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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)古代米の復活

 農林水産省は、平成元年(1989年)から、日本人の主食である米が持つあらゆる可能性を探求し、21世紀に向けた未来の食材を作り出すためのスーパーライス(新形質米)の研究を進めている。その研究成果として、さまざまな調理法、加工法に適した特性を持つイネの新品種が開発され、赤米、紫黒米(むらさきくろまい)、香(かお)り米(まい)も従来の在来種に普通品種を交配し、栽培しやすい新品種が育成された(⑱)。また、平成5年(1993年)の天候不良は、コシヒカリやササニシキなどの高品質米を追求してきた日本の農業に大きな被害を及ぼし、外国米などが緊急輸入され、日本の米作りを見直すきっかけとなった。
 こうした動きの中で、よく耳にする古代米とはどのようなものであろうか。イネ研究家の猪谷富雄氏は、「古代稲(米)とは学術用語ではない。たまたま、米が火の側(そば)にあって焼かれたか焼いたために炭になった炭化米が腐敗せずに古代の遺跡から見つかることがあるが、そのような『発見出土米』が考古学上の文字通りの古代米である。また、例えそのままの形で残っていたとしても、イネの種すなわち籾(もみ)は数年で発芽力を失うから、昔のイネを現在の田んぼに蘇(よみがえ)らせることは不可能である。一般に『古代米』と称されているのは、昔のイネが持っていたであろうと推測される特徴を今なお色濃く残すイネ品種群のことである。昔のイネは現在のイネに比べて、草丈(背)が高く、倒れやすく、収量が低く、芒(のぎ)(イネ科植物の花の外殻(がいかく)にある針のような突起)が長く、脱粒性や種子休眠性があることなどが特徴として挙げられる。野生のイネは、そのほとんどが玄米表面に赤い色素を含む赤米であり、また古くからの稲作国には必ず香り米があるが、このように米が赤いとか香りがあるとかの特徴を持つために通常の品種改良の対象としては無視され、人里はなれた中山間(ちゅうさんかん)地域や離島にひっそりと生き残ってきた品種群を古代米といっていいかもしれない。(⑱)」と定義している。
 ここでは、昔のイネが持っていたであろうと推測される特徴を今なお色濃く残しているイネの品種群を古代米と考え、県内で早い時期から古代米栽培にかかわってきた人々に取材し、その思いや活動を探った。

