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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 蚕を育てて

(1)養蚕を始める

 ア 初めて見る蚕

 「私(Aさん)は、数え年で20歳のときに結婚しましたが、その当時は、嫁ぎ先のおばあさんが1人で養蚕の仕事をしていて、『一緒に手伝って。』と言われたので私も養蚕の仕事を始めることになりました。私が養蚕を始めたとき、御内で養蚕をしている家は17軒くらいで、その後もそれほど数は変わらなかったと思います。槇川でも以前は養蚕をする家があったそうですが、私が養蚕を始めたときは、ほとんど行われていなかったと思います。養蚕がどのようなものか、どんなに忙しいのか、ということを全く知らなかったので、『仕方がない』とは思いましたが、別に嫌だとは思いませんでした。初めは何も分からず、『蚕を大切に扱わなくてはいけない』とか、『うっかり足で踏まないようにしなくては』などと気を付けていました。
 生まれて初めて蚕を見たときは、気持ち悪くて怖いと思いました。また、台風や雨の日に桑の葉を摘んだり、蚕の糞(ふん)の処理をしたりするのが大変で、つらかったことを憶えています。蚕を直接触って移動させることができるようになるには少し時間がかかりましたが、次第に慣れていき、友人と『1匹何円よ。』と冗談を言い合うほどになりました。それどころか、蚕が成長していくのを見ていると、『かわいい』とさえ思うようになったのです。蚕が脱皮するたびに『大きくなった。』と嬉しくなり、嫌な気持ちは一切なくなりました。初めて養蚕をしたとき、白かった蚕がきれいなあめ色になって糸を吐き出したのを見て、とても驚いたことを憶えています。」

 イ 養蚕の時期

 「結婚当時、おばあさんは80歳過ぎで、85歳で亡くなったので、一緒に養蚕の仕事をしていたのは5年ほどになります。おばあさんが亡くなってからは、夫が仕事を手伝ってくれることもありましたが、基本的には私(Aさん)が1人で養蚕の仕事をしていました。
 私は、おばあさんに養蚕のことを全て教えてもらいました。おばあさんは本当に蚕が好きで、『お蚕さん』と、さん付けで蚕を呼んで、子どもや孫を育てるようにかわいがっていました。私たちが昼間の疲れで寝ている夜中でも、座敷の方から『ゴソゴソ』と音が聞こえてくるので、起き上がってのぞいてみると、1人で蚕に桑の葉を与えていたことを憶えています。そのためでしょうか、おばあさんが育てた蚕が作った繭は立派で、公民館に繭を集めたときに、皆さんに褒められていたことを憶えています。
 蚕を育てる時期は、5月初めころからの春蚕、お盆のころからの初秋蚕、10月からの晩秋蚕と、年に3回あり、1回の期間が1か月くらいでした。子どもの運動会が、ちょうど晩秋蚕の時期と重なっていて見に行くことができず、残念に思っていたことを憶えています。養蚕の時期と養蚕をやっていない時期との生活のリズムは変わらなかったので、養蚕の仕事が減る分だけ楽になっていました。その当時、普段から6時くらいには起きるという生活リズムだったと思います。蚕を育てる時期には、前の日に摘んだ桑を与えてから桑を摘みに行っていました。蚕の時期が済むと、桑畑に生えた雑草を抜いたり、肥料をやったりしました。
 この辺りは晩秋蚕のころには寒くなってくるので、火鉢やストーブで部屋を暖めながら蚕を育てていました。さらに遅い時期の晩々秋というのもあったのですが、蚕を育てるには寒くなり過ぎていて適切な時期ではなかったので、私の家ではやりませんでした。」

