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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 子どものころの記憶

(1)小学校の思い出

 「父は御槇の生まれですが、私(Aさん)は九州で生まれました。小学校4年生のとき、戦争が激しくなってきたこともあり、父が祖父から『御槇に帰って来なさい。』と言われ、御槇に移り住むことになり、私は御槙小学校に転入しました。
 当時の御槙小学校は、一学年1クラスでしたが、現在よりも子どもの数が多くいました。私たちの学年は30人いないくらいでしたが、人数が多い学年もあったと思います。学校へは、分団別に並んで登校していたことを憶えています(お話に出てくる「小学校」は「国民学校」のこと)。
 放課後は校庭でドッジボールやおはじき、陣取りなどをして遊んでいました。夏休みには、小学校裏の山を越えて槇川の川まで泳ぎに行っていたことを憶えています。槇川の川は御内川よりも深くて泳ぎやすく、学校の水泳の授業もそこで行われていました。男の子たちの中には、竹に木綿の糸を取り付けて釣りを楽しんでいた人もいたと思います。槇川から戻ってきた後、友達の家に行って、その家のお年寄りが読み手となって百人一首をしたことが思い出されます。
 また、私は源池公園にも泳ぎに行ったことを憶えています。現在、普段は池に水がほとんどありませんが、当時は大きくて深い池で、傍(そば)には『栄松』という大きくてきれいなマツの木がありました。男の子たちが学校帰りや家に帰った後によく遊んでいて、筏(いかだ)を作って浮かべたり、魚がたくさんいたりしたことを憶えています。」

(2)桑畑の思い出

 「父は専業農家でしたが、米作りのみで養蚕は行っていなかったので、子どものころの私(Aさん)は蚕を知りませんでした。しかし、以前は家の前に桑畑がたくさんあり、当時は学校から帰って、熟れた桑の実を採って食べていたことを憶えています。今振り返ると、本当においしかったかどうか分かりませんが、当時はとてもおいしいと感じていました。また、ポケットに入れた桑の実が潰れて、ポケットの辺りが紫色になったことも思い出として残っています。当時あった桑畑の広さから考えると、この辺りで養蚕を行っていた方は、後に私が養蚕を始めたころよりも多くいたのではないかと思います。
 桑畑に関してもう一つ思い出があります。小学校5年生か6年生のころ、夏休み中に桑の木の皮を剝いで乾燥させて束にし、夏休み明けに学校へ持って行った記憶があります。当時、私の家には桑畑がなかったので、皮を取るための桑の木は、桑畑を持つ近所の方にもらいに行きました。学校では子どもたちから集めた皮の束を、どこかへ送ったと聞いています。これを何に使ったのかまでは聞いていませんが、当時は戦争中だったので、軍事用品などの必要な物資に使ったのではないかと思います。」


<参考引用文献>
①津島町『津島町誌』 1975

<参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』 1983
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』 1986
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986
・愛媛県『愛媛県史 近代 上』 1986
・愛媛県『愛媛県史 近代 下』 1988
・西予市蚕糸業振興協議会『蚕糸マニュアル』 2017