 ア 宇和町の赤米・黒米

 平成3年(1991年)9月、県西南部に位置する東宇和(ひがしうわ)郡宇和(うわ)町に、宇和町米博物館が開館した。宇和町は、古くから南予(なんよ)地域最大の穀倉地帯として米を作り続けてきた地域である。米どころ宇和をPRするために、昭和3年(1928年)建築の旧宇和町(うわまち)小学校の校舎を移築し開館したという。100種類を超えるイネ標本を系統ごとに分類整理した展示室、イネの一生を田起こしから田植えまで、草引きから稲刈りまで、脱穀から出荷までの3段階に分け、町民から寄贈されたさまざまな農機具とジオラマ(実際の風景に似せて小型模型を配したもの)で分かりやすく学ぶことができる三つの展示室等があり、館外にはおよそ100種類のイネを植え付けた比較実験栽培田などの施設がある。
 赤米などの古代米栽培に取り組み始めた経緯について、米博物館の開設に携わった**さん(宇和町永長(ながおさ) 昭和40年生まれ)は次のように語る。
 「米博物館ができた当初は、農機具展示館色の強い施設でした。どうすれば多くの人に見てもらえるかを検討した結果、米には我々が普通に食べている以外にもいろんな種類の米があり、米を食べるという食文化も時代とともに変わってきているのではないかと考えました。それならば、日本全国にはどのくらいの種類の米があり、宇和町では何種類の米が作られているのかといった、米に関するデータを蓄積しようということになりました。変わった米を紹介すると、地元の人も興味を持つのではないかと考え、赤米・黒米の収集、栽培に取り組み始めました。
 開館して2年後の平成5年(1993年)、天候不良による冷害のため米が不作となり、翌6年にはタイ米など地元の人が見たこともない長粒種の外国米が緊急輸入され、消費せざるを得ない状況になりました。この体験を通して、米に興味・関心を持つ人が多くなり、入館者が増えてきました。
 ところが、博物館といっても元は小学校だった木造の建物ですから、機密性が必要とされる種子保存には適していません。種子を保存するためには、毎年栽培して種子を採るしかありませんでした。そこで、平成4年から赤米ウルチと黒米モチを実験田で栽培するようになり、平成7年からは町内の田を借りて、10aあまり栽培しています(口絵参照)。」
 実際に栽培してみると、倒れやすい、量は取れない、種子がぼろぼろ落ちる、実る時も同じ株の中でも下から順に熟れていくなど、作る側からすると非常に作りにくい米であった。ところが古代米栽培が新聞報道された平成4年以降、地元の小中学校などから「栽培したいので苗を分けてほしい。」という依頼が多く寄せられた。その際、**さんは、「ちょっと変わった米だからではなく、せっかく作りにくい米を手に入れたのだから、その作りにくさを学習してください。量は取れないし、倒れてしまう。それでも、これが今の米と違うんだというのを感じてほしい。米作りとはいえないかもしれませんが、逆に今の米がいかに作りやすいかを実感してほしいと思います。」という言葉を添えて、苗を配布したという。
 こうした状況の中で、赤米・黒米を使った宇和町の特産品を作ろうという試みが、平成14年(2002年)から宇和町石城(いわき)農産加工組合で続けられている。責任者の**さん(宇和町岩木(いわき) 昭和2年生まれ)に話を聞いた。
 「私たちは、昭和59年(1984年)から、余剰農産物で特産品を作ろうと活動しています。近所の農家で余った野菜や麦などを材料に、この地域で昔から作られてきた味噌(みそ)やまんじゅう、餅(もち)や漬物などを作ってきました。平成14年からは赤米や黒米を使った特産品開発に取り組んでいます。甘酒入りマドレーヌ(バターを多く含むケーキの生地を型に入れて焼いた小さな菓子)やせんべい、あられ、古代餅、古代赤飯(せきはん)などを商品化しましたが、マドレーヌは日持ちが悪いので現在は作っていません。古代赤飯は注文生産です。古代餅は焼いた時に香ばしく、生でも他の餅とは違った風味があり、雑穀餅のような感触で懐かしいと評判です。宇和町で行われるイベントの際には必ず出品しています。
 今、販売に力を入れているのは、せんべいとあられです。せんべいは、まず、赤米・黒米を蒸して乾燥させ、干飯(ほしいい)にします。それを炒(い)って、赤米・黒米で作った生地に入れています。この辺りでは、米博物館が栽培する前から、糖尿病によいというので薬局と提携して黒米を作っている農家がありましたから、材料はたくさんあります。あられは、ピーナッツやダイズを混ぜ、炒ってない状態で真空包装して、1回分ごとにレンジにかけてもらうようにしています。真空包装するのは大変ですが、出来上がりをおいしく食べてもらおうと工夫しています。味は良いのですが、消費者は面倒くさがって買ってくれません。どう販売を伸ばしていくかは今後の課題です。また、われわれも年をとってきましたから、後継者育成も今後の課題です。」
 古代米を核とした宇和町の取り組みは、平成16年春から秋にかけて南予地域で開催される「えひめ町並博2004」においても、アグリクラフト(わら加工作家)のワークショップ(体験型の講習会)として出展される予定である。赤米・黒米の穂や葉の特徴を生かした飾り付けやドライフラワー作りを体験できるようにする予定であるという。
 赤米の栽培普及について**さんは、「残念ながら現状はまだ、『あいつら変わったことしよらい。』『こげな米じゃもうからんぜ。』という状況です。現在取り組んでいる人たちに続けてもらうためには、安定した需要を作り出さねばなりません。消費量を増やすきっかけになるような加工品開発を進めていくとともに、生産組合のようなものを組織して、生産規模を広げていきたいと考えています。普通に売られている単に食べるための米ではない、生産者も消費者も楽しめる米に育てて、昔からずっと続いてきた食の文化を伝えていきたいと思っています。」と話す。