 ウ 共同稚蚕飼育所

 「蚕は、清満にあった共同稚蚕飼育所で2齢まで育てられ、そこで育てられた蚕(稚蚕)は、清満、御槇、畑地の3地区に配られていたので、御槇の養蚕家は御内橋の近くにあった飼育所に受け取りに行っていました(写真3-2-1参照)。稚蚕は、事前に桑畑の広さなどに応じて蚕の卵をg単位で注文し、そこから孵(かえ)った分を受け取ります。私(Aさん)は5gで少ない方でしたが、多い人は15gほど注文していました。
 共同稚蚕飼育所では、3地区から3人ずつくらいが交代で当番となり、泊まり込みで蚕を育てており、年齢が上の方が中心になってやっていました。その中でも役割分担が交代であって、食事の準備をする人以外は、桑の葉を摘みに行っていました。共同稚蚕飼育所の近くの桑畑には歩いて行きましたが、遠くの桑畑には軽自動車に乗せてもらって行き、桑の葉を持ち帰るには、桑籠を載せるためのトラックが別に必要でした。運転免許の所有率が高い時代ではなかったのですが、私が当番のときに、免許を取ったばかりの若い女性が運転してくれたことを憶えています。
 摘んできた桑の葉は、共同稚蚕飼育所で桑籠から出して、床の上に広げておく必要がありました。桑籠に入れたままにしておくと、私たちは『燃える。』と言っていましたが、熱くなって萎(しお)れてしまうのです。桑籠はとても大きくて、底の方にある桑の葉を取り出すときは、籠の中に頭を突っ込まなければならないほどでした(写真3-2-2参照)。桑籠が大きいので、私には背負うことも大変なことでしたが、慣れた人は担い棒を使って、二つの桑籠を上手に運んでいたことを憶えています。
 共同稚蚕飼育所には普及員が常駐していて、そこから養蚕家を1軒ずつ見回りに来てくれていました。見回りにはバイクで来られていて、自動車では来られていなかったと思います。私が養蚕を始めたころ、普及員は3人いたと思いますが、その後2人になって、私が養蚕をやめるころには、岩松が地元の方の1人になっていました。普及員の方も何年かごとに転勤があったようで、地元の方以外は、こちらに赴任している間は清満に家を借りて住んでいたようです。」

 エ 丸籠

 「稚蚕を受け取って、自宅で蚕を育てるときには、丸籠を使っていました。丸籠は、『丸盆』とも言うように、円形で直径85cm、深さ3cmくらいの大きさの入れ物で、竹で編まれていました(写真3-2-3参照)。私(Aさん)は5g分の稚蚕を受け取っていましたが、それでも丸籠が40枚は必要でした。自宅では、丸籠を二つの蚕棚に入れていました。蚕棚は幅が1間(約2m)で10段あり、1段に丸籠を2枚入れていました。
 養蚕をやめてから、いろいろな道具を人に譲り渡すなどして処分しましたが、丸籠と蚕棚はまだ家に残っています。丸籠は本来の使い方ではありませんが、今でも野菜や梅干しを干すときに使うなど重宝していて、何十年も使っています。蚕棚は、段数を減らして普通の棚として使っています。」

 オ 桑の葉を与える

 「蚕には朝、昼、晩の3回、桑の葉を与えました。おばあさんは、夜中に桑の葉を与える『差し桑』をしていましたが、私(Aさん)はしませんでした。蚕の時期には、朝6時ころに起きると、まず、前の日に摘んでいた桑の葉を与えました。朝の分を与えたら、桑畑へ葉を摘みに行きますが、夫が手伝ってくれることもありました。そのとき、昼の分も間に合うくらいたくさんの葉を摘むことができると、昼の仕事が楽になったことを憶えています。その後、昼の分を与えたら、また摘みに行って、戻って来たら晩の分を与えてと、一日中同じことの繰り返しで大変でした。蚕は3齢、4齢と大きくなるにつれて食べる葉の量も多くなっていきますが、一番食べるころには、食べるときに『ザー』という大きな音がして、まるで雨が降っているようでした。桑の葉を十分に与えないと蚕は太らず、繭が十分な大きさにならないので、しっかりと与える必要がありました。
 桑の葉を摘むとき、春蚕の時期は葉が柔らかいので、手でどんどんもぎ取れましたが、初秋蚕や晩秋蚕の時期はそうはいきませんでした。手ではもぎ取れないので、桑爪を人差し指に付けて1枚ずつ丁寧に摘む必要がありました。作業に慣れた人は、両手の人差し指に桑爪を付けて、どんどん摘み取ることができますが、養蚕の仕事を始めたころの私は、片手で桑の木を持って力を入れなければ摘み取ることができず、時間がかかっていたことを憶えています。それでも、徐々に慣れてきて、そのうちに両手を使って作業ができるようになりました。
 桑の木は、春蚕の時期が終わったら、葉が残っていても地面から5cmくらいの部分で切断します。その後、初秋蚕の時期に間に合うように、肥料を施して桑の木を育てていました。桑の木は、切断しても新しく枝が伸びてきて生長していきます。枝が伸びると、初秋蚕の時期に良い葉を採るために枝先の葉は枝ごと切り落とすため、あまり食べさせませんでした。枝先を切り落としておくと、初秋蚕から晩秋蚕の時期まで良い桑の葉が採れていたことを憶えています。
 蚕は糞をするので、そのままにしておくと丸籠に糞や食べかすが溜(た)まってしまいます。そのため、丸籠をきれいなものに交換する必要がありますが、これを『お尻替え』と言います。お尻替えは、1日1回は行う必要があり、昼の桑の葉を与えるときに行っていました。お尻替えのときには、丸籠と同じ大きさの、葦(あし)で編んである網を使います。その網の上に桑の葉を載せて丸籠の上に敷くと、その途端に蚕が桑の葉を食べるために、下の丸籠から上がって来ていました。」

