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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)真念の作善行

 ア 遍路関係書の出版

 (ア)『四国邊路道指南』の発刊

 貞享4年(1687年)、真念によって書かれた『四国邊路道指南(⑥)』(本節では、以下『道指南』と略す)が発刊された。この本は縦15cmほどの小型本であるが(⑦)、真念の後書きによると、大師850年忌の春、「うゐ参の翁、にしひがししらぬ女わらべにたよりせむ(⑧)」として書かれた四国霊場の案内記である。現在の札所の一番から、順次、八十八ヶ寺の立つ場所、本堂の向き、所在地、本尊、御詠歌などを簡潔に記し、次の札所までの距離や通過する村々、その道順、道程或いは標石、善根宿などの有無、さらには巡拝の作法や持ち物に至るまで、四国遍路の旅をする者にとって必要な事を細かく記している。そのほか旧跡やその由来などにも触れている。
 「真念に先立つ、寛永15年(1638年)の僧賢明による『空性法親王四国霊場御巡行記』(本節では、以下『御巡行記』と略す)、承応2年(1653年)の澄禅による『四国遍路日記』、貞享2年(1685年)の大淀三千風による『四国邊路海道記』など数種の四国遍路日記を除けば、遍路する者のための案内を意識して、霊場八十八ヶ所の全貌を、まとまった形で一般庶民の前に示したのは、この『道指南』が初めてであるといわれる。(⑨)」これについて、近藤喜博氏は、「『聞て書、見てしる』した案内書として、緩急よろしきを得て整然、江戸期はもとより、明治中期に及ぶまでも、四国遍路に関する限り、これ以上の遍路案内は出ることがなかった。(⑩)」と記し、「貞享四年十一月初刊から、ほぼ一ヶ年にして三版を重ねたことになる。発行部数にもよるといえ、一年足らずして三版、当時として何という売れ方であろうか。(⑪)」と述べている。その意味で四国遍路を志す者にとってはすこぶる重宝で好評を博した書と思われる。
 以後案内書としては、元禄10年(1697年)の寂本による『四国徧礼(へんろ)手鑑(てかがみ)』や洪卓の『四国偏礼道指南増補大成』(本説では、以下『増補大成』と略す)が開版されているという(⑫)。この『増補大成』については、明和4年版(再版)、文化4年版(再版)、文化11年版、同12年版、天保7年版、天保7年別版があるとされ(⑬)、これらは『道指南』の縮小版であり、改訂版であるという(⑭)。それほど四国遍路する者に、必要とされたということである。明治に入って、中務茂兵衛が『四国霊場略縁起道中記大成』を書いているが、それもこの『道指南』と同じ形式のもので真念に倣ったものと思われる。なお、この『道指南』において、初めて記され、しかも今日までずっと継承されているものがある。それは一番霊山寺から八十八番大窪寺までの、八十八ヶ所の霊場番号と、各霊場の御詠歌である。このことについて白井加寿志氏は次のように述べている。

   真念は、思いきって阿波の霊山寺を一番とし、札所の数も、流行していた「八十八」の言葉通りに限定してしまい、それ
  ぞれに番号を付して順序を確定し、自分(自分たちかもしれない)で奉唱歌も作って、四国逞路八十八所の霊場を完成した
  のである。
   八十八ヶ所というものが最終的に確定したのは貞享四年、真念によって、つまり『四国邊路道指南』によってであると言
  いたいのである(⑮)。

 こうしてみると、真念が『道指南』を刊行したことは、四国遍路を一般庶民のものとして盛行させる大きな要因となったものであり、これは遍路発展の上で大きな業績といわねばならない。

 (イ)『四国徧礼霊場記』への資料提供

 元禄2年(1689年)、高野山の学僧寂本が『四国徧礼霊場記(⑯)』(本節では、以下『霊場記』と略す)を著した。その内容は、実際に、四国遍路を二十余度も行ったという真念と彼と共に遍路した洪卓とがそれぞれ集めた資料を元にしたものであった。そして『道指南』が巡拝する遍路に役立つ実際的な案内記だったのに対し、『霊場記』は八十八の霊場について、景観図を添えて、その由来や現状を詳述することを目的としたものであった(⑰)。このことについて、寂本は『霊場記』叙の中で次のように述べている。(原文は漢文なので、ここでは村上護氏の『原本現代訳四国徧礼霊場記(⑱)』から引用する。なお、本節の『霊場記』の現代語訳は、村上氏のこの本によることにする。)

