あじで包んだ丸ずしを一般的に“すがた”と呼んでいる。

 (イ)べら餅を作って

 **さんはべら餅について、「正月に搗く餅にべら餅がありました。これはもち麦粉とサツマイモの餅です。3月ころまで食べます。ヨモギを入れ、蒸したサツマイモともち麦粉をあわせてこねて蒸します。これを臼で搗きます。搗きあがった餅を小さくちぎって、小判形にして生乾きのときに、シュロの葉を切り裂いて作った紐(ひも)の両端に吊るし、家の中に張った紐や竿(さお)に掛けて乾燥させていました。これは保存食の一つでした。その乾燥したものを蒸したり焼いたりして、食べていました。べろ(舌)のように平らであり形もべろによく似ていたのでべら餅といったのでしょうか。黒砂糖をまぶして食べるとおいしかったです。」と語る。

写真3-3-19 すがたずし(丸ずし)

写真3-3-19 すがたずし(丸ずし)

平成15年11月撮影