 カ つらい仕事

 「養蚕を始めたころにつらかったのは、お尻替えと雨の日に桑の葉を摘むことでした。お尻替えは糞を扱うことになるので、初めのころは本当に嫌だったことを私(Aさん)は憶えています。養蚕を始めたばかりで何も分からずただでさえ大変なときに、雨が降る中、桑畑で葉を摘まなければならないときは、本当につらくて涙が出たこともありました。
 お尻替えの仕事には徐々に慣れていきましたが、雨の日や台風の日に桑の葉を摘むのは本当に大変でした。雨に濡(ぬ)れたままの葉は、そのままでは蚕に与えられないので、干して乾かす必要があり、春蚕の時期には枝ごと切ったものをロープに掛けて乾かしていました。完全には乾きませんでしたが、そのようにして乾かした桑の葉を蚕に与えていました。なるべく桑の葉を濡らさないように、天気には気を付けていました。テレビが普及していないころは、天気予報など分からないので、雲の様子を見て、雨が降りそうなときには桑の葉をたくさん摘んでいたことを憶えています。この辺りでテレビが普及し始めたのは、東京オリンピック(昭和39年〔1964年〕)のころからでした。」

 キ 上がり蚕

 「3齢、4齢と成長してきた蚕が、最後の眠(みん)から起きて脱皮をするとかなりの大きさになります。早く起きて桑の葉を食べ込んだ蚕ほど大きくなり、そういう蚕ほど『上がり』が早くなりました。脱皮をしてから数日すると、桑の葉を食べる量が減ってきて『上がり蚕(こ)』になり始めます。このころの蚕を『走り蚕(こ)』と呼んでいました。走り蚕になると、上がり蚕になった蚕をすぐ見付けるためにもろ蓋という木箱に入れます。もろ蓋の中で走り蚕は少し小さくなり、あめ色に透き通ってきますが、こうなると上がり蚕で、それを手で拾い上げ、1か所に偏らないように注意しながら、上からばらばらと蔟(まぶし)に落としていきました。
 私(Aさん)が養蚕をはじめたころの蔟は、藁(わら)で作られていました。蔟に落とされた蚕は、繭になるために自分で好きな場所に入っていきますが、これを『巣取り』と呼んでいました。このとき、蚕はまだ糞や尿をするので、下に丸籠を敷いていました。蚕を藁蔟にたくさん移しすぎると、2匹が同じ場所で一つの繭を作り、二つ繭(2匹の蚕が入っている繭)になってしまうので、注意が必要だったことを憶えています。巣取りを終えて、蚕が落ち着いた藁蔟は、両手で持ち上げて蚕棚に移動しました。巣取りをした蚕は、口から薄い毛羽を吐き出し、それから糸を吐いていき、1週間くらいで繭ができたと思います。
 蔟はやがて、回転蔟に代わりました。回転蔟に上から蚕をばらばらと落としていっても、蚕の重みで蔟が回転するので、蚕は満遍なく巣取りをしていきました。巣取りができず、うろうろしている蚕もいましたが、そういう蚕は拾い上げて別の蔟に移すと、そこで巣取りをしていたことを憶えています。残った蚕の数が回転蔟に移すには少ない状況になると、藁蔟を使うこともありました。回転蔟で作った繭はきれいでした。藁蔟は蚕棚に置くので、蚕の尿が掛かるなどして汚れてしまうことがあったのですが、回転蔟は吊(つ)るしているのでそのようなことがなかったのです。当初は回転蔟を家の中に吊るしていましたが、蚕室を建ててからはそちらに吊るすようになりました。回転蔟は10個繋(つな)げた状態で、2段にして吊るしていたことを憶えています。」