   ここに真念という人がいる。行脚の修行僧で、四国遍路すること十数回、だから地理や人物、寺院の事情を知りつくして
  いる。以前に『四国徧路(ママ)道指南(みちしるべ)』という本を出し、遍路する人のための案内とした。けれどもそのと
  き、寺々の霊験までは書ききれなかったという。これは彼の本意ではなく、改めて別のところで書くつもりがあった。ため
  に寺々の縁起を探索し、器物や宝物に至るまで記録して袋に入れて持ち歩き、まとめて遺すつもりであった。
   ある日、真念は私の庵までやってきて遍路記の編集をやってくれという。(中略)収集の資料を見るとあたかも現地に
  いったような思いになってしまうのだ。これは大変ありがたいことである。そういう事情で、私は怠惰に鞭打って、それら
  の資料をもとに編集をはじめたわけだ。けれどもまだ詳細がわからないところもある。そんな時真念はいつでも二、三の同
  志と四国の寺々に行き、現地の状態を図にして示してくれる。それも短期間に現地まで往復する若い人だ(⑲)。

 これによると修行僧真念は、『道指南』を出したときから、既に、道案内記だけにとどまらず、寺々の縁起を探索し、器物・宝物に至るまで調査し、寺々の霊験まで記すことで、弘法大師の恩徳を庶民にまで知らしめることを意図していたと思われる。さらに弘法大師ゆかりの霊場八十八ヶ所の霊験を記すにあたっては、頭陀抖擻の自分ごときではなく、当時のエリート学僧の一人であり、貞享2年(1685年)に既に『弘法大師伝止沸編』も著している、大師顕彰の第一人者(⑳)である寂本に依頼することで、四国霊場を、より権威あるものとして、庶民の前に示そうとしたのではあるまいか。
 その時真念は、自分が収集した四国遍路についての一切の資料を差し出すとともに、それで足りなければ改めて四国の現地まで取材に行っている。こうした真念らの熱意に動かされ、寂本は筆を執った。さらに言えば、寂本が『四国徧礼功徳記』の跋で記すように「真念が大師の恩徳を深く謝し奉らんとする心ざしの浅からぬ」姿があったからこそ、寂本の心を揺さぶり、『霊場記』も出来上がったというべきであろう。
 なお『霊場記』に収められた景観図はすべて寂本が描いたものである。しかし彼は一度も四国霊場を訪れてはいない。それを手助けしたのは、真念に協力して霊場を訪れた高野山奥の院護摩堂に寓居していた本樹軒洪卓である。そのことは『霊場記』巻七の巻末に、「わたしは真念と一緒に四国を巡拝し、寺々について間に合わせの絵図を作り、帰ってきて寂本阿闍梨に説明した。寂本阿闍梨はうなずきながら、それらを参考に絵を描く。わたしは傍にいてそれを検証するが、実に再遊したような心持ちであった(原文は漢文)。(㉑)」と洪卓自身が寄せた文によって知ることができる。

 (ウ)「四国徧礼功徳記」の発刊

 真念は元禄3年(1690年)『四国徧礼功徳記』(本節では、以下『功徳記』と略す)を著した。これは前2書とは内容を異にし、四国遍路の信仰そのものについて書かれたものである(㉒)。つまり真念が二十余度といわれる四国遍路の中で収集した遍路功徳譚(たん)27編であり、四国遍路することによって、弘法大師の恩徳を実感した体験者として、巡礼することの功徳を書かずにいられなかったものを、真念自身がまとめたものである。その内容は、学僧寂本からみれば「庸俗の物がたりにて法教の義談にあらず、却て人のあざけりをまねくものならし」と『功徳記』叙に記すように、学問的根拠のない伝説、説話の類と思えたのであろうが、真念にとっては四国遍路を実体験する中で、人々から直接伝え聞いた、庶民にとっての弘法大師尊崇への思いであり、捨てがたい四国遍路霊験譚であった。それだけにこうした物語を発刊することで、庶民の信をおこすたよりとなると確信したのであろう(㉓)。
 『霊場記』を出すにあたっても、寂本と真念との間には、考え方のずれがあった。真念の集めた資料に対して、寂本は学僧として、「よしなきこと」や「霊威といへども鄙(ひ)俗にわたる」ことは載せなかったり、遍路の功徳、奇瑞(きずい)も入れるべきところなくて記さなかったものもあるという(㉔)。そこには学問僧としての寂本の厳とした考え方と弘法大師を尊崇し、行動的な実践的体験者としての感動の思いを記そうとする真念との違いもあろう。いずれにせよ、真念は自ら収集した功徳譚を捨て去ることはできなかった。学問の真実はともかくとして、それが伝承の物語としても、「大師の神化を諸人にしらしめまくして」と『功徳記』跋に記すように、庶民の信じる弘法大師の恩徳、四国遍路することの功徳を多くの人に知ってもらおうとしたものであろう。そして真野俊和氏の言うように「彼の宗教は雑然とした、どちらかと言えば完成度の低い要素を多分に含んでいたにちがいない。それにもかかわらず、彼の強い信仰のもたらした結果は、今もなお日本の民衆文化の中に連綿と生き続けている(㉕)」のである。

