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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 子どもの遊び
 
 「私(Bさん)たちが子どものころは、家の近くだけで何十人と子どもがいたので、ほかの地区で遊ぶということはあまりなく、近所の子どもたちと遊んでいました。同じ学年の子だけではなく、いろいろな学年の子と一緒に遊んでいて、リーダーというかガキ大将のような子に付いて回って遊んでいたことを憶えています。
 当時は今の国道196号がまだ開通しておらず、その辺り一帯には田んぼが広がっていたので、稲刈りの後は田んぼで、野球をして遊んでいました。また、海岸には松葉ぐろがたくさんあったので、その場所を基地にしたり、隠れ家にしたりして遊んでいましました。
 川や海でもよく遊びました。今は埋め立てられていますが、新田の浜と呼んでいた、泳ぐことのできる場所があったので、そこで泳いだり魚を獲(と)ったりして遊びました。
 私の実家の工場はいつも遊んでいる地区と離れていたので、4月3日の節句のときには花見弁当を持って、兄たちと工場の土手で御飯を食べたことを憶えています。私自身は工夫して何か作るのが好きだったので、製材所で端材をもらって物を作るような遊びもしていました。家の近くの小さな地蔵庵の前に駄菓子屋さんがあり、そこで駄菓子を買うことが楽しみで、よく行っていたことも憶えています。」

 (2) 菊間の町と交通路の変化

 「以前は瓦業者だけではなく瓦と関わりのある鉄工所がいくつもあり、木型を作る職人などもかなりたくさんいましたが、今は鉄工所もほとんどありません。昔は人口も多く商店街もにぎやかで、造り酒屋も4軒あったことを私(Bさん)は憶えています。
 昭和48年(1973年)に現在の国道196号ができるまでは広い道がなく、遍照院から町中へ入り菊間駅の近くを通る道が主要道でした。その道沿いに商店街があり、にぎわっていました。しかし、狭くてクランクのような形状をした道だったので、大型トラックなどは離合ができず苦労していました。狭い道に入る前に信号があって、その道は片道通行だったので、通行量が増えてくるとすごい渋滞が起こっていました。」
 「昭和40年代には菊間の人口も多く、今の倍くらいだったのではないかと思います。そのころは町内にいろいろな店があり、買い物も食事も町内で完結していました。今は松山や今治にすぐに車で行くことができるので、店が減ってしまったのは当然かもしれません。交通の便が良くなるのも考えものです。
 私(Cさん)が子どものころの昭和40年(1965年)くらいまでは交通量が少なく、西海岸地区では国道といっても車がほとんど走っていなかったことを憶えています。そのため、海岸に着けた船から国道を横断して粘土を運ぶことが可能でした。
 そのころは、国道196号も田之尻地区では舗装されていなかったことを憶えています。今の西町の遍照院から現在の国道が抜けたのが昭和48年(1973年)で、私が中学1年生のときでした。小学生のときに工事をしていたことを憶えていて、昭和48年より前に西海岸地区の国道が2車線になりました。そして最後に残っていた町中の部分が開通したのも昭和48年でした。それまでは道幅が狭いので車の離合などでその区間の道端の商店のオーニングテントを、車が引っ掛けてよく壊していた光景を憶えています。」


参考文献
・ 菊間町『菊間町誌』1979
・ 平凡社『愛媛県の地名』1980
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』1986