 ク 繭の出荷

 「繭ができると、それを手で押して、丸籠の上に取り出していきました。一度に押し抜くことができる便利な道具があったようにも思いますが、はっきりとは憶えていません。取り出した繭は、まとめて手動の毛羽取り機で毛羽を取っていきました。そのときに、汚れた繭はないか、二つ繭はないかなどと、ある程度選別をしていたことを私(Aさん)は憶えています。
 できた繭は、現在の郵便局付近にあった公民館に皆さんが持ち寄り、順番に選別されていきました(写真3-2-4参照)。選別台の上で、汚れのある繭や二つ繭、持つと潰れるような薄い繭を除いていきます。繭を選別し終えると、皆さんが持ち寄ったものを一緒にまとめて出荷していました。出荷先は、八幡浜(やわたはま)市にあった酒六で、公民館まで取りに来ていたことを憶えています。
 代金は、繭を出荷した当日に現金で支払われるのではなく、後日、価格が決まってから農協の口座に振り込まれていました。代金が振り込まれる際には、あらかじめ養蚕組合の積み立て口座に1,000円ほど引き落とされていました。そのお金は1年間積み立てられ、それを資金に組合員の皆さんで九州などへ旅行に行ったことを憶えています。私は毎年、この旅行をとても楽しみにしていました。養蚕は女性中心の仕事だったので、この旅行は女性だけで行っていました。」

 ケ 蚕室で育てる

 「養蚕を続けていると、普及員の指導を受け、なるべく手間を省くことができるようにやり方も変わっていきました。時代の流れもあって、農村部で過疎化などが進んだことも影響していたのかもしれません。家の中で蚕を繭になるまで育てていましたが、養蚕を始めて10年ほど経(た)つと、家の庭や使っていない畑にビニールシートを張ったテントを建て、そこで4齢以降の大きな蚕を育てるようになりました。御内橋近くの飼育所でも、隣にあった畑にテントを建てたことを憶えています。さらにしばらくすると、家の前に鉄骨で蚕室を建てて、そこで育てるようになりました(写真3-2-5参照)。蚕室を建てたのは、私(Aさん)を含めて5軒くらいだったと思います。蚕室は現在、倉庫として利用していて、広さは私の家では3×5間(1間は約2m)でしたが、4×5間の広さで建てた人もいて、育てる蚕の量で違っていました。
 テントの広さは、蚕室よりも狭いものでしたが、真ん中に通路を通して両側に藁を敷き、その上で育てていました。蚕室になってからは、真ん中の通路の両側に藁を敷き、さらにその上に、奥行き60cmくらいの棚を置いて、そこで育てるようになりました。棚は2段あり、棚の下も含めると最大で3段で育てることができ、たくさん育てる方は3段全てを使っていましたが、私は棚の下と1段目の2段で育てていました。蚕室は通路を広く取ることができましたが、テントは通路が狭かったことを憶えています。家で育てているとき、寒くなる晩秋蚕の時期には、室内を火鉢で暖めていましたが、テントや蚕室では火力の強いストーブで暖めていました。前面だけが暖かくなる四角いストーブでは室内全体が暖まらないので、満遍なく暖めることができる高さ60cmくらいの丸型のストーブを使っていました。丸型のストーブは養蚕用ではありませんでしたが、十分に暖かくなったことを憶えています。」

 コ 養蚕を振り返って

 「私(Aさん)は、昭和57年(1982年)ころまで、養蚕の仕事をおよそ30年間続けました。私が養蚕をやめたとき、ほかの家でもその多くがやめていました。4、5軒ほどの家がまだ続けていましたが、最後まで養蚕を続けていた家も平成の初めころにはやめたようです。中国産の安価な生糸の輸入量が増えて、徐々に繭の価格が下落していったことが大きく影響しました。
 養蚕をしていたころのことを思い出すと、とても懐かしいことばかりです。今、改めて養蚕の仕事を行うとなると大変だと思ってしまいますが、当時はそれが当たり前の生活でした。それでも、養蚕を始めた当初はつらくて、結婚するまで養蚕などしたことがなかったので、『なぜ嫁いで来たのだろう』と思ったくらいでした。今では、アオムシなど、ほかの虫は嫌いですが、蚕はかわいいとさえ思います。もし、誰かに『踏め。』と言われても、絶対に踏むことはできません。」

(2)米を作る

 ア 養蚕と米作り

 「私(Aさん)の家では、養蚕とともに米作りも行っていました。この辺りでは養蚕だけを行う家はなく、米作りだけか、米作りと養蚕の両方をしているか、という状況で、それらとともに畑で野菜を作っている人もいました。
 私が嫁いで来たころ、家に田んぼはありましたが、おばあさんは年を取っていて田んぼでの農作業に従事することが難しいこともあって、親戚の方に米作りをお願いしていたようで、家の前の田んぼでは私と夫が、ほかの田んぼでは親戚の方が米を作っていました。作った米は全て自分の家で食べるためのもので、お米が余ったときだけは売りに出すことがありました。この辺りでは、ほとんどの家が自分の家で食べるために米作りをしており、たくさん田んぼを持っている家だけが米を売っていたことを憶えています。」