 イ 遍路屋の開設

 (ア)宿なく艱難(かんなん)する人のために

 真念は「遍礼屋」としての「真念庵」を設置したといわれる。これについて、『功徳記』跋辞で、中宜は「四国のうちにて遍礼人宿なく艱難せる所あり、真念これをうれへ、遍礼屋を立て、其の窮労をやすめしむ」と記している。真念が遍路人の難儀を憂えて遍路屋を設置したというのである。その遍路屋について、新城常三氏は、澄禅の『遍路日記』に記された6か所の遍路屋を指摘している(㉖)が、全体として未だその数は少なく、また後世の木賃宿も当時は余り見られないようであると当時の宿泊施設の不備を指摘している(㉗)。そして『功徳記』跋辞の上述の部分を取り上げたあと、「彼は各地に遍礼屋=遍路屋を設けたもののようであるが、上記の市野瀬真念庵以外跡づけることができない。(㉘)」と記している。
 また真念は、『道指南』の中で、「○かうの村(中略)弥三右衛門遍路をいたはりやどかす」「○たい村、皆々志有、やどかす」「○たかゐ村、九郎兵衛・吉左衛門其のほかもやどかす」「○くほ河村、この町しもゝと七郎兵衛やどをかし、善根なす人あり」のように、善根宿とも思われる「宿かす」人を、札所間でいえば15か所、22か村にわたって書き記しており、近藤喜博氏は『四国遍路研究』において、21か村(四十番札所~四十一番札所の間にある「○下村、こんや庄兵衛宿かす」を除く)分を抽出している(㉙)。これらは、遍路にとって、野宿の不安を取り除くための、頼りになる宿の記載であったと思われる。
 近藤喜博氏は、「貞享四年版改刻版『道指南』(省略本)の凡例」に、「此本の中に宿施す衆、書付たる所少々これ有り、是は某数度偏礼の時、曰くれ宿なき時ハ、難儀に及びしにより、心さしの人をすゝめ、諸偏礼にもかくあらんと書付候処に、人により定まりたる宿のやうに、心得候衆も有べけれとも、宿にも用事差合の節は、遍礼の人、料簡可有事也(㉚)」と貞享4年版にはない事理(ことわり)書きが追加されていることを指摘し、こういう事理書きが必要になったのは、遍路衆の増加のためもあろうと、推測している(㉛)が、いずれにしても、真念の「遍路たちへの夜の宿(やど)りの心遣いを示すもの(㉜)」といえよう。しかし、40~50日を要するといわれる四国遍路にとって、これだけの宿で十分だったはずもない。『道指南』の中には、大師堂、地蔵堂、薬師堂、阿弥陀堂、茶屋等の存在も記している。宿を貸すものとしては、23の大師堂のうち、「○市野瀬村、(中略)此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす」「○西明神村ゆきて坂有、(中略)大師堂、是堂ハ此村の長右衛こんりうしてやどをほどこす」の2か所を記し、13の地蔵堂のうち、「○でうりんじ村、地蔵堂有。(中略)此堂としひさしくはそんに及しに、当村七郎兵衛再興し大師御影こんりうし并やどをほどこす」の1か所が記されている。その他の堂については、宿をかすとの記録はないが、近藤喜博氏は「彼は大師堂の他に、薬師堂・地蔵堂・観音堂などについても案内するが、信心に合せて、まさかの場合の遍路衆の利用も考えていたのであろう。(㉝)」と述べている。なお「○にゐやの町、調物よし、はたご屋も有」と1か所だけだが、はたご屋の存在も記している。

