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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)真念の支援者たち

 真念は、『道指南』の後書きに、発刊の願主として「仝所(大坂西浜町)寺嶋 宥弁真念房」と、また『功徳記』の後書きには『大坂寺嶋頭陁真念 宥弁 真念』と書いている。真念は、大坂の寺嶋に住み、『功徳記』の後書きで自ら記すように「某もとより人により人にはむ抖擻(とそう)の身」であった。これを受けた村上護氏は、「何事かをしようとすれば自分の資力ではなく、いわゆる後援者に頼るのが常であった((65))」と述べている。さらに、真野俊和氏は『道指南』の後書きを取り上げ、「梓工傭銀喜捨、大坂西浜町野口氏木屋半右衛門、本願主仝所寺嶋宥弁真念房」とあるごとく、『道指南』は真念を本願主として木屋半右衛門の助縁により現実のものとなったと述べている。さらに『功徳記』の刊行に当たっては、助縁者はさらに広範に求められているとして、『功徳記』上・下巻の末尾につけられた「刊行助縁者緇素(しそ)名簿」についてふれ、そこに記された上巻15名、下巻10名の男女の名が連ねられていることを指摘するとともに、25名中17名までが女性の助縁者であることに注目している((66))。
 この女性たちは「大扱下博労木屋市良衛門妻」、「同村与三右衛門同妻」、「与州宇和島袋町法華津屋甚兵衛母性貞」のように、単独又は夫婦の支援者として記されている。妻のみが記されているものが多い(11人)が、その夫もまた支援者と考えてよいと思われる。この『功徳記』に記された支援者たちとその在所は、大坂8、淡路7、阿波4、土佐3、伊予2、出羽1であり讃岐の人はいない。
 ところが讃岐の支援者については、白井加寿志氏が『香川県史』の中で、『霊場記』の出版援助者として、巻一の10人の中に塩飽牛島長喜屋伝助など5人、巻二の14人の中に1人、巻五の15人中の大坂寺嶋塩飽屋小兵衛など7人(大坂在住)を紹介して、大坂寺嶋に住んだ、遍路確立の人ともいうべき真念が塩飽の人など讃岐とかかわって活躍したと述べている((67))。
 また『道指南』の中に四国遍路の途次、「宿かす」人について23人の名前と、名前は記されていないが、「太郎左衛門其外やどかすなり」「皆々志有りやどかす」などの表記がある。これらは真念20余度の遍路行を支援した人たちといえる。さらに標石設置についても施主となってくれた人たちがいる。前出の『四国の遍路石と道守り』に示されている標石26基には、一人で2基の施主になっている者もあって、実質の施主として、20人の名が刻されている。それぞれの在所は、讃岐7、大坂4、江戸・阿波・土佐・伊予が各2、京都1の20人である。こうしてみると、真念の支援者は彼の住んでいた大坂を中心に四国一円、特に讃岐に多く、江戸・京都・出羽の者さえいることになる。このころ、既に相当の人たちの四国遍路が行われ、それも全国に広がりつつあったことも推測される。近藤喜博氏は『霊場記』の募縁記の中に出羽国鶴岡の佐藤氏と庄内の糸尾惣七の名があることに注目して「四国の霊場信仰が出羽方面にも波及していたことを示しているのであろう((68))」と述べている。