 イ 田植えと稲刈り

 「当時、この辺りでは田植えが6月に行われていて、養蚕をしていたときは、春蚕が終わってからだったので、春蚕と田植えが重なったことはありません。そして、10月の運動会のころに晩秋蚕が上がると稲刈りが行われていました。稲の種類によっては、11月ころに稲刈りを行ったこともあったと思います。現在、この辺りの米作りも時期が早くなってきて、4月には田んぼに水を入れ、5月の連休のころには田植えを行い、8月の下旬から9月初旬に稲刈りが行われています。当時、田植えや稲刈りは手作業で、田植えのときは、田んぼに糸を張り、目印の玉に合わせて真っ直(す)ぐに端まで植えていたことを私(Aさん)は憶えています。田植えが機械化されてからは、端まで植えなくなりました。以前は水を張った田んぼに籾(もみ)を蒔(ま)き、自分たちで苗を作っていましたが、現在では農協に注文すると5cmくらいに育った苗が届けられるようになっています。」

 ウ 牛を飼う

 「昭和30年代くらいまでは、田起こしや代かきは牛を使って行っていて、当時はどの家でも牛が飼われていたことを憶えています。牛の世話は主に男性の仕事で、私(Aさん)の家でも夫が世話をしていました。夏には刈り取った草を、冬には藁を餌にしていたことを憶えていますが、私は牛の餌のために草を刈ったことはほとんどありませんでした。また、博労さんが1年に1回、田植えが終わるころに牛を買い取りに来るので、育てた牛を売って、代わりに子牛を買っていました。成牛の方が子牛よりも値段が高かったので、子牛を買って育て、翌年以降の農作業に使い、田植えが終わったころに売る、ということを繰り返していました。牛を飼っていたのは三八豪雪のころまでで、その後、耕耘(うん)機などの農業機械の普及とともに姿を消していったと思います。
 三八豪雪のときには、この辺りは標高が高いこともあって、清満と比べると雪がよく降ったことを憶えています。ただし、積もった雪はそこまで深くはなく、道も歩くことができたくらいで、大野ヶ原などの玄関が埋もれるほどの降雪量と比べると、それほどでもなかったと思います。それでも最近と比べると、昔は雪がよく降っていたと思います。」

 エ 男性と女性の仕事

 「機械を使う作業は男性の仕事で、私(Aさん)の夫は動散(動力散布器)で農薬や除草剤を撒(ま)いていました。現在では消毒はほとんど行われなくなり、除草剤は袋入りタイプになっています。現在使われている袋入りの除草剤は、田植えが済んだ後に畔(あぜ)から田んぼへ投げ込むだけで袋が溶けて除草剤が出てくるようになっています。除草剤は田んぼの広さに応じて、10aごとの単位で販売されており、これも必要な量を農協に注文すると配達してくれます。
 女性の仕事は、畔の草を鎌で刈ったり、下の田んぼとの段差の石垣に生えている草を抜いたりすることでした。田んぼを所有している家ではどこも同じで、男性が畔の草を刈ることはまずなかったと思います。草刈りと段差の草抜きは、田植えの前と稲刈りの前の年2回は行っていて、畔の草を刈り、石垣の草を抜いてきれいになると、気持ちが良かったことを憶えています。この作業は誰もが行っていることでしたし、農繁期前の仕事だったので、特に大変だとは思いませんでした。現在は、石垣がなくなって草を抜く必要がなく、畔の草刈りは男性が草刈り機で行っています。」

 オ 現在の米作り

 「現在、農作業は何でも機械でできるようになり、楽になったと思います。しかも、機械を使うのは男性なので、農作業に関して女性は何もしなくても良いくらいです。私(Aさん)の家では現在も自分たちで食べる米を1反3畝(約13a)の田んぼで作っていますが、私の甥(おい)が農作業の全てを行ってくれています。農業機械は私の家の倉庫にあるのでそれを使ってもらっていますし、4月には田んぼに水を張るなど、水の管理も全て任せていて、米ができると、食べる米を物置に入れるところまでやってくれています。肥料なども農協まで買いに行く必要がなくなり、注文すると配達してくれ、倉庫へ運び入れるところまでやってくれます。」

写真3-2-1 飼育所があった場所

写真3-2-1 飼育所があった場所

令和元年11月撮影

写真3-2-2 桑籠

写真3-2-2 桑籠

令和元年11月撮影

写真3-2-3 丸籠

写真3-2-3 丸籠

令和元年11月撮影

写真3-2-4 郵便局

写真3-2-4 郵便局

令和元年11月撮影

写真3-2-5 かつての蚕室

写真3-2-5 かつての蚕室

令和元年11月撮影