 (イ)真念庵の設置

 真念庵の名が記されたのは、賢明が寛永15年(1638年)に遍路して書いた『御巡行記』が初めてのようである。誰もが真念庵を語る時には、ここから書き始めている。すなわち、「仁井田の五社を再拝し、足摺までの村里を、数も忘れて過ぎぬれば、(中略)真念庵の右左、別れる道の所にあり。足摺山の七不思議、実に不思議なる事ばかり(㉞)」である。その次に見えるのが真念自身が書いた、貞享4年(1687年)の『道指南』に出てくる真念庵である。すなわち、「○市野瀬村、さが浦より是まで八里、此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす。これよりあしずりへ七里。但さゝやまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月(つき)さんへかけるときハ荷物もち行。初遍路ハさゝやまへかへるといひつたふ。右両所の道あないこの庵にてくハしくたづねらるべし。」また三十八番金剛福寺の項では「是より寺山迄十二里。真念庵へもどり行。 ○真念庵 ○成山村 ○おほうめうち村、真念庵より是迄山路、渓川。(㉟)」のように記されている。
 現在も真念庵(写真3-1-1)は土佐清水市市野瀬の、足摺手前7里の打ち戻りの地点にあって、三十八番金剛福寺と三十九番延光寺への分岐点のところにある。
 『下茅の歴史(㊱)』によると、「俗に真念庵といい、本名を地蔵大師堂という。(中略)真念が、お大師さんの遺蹟を訪ねて巡錫中、成川にさしかかったところ、音瀬寺という三十三間堂を模ねたお堂が荒れ放だいになっているので、本尊の地蔵菩薩を市野瀬に移し、弘法大師の像と薬師如来の二体とともに祭り、真念がイオリを結んだ跡(㊲)」と記している。この真念庵について、近藤喜博氏は、「規模の大小はともかく、右の記文(『御巡行記』)による限り、真念庵は寛永十五年(1638年)に設置を見ており、それは『道指南』上木の貞享三年(1686年)よりは四十八年以前にして、ほぼ五十年に近い。この事実から考慮すると、真念の遍路修行は少なくとも寛永年間からと推測される。(㊳)」と述べており、真野俊和氏や村上護氏なども同様のとらえ方をしている(㊴)。ただ宮崎忍勝氏は真念の年齢的なことを考慮して「はたして同一人物であったのか、疑問の残るところである。(㊵)」としている。

 (ウ)真念庵設置時期の疑問

 『御巡行記』にある真念庵は『道指南』を著した真念によって設置されたものであろうか。
 『御巡行記』から『道指南』までは50年の開きがある。その間で、真念庵を取り上げた記録は報告されていないようである。
 さらにまた、寛永15年(1638年)年に真念庵が既に存在したとすれば、真念が何歳ころに建てたのかという問題が生じる。遍路する者のために真念庵を建てたとすれば、建立以前に既に何度か真念自身が四国遍路を経験し、足摺の行き戻りの地にそれが必要だとの判断がなされなければならず、しかも経済的ゆとりがあったとも思えない真念(「真念はもとより頭陀の身なり、麻の衣やうやく肩にして余長なく、一鉢しばしば空しく」『功徳記』践辞)が建立するためには、それを支援する信奉者も必要である。そのためには相当回数の遍路経験と信奉者を得るための名が知られる必要がある。そう考えると、推測の域を出ないが、真念庵設置年齢は、20歳以下とは考えられない。
 ところで貞享5年(1688年)の『霊場記』叙で、寂本は、「茲有真念者。抖擻の桑門也。四国遍礼者十数回」と記し、元禄3年(1690年)の『四国遍礼功徳記』跋辞の中で本峰碧渓比丘中宜は「遍礼せる事二十余度に及べり」と書いている。
 元禄3年のころまでに十数回又は二十余度の遍路を体験したという真念が、それより50年以前の何年間かで、既に多くの信奉者を得るに必要な遍路回数を重ねていたのであろうか。そして、その後の50年間で少しずつ遍路を行い、その後で集中的に遍路関係書を刊行し、200基に余るしるべ石を立てたと言うのであろうか。遍路者たちのためと考えるならば、遍路屋の設置や道しるべ建立、案内記の刊行などは、必要と決意した時から少なくとも連続した行為として継続されてよいように思われる。「真念庵」設置から『道指南』刊行までの50年間の空白は、もし事実なら異常とさえ思える。
 さらに『四国徧礼霊場記』叙の中で、寂本は、「尚又有未詳者、因令念与二三之同志至彼刹々 図其状示余 俛仰(ふぎょう)之間若巳再遊者也。(㊶)」のように記している。まだ詳細がわからないところがあれば、(真念は)いつでも二、三の同志と(四国の)寺々に行き、現地の状態を図示して私に示してくれる。それも短期間に現地まで往復してというのである。もし、寛永15年に真念庵が設置されていたとすれば、少なくとも70歳を越えていると思われる高齢の者にこのようなことが可能であろうか。
 真念庵の設置について、喜代吉榮徳氏は、『四国辺路研究 創刊号』において、「真念法師は高野聖と目されており、山林抖擻の僧であった。元禄五年に亡くなるが、それまでに二十余度の辺路をしたという。しかし、何時頃四国に入ってきたかは不明」としながらも、「天和二年(1682年)に土佐の市ノ瀬(現土佐清水市)に真念庵を建てている(㊷)」と記している。その根拠は、注として記された『土佐国堂記抄録』の「同村地蔵・大師 天和二壬戌年、大坂寺嶋真念、以願建立為四国辺路、足摺山参詣之宿所、号真念庵(㊸)」によるものと思われる。また『下茅の歴史』には真念庵について、文化10年(1813年)に出された武藤致知の『南路志(㊹)』に、「地蔵大師堂 天和の頃大坂平島の真念といふ発心者の建立なり」とあると紹介されている(㊺)。
 ここに取り上げられた2著の信頼性についての確認はしていないが、真念が案内記を発刊した年代、それまでに二十余度の遍路をしたということを考えると、天和のころの設置というのは年代的には十分うなずける。ただそうなると、『御巡行記』の中の真念庵は何だったのか、さらに、前述の2著の記事についての信頼性の確認はどうするのかなどについては、明らかにされなければならない。

