データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
第1節 松野町の農業と人々のくらし
松野町の主要産業である農業は、江戸時代から稲作と裏作の麦や雑穀の栽培が中心であった。明治時代からは、米や麦、甘藷(かんしょ)、雑穀などの栽培が主であったが、一部の農家では、ハゼやカジ、菜種などの換金作物の栽培や肥育牛の飼育、養蚕が増え、多角的農業経営に向かった。大正時代から昭和初期には、カキやクリ、ウメなどの果樹栽培なども始まった。戦時中、桑園や果樹園は麦や甘藷の畑に切り替えられたが、戦後は稲作を中心とした多角的な農業経営が再び行われた。しかし、農地は狭く多様であったため経営規模が零細で労働生産性が低いという問題を抱えていた。
昭和30年代からの高度経済成長に伴い、農業人口の減少、兼業農家の増加、高齢化など、農業を取り巻く環境は深刻な状況になりつつあった。これを打開するためには、大規模な農地開発を行うことで経営規模を拡大し、優良作目の生産団地として安定的農業経営を育成することが必要になった。松野町は、県営農地開発事業の導入を決め、昭和47年(1972年)に基本計画に着手し、昭和50年(1975年)から昭和57年(1982年)に掛けて16団地111haの農地を造成した。開発された農地にはモモ、ユズ、茶、クリ、花木等が植栽された。並行して昭和55年(1980年)に県営圃場整備事業が着工され、11年の歳月をかけて180.1haの圃場を整備し、圃場の区画整理や、用排水路、農道、暗きょ排水が全町的に整備された。こうした県営農地開発事業は従来からの米作を基幹とする農業経営を補強し、農家の規模拡大を促し、松野町と地域住民の努力により、町の特産品の産地化が進められた。特に、モモは松野町には全く栽培されていない果樹であったが、五郎丸、緑ヶ丘等を中心とした農地造成地の栽培作目の筆頭となり、名実ともに県下屈指のモモ産地にまで発展してきた。近年では、ユズの栽培も盛んに行われている。
現在、松野町の農業人口は年々減少しており、農業従事者の高齢化も進行している。また、耕作放棄地も増加しているため若い世代の農業への従事が期待されている。平成10年(1999年)には「株式会社松野町農林公社」が設立され、若い担い手の育成、地域農家への支援育成等を開始している。
本節では、昭和40年代から50年代を中心とする松野町の農業とくらしの様子について、Aさん(昭和8年生まれ)、Bさん(昭和39年生まれ)から、話を聞いた。