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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)海士のくらし

 佐田岬(さだみさき)半島の先端部に位置する西宇和郡三崎町正野(しょうの)地区は、その両側がすぐ海に面し、平地というべきところは見られない。昭和30年代初めごろまでは山林を開墾して段畑にし、自給用の穀類、イモ類、野菜を栽培していた。
 平成13年(2001年)現在、三崎町で、漁業に携わっている840人の内81人がアワビ、サザエなどを採取する潜水漁業を専業とするいわゆる海士(あまし)(男性の素潜(すもぐり)漁業従事者)である。特に串(くし)地区、正野地区、与侈(よぼこり)地区には海士が多い。
 『三崎町誌』によると、正野地区は江戸期には宇和島藩領で、慶応3年(1867年)、串浦の人々が藩の許可を得て開拓をはじめ、明治4年(1871年)ころには串浦から分離して一村を形成した。大正7年(1918年)には佐田岬灯台が設置され、太平洋戦争中は一時砲台が築かれて要塞地帯となったこともある(⑨)。正野地区の昭和38年(1963年)の人口1,065人に対して、平成15年(2003年)8月31日現在は、人口411人であり、人口減少の著しい地区である。

 ア 海士の語る正野のくらし

 現在(平成15年)も現役の海士である、**さん(三崎町正野 昭和6年生まれ)、**さん(昭和8年生まれ)夫妻に話を聞いた。
 「昭和10年代が私の子供のころです。戦後すぐ海とのかかわりを始め、その後ずっと海士でやってきました。この地域での食料確保は大変でした。平地がなく水の確保も難しく、両親は子どもに食べさせるのに苦労したと思います。6人兄弟ですが、食べるものは、海のものと自分の畑で栽培したイモと麦が中心で、自給自足の生活でした。この地域は米を作ることもできませんから、米は本当に貴重品でした。米のご飯を口にできるのはお正月とお祭りぐらいでした。
 食糧難で、朝の食事はサツマイモと麦が主でした。いわゆるかんころ飯を食べてあと一杯は麦ご飯を食べました。麦は昭和30年(1955年)ころもまだ丸麦でした。平麦(押し麦)はおいしかったですね。結婚してしばらくして(昭和30年代中ごろ)、麦に少し米をまぜて食べることができるようになりました。
 夜はやはりかんころ飯と麦飯が主でした。今だから言えるのかも知れませんが、それでも結構おいしかったと思います。今でもあのときのイモはおいしかったなと思い出に残っています。
 トウキビも作っていましたが、柔らかい時に焼いて食べたいと思うのに、親がそれを許してくれませんでした。収穫後乾燥させて、炒っておやつなどにして食べていました。自分の家でとうきび飯にして食べるということはありませんでした。エンドウマメやソラマメのような豆類は畑の端のほうに作る程度で、後は麦やイモでした。10月ころまでにイモを収穫して、その後に麦を植える。この繰り返しでした。
 おかずは肉などはありませんでしたから、野菜の煮物や味噌汁などがあればいい方でした。魚は食べましたが、お金にしなければなりませんでしたから、ふんだんにとはいきませんでした。多くの子どもが尋常小学校(旧制の小学校)で止めて山林の開墾のクワを持ちました。毎日の食料の確保が大変でした。あの終戦後の苦しい時代を生き抜いたから、どんな時代がきても驚かない、何ともないと私はいつも言っています。あの辛抱をお互いしてきたので、びくともしないと思っています。
 この地域では、旧暦の6月14日、15日が夏祭りで、11月最初の未(ひつじ)、申(さる)の日が野坂(のさか)神社の秋祭りでした。終戦後しばらくは祭りでも米のご飯は口にできませんでした。麦のおすしの時期がありました。米が手に入りだしてからはばらずしと豆腐が祭りの主役でした。豆腐が古くなれば“つと豆腐”(豆腐を簀巻(すまき)にして煮たもの、他の地域ではすぼ豆腐ともいう。)にしていました。
 海藻のひじきを入れたひじき飯は、私たちにとっては主に正月の料理でした。お正月、お盆、お祭りがくれば普段と違ったものが食べられるので、子ども心に待ち遠しかった思い出があります。」