 ウ 真念標石

 (ア)道しるべの設置

 真野俊和氏は、真念の大きな業績の一つは「道しるべ」の設置であるとした。すなわち、『道指南』前書きの「巡礼の道すじに迷途おほきゆへに、十方の喜捨をはげまし、標石を埋おくなり。東西左右のしるべ并施主の名字刻入墨せり。年月をへて文字落れバ、遍路の大徳并其わたりの村翁再治所奉仰也。(㊻)」の一文を取り上げ、「『十方の喜捨』を勧進し、その施主の名を刻んで標石を設置したのである。また四国巡拝者や沿道の村人の協力を要請している。ここに真念の勧進聖としての側面が如実にあらわれているとともに、いっぽう勧進に応ずる人びとにとっては、そのことによって善根を積み重ねるという機能を果たしている(㊼)」と述べ、真念の勧進聖としての側面を強調している。
 この真念の設置した標石(写真3-1-2)について、『功徳記』の跋辞には、「四国中紛れ道おほくして、陀邦(他国)の人岐(ちまた)にたたずむ所毎に標石を立てる事二百余石なり」と記されている。遍路標石とは、次の札所の方向や距離などを記し、迷うことなく遍路することができるようにとの意図で建てられる石碑の類である。未知の地を歩く遍路にとって、分かれ道でどちらを選んで良いか迷うのは当然のことで、その遍路人のために真念は標石を二百余基立てたというのである。

 (イ)真念標石の調査報告

 二百余石という、真念の標石については不明な部分が多い。まず昭和52年(1977年)に「伊予の遍路道」、また53年から「四国のみち」を調査した村上節太郎氏が、『愛媛の文化 第22号(㊽)』に「四国遍路の道標」という論考を載せている。それには阿波186(含坂東氏調査17)、伊予659、土佐60、讃岐53の950基に余る道標が報告されているが、真念の標石については言及していない。真念標石は今から300年余も前の建立だけに、長年月の間に、壊れたり、他に転用されたり、道路工事で埋没したりの運命をたどったものも多いという(㊾)。
 近年、道標石の探索や、道標石刻字の解読の研究が四国で進んでいるようである。その結果、真念の建てた道標石も少しずつ明らかになってきている。愛媛県内でいえば、平成11年7月に『真念の標石』(梅村武著)が私家版で出された。20年間、へんろ道を探索した梅村武氏が四国遍路について書き綴っているものの1冊である。同氏は自分で確認した真念標石20基(阿波3、土佐3、伊予5、讃岐9)について、標石の形状、刻字を現地で模写し、それを絵図的に再現するとともに刻字を活字化し、所在地への案内を手書きの地図などで記している。それによると、愛媛県内の所在地は、今治市に3基、小松町と伊予三島市に各1基である。そして、『松山の道しるべ』によると、砥部町で1基確認されている。また喜代吉榮徳氏は、『同行新聞(㊿)』への投稿をはじめ、『四国辺路研究((51))』その他の著書において、多くの標石論考を発表している。以下、喜代吉氏の論考をもとに、真念の標石調査報告をまとめると次のようである。