 イ 松山市久米町の赤米

 松山市東部に位置する久米(くめ)地区は、国道11号の整備により交通の便がよくなり、急速に都市化が進み、人口が急増した地域である。流入する新しい住民と久米で生まれ育った住民が、協力して共に住みやすい町を作るために、平成5年(1993年)久米まちづくり推進委員会が誕生した。
 久米まちづくり推進委員会の活動について、会長の**さん(松山市来住(きし)町 昭和9年生まれ)に話を聞いた。
 「新しく久米に住むことになった住民の価値観と、昔から久米に生まれ育った住民のこれはどうしても残さなければならないという価値観、そういったいろんな立場から意見を出し合って、将来のビジョンを作ろうという活動が始まりました。話し合いの中で、住民が主体となる祭りを通じて、住民が楽しめる、故郷(ふるさと)を感じる活動にしていこうということになり、久米地区の歴史を象徴する来住廃寺跡(7世紀後半の白鳳時代の寺院跡。国指定史跡)を活用した祭りを中心に町づくりを進めることになりました。来住廃寺跡の水田に古代のハスや赤米を植えようという案もありましたが、文化庁の許可が得られなかったので、近辺の農地に赤米を植え、古代の生活の様子や故郷の歴史を知ってもらおうということになりました。」
 こうして、平成8年(1996年)から久米地区での赤米作りが始まった。ところが、京都の種屋から取り寄せた赤米は、収量が少なく粒の大きさや成熟する時期が不ぞろいの上、成長すると170cmほどもの丈になり倒れやすかった。また、米は風媒花(ふうばいか)なので、赤米の花粉がよその田に紛れ込み、その花粉で交配し結実すると検査米としては失格の米になって迷惑をかけてしまうこともあったという。
 久米小学校は、祭り会場として町づくりの活動に参加してきたが、総合的な学習の時間の導入や、まちづくり推進委員会からの要請で赤米作りにかかわることになった。このことについて、**さんは、「赤米作りを通じて、来住廃寺が創られたころの久米での生活の様子を子どもたちに知ってほしい。また、昔から続いてきた地域の諸行事が、米作りの中でどんな意味を持ち、なぜ行われてきたのかを子どもたちに理解してほしいと思います。地域の歴史に学び、親しむことで自らの地域の良さを知り、誇りと愛情を持って地域を語ることができるとともに、そこに芽生えた故郷(ふるさと)意識から子どもたちが自らも地域の一員であるという気持ちをはぐくむことを期待しています。また、収穫した赤米を自分たちで工夫しながら加工していくことで、考える力や創造力を育てていってほしいと考えています。」と語る。
 このような経緯から久米小学校では、社会科で農業や米作りを学習する5年生が、平成13年(2001年)度から総合的な学習の時間に米作りにかかわる歴史体験学習に取り組んでいる。平成14年度に5年学年主任として、赤米作りにかかわった同校教諭の**さん(昭和30年生まれ)に話を聞いた。
 「平成14年度は、6月の田植えから翌年2月の酒造りまで体験しました。6月13日には、隣の高井町の10aほどの水田で、151人の5年生がクラスごとに横一列に並んで田植えをしました。
 その後は、イネの生育観察を続けながら、7月には、自分たちが世話している田であるという看板と、豊作を祈願する笹飾りを立てました。収穫間近の9月には、実った稲穂をスズメから守るために、子どもたちが作った案山子(かかし)を立てました。
 10月1日には、152名の子どもたちが交代で稲刈りをしました。52名は貫頭衣(かんとうい)(頭からかぶる弥生時代の衣服)を着て石庖丁(いしぼうちょう)(弥生時代初期の収穫具)で穂つみを行い、100名は鎌で稲刈りに挑戦しました。石庖丁は前年の5年生が松山市文化財課の職員の方から指導を受けて作ったものです。貫頭衣は、5年生が麻袋を3か所切って周囲を手縫いして、手作りしたものです。松山市の職員の方やまちづくり推進委員会の方の指導を受けながら、2時間余りかかって10aの田の赤米を収穫しました。
 10月26日には、本校の文化祭『久米っ子まつり』が開催されました。当日、料理グループの子どもたちが作ったものは、みたらし団子(だんご)風の赤米団子、フライパンで焼いて表面に醬油(しょうゆ)を塗った赤米せんべい、アルミカップにパン生地を入れて作った赤米蒸(む)しパンの3種類です。『本番では、焼いている時に、せんべいがぼろぼろになってしまったけど、それも楽しかったです。』、『おいしいといってもらってうれしかったです。』といった感想を書いている子どもたちが多かったと思います。
 2月23日には、校区内の造り酒屋で酒造りを体験しました。この行事は、地域住民の方やPTA会員の方が主に取り組み、子どもたちは希望者が参加し、見学しました。」
 9か月にわたって赤米栽培を体験した子どもたちは、次のような感想を記している。
 「今日は鎌を使って稲刈りをしました。1束の稲を刈るのに、教頭先生は1回で切るのに、私は3回でやっと切ることができました。昔は機械がなかったので全部手作業でしていたと思うと、とても大変だということが分かりました。
 みんなでした稲刈りは楽しかったです。自分が植えた苗が元気に育って、収穫できてよかったな。」
 平成15年度の5年生は、籾(もみ)まきも自分たちの手で行い、より深く米作りを学ぼうと取り組んでいる。また、生育状況などをより詳しく観察するために、校内でもバケツや5m²ほどの田に赤米を植えている。