 イ 海とのかかわりの中で

 海とのかかわりを**さんは語る。
 「この地域では潜水漁業者のことは、アマシと呼んで『海士』と書いています。
 素潜りの期間は、旧暦の3月15日~9月15日(新暦では4月15日~10月15日)でした。そしてこの日をスミハジメ及びスミドメ、スミアゲといっています。現在は1日の操業時間は8時から16時となっていて、漁場は、内の浦から西の海域の伊予灘と宇和海です。
 漁獲物はアワビ・サザエ・トコブシ・ウニ・ニナ・テングサなどです。この地域には磯の食材を利用した料理がたくさんあります。貝類が豊富で、中でもアワビは、昭和20年代には、女子どもでも海岸で簡単に採ることができました。アワビを刺身にしたり、油で揚げたり、干して保存食にしたりしました。しかし、アワビにしてもサザエにしても私たちにとっては生活の糧ですから、あまり家庭用としては食べませんでした。
 若いときは船を持っていなかったので、潜水のできない冬の時期は土木作業に行っていました。現在は船で釣りに行っています。若いときは裸で素潜りをしていましたが、昭和30年代半ばからはウェットスーツを着るようになりました(昭和36年〔1961年〕から三崎の海士もウェットスーツを着用するようになった。)。若い時は禁漁期間や潜水時間の制限がなく、いつ漁に出てもよかったので朝早くから出ていました。従って朝の食事を比較的早く済ませて家を出ました。昼食は弁当を持っていきました。
 潜水作業をすることを、正野ではスム、あるいは潜るともいいます。潜水のことは、正野ではヒトイリといいます。潜水を何回となく続け繰り返す作業のことは、正野ではヒトカズキといっています。
 潜水の時に使う樽(たる)、または桶(おけ)のことを正野ではヒョウタンと呼んでいます。樽はこれを胸にあてて泳ぎながら水中をのぞき見るためのもので、大きさは直径30cmあまり、高さ20cmくらいで、この浮き樽の下に獲物のアワビやサザエなどを入れるシュロで作った口に木または竹の輪のあるテゴと呼ぶ網袋(写真3-3-16参照)を吊(つ)るしておきます。
 ヒトイリは、ヒョウタンを使う場合は、深さ10尋(ひろ)(約18m)ぐらいまで潜水します。作業は時期によって違いますが、だいたい2時間前後、一日に3回ないし4回です。作業の間は、船や陸にあがって休憩することもなく、ずっと海の中です。
 正野ではフンドシのことをヘコといっています。ウェットスーツを着るようになるまで、身につけていたものはヘコだけでした。作業に使う道具は、浮き袋の代わりをする樽と眼鏡、それとアワビ起こしの金棒です。この金棒にはカキダシ(写真3-3-17参照)とイソガネ、マトコがあります。カキダシはサザエなどを岩場から掻(か)き出す時に用います。イソガネはアワビを岩からはずしてとるための鉄製の長さ30cmぐらいのもので、現在はさびない材料で作ってあります。その先端は平たくとがり、一方の端は曲げて輪とし、輪に通した綱を首にかけてイソガネをヘコにさして潜水します。マトコは、アワビ起こしのためのイソガネよりさらに小さい長さ15cm程度の金棒のことです。これをヒョウタンにつけておいて、海底の狭い洞窟や岩の下などのアワビをとるときに使います。
 潜水用眼鏡には一眼式と両眼式とがあります。私たちは一眼式を用い、これをイッチョウメガネといっています。この地域の海士たちが眼鏡を使用し始めたのは、明治の中ごろだといわれています。」

写真3-3-16 獲物を入れるテゴと呼ぶ網袋

写真3-3-16 獲物を入れるテゴと呼ぶ網袋

三崎町正野。平成15年6月撮影

写真3-3-17 カキダシ

写真3-3-17 カキダシ

三崎町正野。平成15年6月撮影