 (ウ)真念標石の特徴

 平成11年現在、確認したものとして、喜代吉氏は33基(阿波9、土佐5、伊予8、讃岐11、うち伊予の1基は写真のみ)の願主真念の道標石を目にしているという((52))。中には上部や下部の破損したものあるいは破片となっているものなどもあるという((53))。それら33基の確認に至る経緯については『へんろ人列伝』の中で述べている((54))。この真念の道標石について、刻字、大きさ、所在地などをまとめて紹介しているものとしては『四国の遍路石と道守り((55))』中の26基が一番多い。その26基(阿波5、土佐5、伊予5、讃岐11)でみると、真念標石は次のような特徴を持つという。
 『道指南』の践辞によれば「四国中紛れ道おほくして陀邦の人岐にたたずむ所毎に」標石を立てたという。それを受けて喜代吉氏は「まぎれ道・岐-つまり交差点において、『左・右』のどちらにゆけば良いのか他国の人(他国からきた辺路さん)が迷うので、そうした地点に標石を立てる必要があった。よって真念法師が願主となって立てた標石には『右・左』の方向指示をしたものが多い((56))」という。ここに記された26基のうち上部破損の2基以外すべてその指示がある。右・左両方を指示したものが8基、後の16基は右又は左を示す。そのうち2基は文字ではなく指印で示している。
 道標石の大きさについて、喜代吉氏は、地表部高さ二尺(約60cm)前後、根石部とも長くて1m10cm。正面が六寸(約18cm)前後((57))と記している。26基の中で、最大最小の大きさを記すと、地表部の高さ85cm~50cm、正面の横幅20.5cm~15.5cm、奥行き18.5cm~12cmである。後の武田徳右衛門や中務茂兵衛の標石に比べると小型である。
 標石の刻字をみると、六十七番大興寺境内にあるものが、代表的な刻字の例である。
 正面は、分かれ道の方向指示(右・左)を必ず入れ、「遍ん路みち」、その下に「願主真念」と刻するのが代表的である。次の札所名、中にはそこまでの距離を記すこともある。また左右両方の方向と札所名を記しているものもある。右側面は、「梵字と南無大師遍照金剛」の文字を記すのが一般的である。その他「梵字と為父母六親」を記すこともある。左側面は、「為父母六親」の文字の下に施主の在所と名前が入るのが一般である。右側面に「為父母六親」と記した場合は施主名だけが刻されている。遍路者のための道標であるとともに、南無大師遍照金剛は弘法大師尊崇の思い入れであり、為父母六親は先祖供養の思いを刻んでいたのであろう。

 (エ)真念標石の最初

 喜代吉氏は願主真念の標石で年月日の記されているのは1基だけだという((58))。これは、正面16.5cm、奥行13.5cm、地表部の高さ60cmのもので、現在の高知県幡多郡三原村にあるという((59))。また、この標石には、「『道指南』の記述『今は右へゆく但し大ミづのときは左よし』に対応した刻字もある。((60))」として、「(この標石は)真念庵に近く、又年代と大師の祥月命日の日付があり、施主も真念の本拠地寺嶋の人である。やはりこの標石が<願主真念>の第1号ではなかろうか。((61))」と述べている。さらに、喜代吉氏は、「『道指南』出版前後<真念標石のうち唯一年代のある貞享四年(1687年)>から標石設置の事業に本格的に取り組んでいたわけで、三年後の元禄三年(1690年)には約二百基建立に至ったということであろうか。((62))」とも推論している。
 しかし、この時代に3年間で、四国中に二百余基もの標石建立が果たして可能であったであろうか。新城常三氏は、「遍路の道標は現存では愛媛県温泉郡坂本の貞享二年を最古とするが、これ以前にも真念は多くの道標を立てている。((63))」と記しているが、真念がそれ以前に立てたという根拠は記していない。『松山の道しるべ』によると、現在、愛媛県において、記年銘のある道標石(48基)の中で一番古いのは、八坂寺の近く(松山市)恵原町土用部池堤防下の「貞享二年(1685年)年三月吉日法房」建立の遍路道標であり、四国最古といわれるのは、室戸市にある「貞享二年二月吉日」建立のものであるという((64))。

写真3-1-1 真念庵

写真3-1-1 真念庵

土佐清水市市野瀬。平成12年11月撮影

写真3-1-2 真念の標石

写真3-1-2 真念の標石

五十四番延命寺境内にて。平成13年3月撮影