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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(3)真念の墓と命日

 真念の墓については、『四国遍礼名所図会 巻四』の八十五番八栗寺の項に、「此所より志度寺まで一里。原村、真念法師墓原村の小き山の上に道の右にあり((69))」とある。この真念の墓が、白井加寿志氏によって、香川県木田郡牟礼町大町東南三昧(塩屋)にある共同墓地内で発見された。その墓地は琴平電鉄志度線の塩屋駅の東側の道を北へ向かう県道36号の東側に平行した裏道にあって、塩釜神社の裏側にある。『四国遍礼名所図会』に書かれた位置から移されたものであろう。
 その発見された当時の墓石(写真3-1-3)は、昭和55(1980年)年2月に牟礼町牟礼の洲崎寺に移された。『牟礼町史』では、「(三昧地では)お参りしにくい」というので移したとのみ記している((70))。同書の洲崎寺の項には、『新撰讃岐国風土記』によればとして「本尊観世音菩薩は弘法大師の作という」とか、『南海通記』には「この洲崎の堂も大師大法を修治し給いたる所にして」とあると記し、さらには「本堂は大師の父和気宅成の創建である」などとも記されており((71))、洲崎寺は、弘法大師にもゆかりの寺のようである。そうしたこともあって、共同墓地の一角に無縁仏となっていた真念の墓を洲崎寺に移したのであろうか。この発見された墓地の跡地には、平成3年に「四国遍路の父 真念の墓跡」の碑が建立されている。
 現在、真念の墓は洲崎寺境内の南西の隅にある。墓塔は北向きに三段の台石が付いていて、茄子(なす)型丸彫りである。『牟礼町史』によると、「全高1.5m、本体の高さ0.8m、直径は上部0.36m、下部0.3mの花崗岩製((72))」とある。
 喜代吉榮徳氏は、この墓塔と真念庵にある真念法師供養石の地蔵尊の拓本をとるなどして何度か調査をした結果、『四国辺路研究 創刊号』で、それまでの推論を改めて、真念の没年月日を元禄5(1692年)年6月23日と判断している((73))。
 真念の業績とその人物について記してきたが、真念の生年と享年は未だ不明である。彼は、貞享・元禄のころ、大坂の寺嶋に住み、四国遍路に関する書物の発刊に関与し、遍路屋の設置や遍路標石の建立などを、多くの支援者を得て行った。高野山の寂本阿闍梨や、小沙彌洪卓ともかかわりのあった、弘法大師尊崇者の一人であり、真言僧であった。いつのころからか、弘法大師の徳を慕って、四国遍路二十余度を重ね、その恩徳の実体験者として、四国遍路する功徳を一般庶民にまで広めるために大きな功績を残した人である。そしてその後も四国遍路を続け、その途次、元禄5年6月23日、今の香川県の牟礼町辺りで、多くの支援者に看取られながら亡くなっていったのではあるまいか。

<注>
①近藤喜博『四国遍路研究』P6 1982
②真野俊和『旅のなかの宗教』P110 1980
③前出注② P110
④前出注② P109~114
⑤喜代吉榮徳『へんろ人列伝』P71 1999
⑥真念『四国漫路道指南』(伊予史談会編『四国遍路記集』1981)以下本節での原文引用は、この伊予史談会編本によることにする。
⑦越智道敏「解題」(伊予史談会編『四国遍路記集』P321 1981)
⑧前出注⑥(伊予史談会編『四国遍路記集』P115)
⑨前出注② P109
⑩前出注① P272
⑪前出注① P278
⑫前出注⑦(伊予史談会編『四国遍路記集』P324』)
⑬前出注① P273
⑭前出注⑦ P324
⑮白井加寿志「四国遍路『八十八ヶ所』起源考」(『郷土サロン紀要 第1集』P23 1974』)
⑯寂本『四国徧礼霊場記』(伊予史談会編『四国遍路記集』1981)以下本節での原文引用は、この伊予史談会編本によることにする。
⑰前出注② P109
⑱村上護『原本現代訳四国徧礼霊場記』1987
⑲前出注⑱ P49~50
⑳前出注⑱ P34~35
㉑前出注⑱ P386
㉒前出注② P110
㉓「ふところより一巻を出して、これらは俗人にしらしめば、信おこすたよりとならんかしといヘリ。」「『四国徧礼功徳記』叙」(伊予史談会編『四国遍路記集』P212 1981』)
㉔寂本「『四国徧礼功徳記』叙」(伊予史談会編『四国遍路記集』P211~212 1981』)
㉕前出注② P118
㉖新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』P1072 1982
㉗前出注㉖ P1025
㉘前出注㉖ P1073
㉙前出注① P246
㉚前出注① P227
㉛前出注① P227
㉜前出注① P227
㉝前出注① P247
㉞賢明『空性法親王四国霊場御巡行記』(伊予史談会編『四国遍路記集』P19 1981』)
㉟前出注⑥ P93~94
㊱橋本登『下茅の歴史』1975(「下茅」とは現在の「土佐清水市下ノ加江」のことである。)
㊲前出注㊱ P24
㊳前出注① P252
㊴前出注② P113、前出注⑱ P30
㊵宮崎忍勝『澄禅 四国遍路日記附・解説校注』P111 1973
㊶前出注⑯ P119
㊷喜代吉榮徳「伊予における隔夜信仰と辺路信仰」(『四国辺路研究 創刊号』P9 1993)
㊸(前出注㊷ P20)及び(喜代吉榮徳『四国の辺路石と道守』P60~67 1991)に所収されている。
㊹武藤致知『南路志』1813
㊺前出注㊱ P24
㊻前出注⑥ P71
㊼前出注② P113
㊽村上節太郎「四国遍路の道標」(『愛媛の文化 第22号』P143~183 1983)
㊾前出注⑤ P73
㊿五十六番泰山寺が発行元になって1977~1987まで発刊された、へんろ記事を扱った旬刊新聞(創刊1977・8・1付、終号は326号、1987・8・21付)
(51)喜代吉榮徳『四国辺路研究』1号~16号 1993~1998
(52)前出注⑤ P76
(53)喜代吉榮徳「真念道標石小考」(『四国辺路研究 第11号』P37・38 1997)
(54)前出注⑤ P76
(55)喜代吉榮徳『四国の遍路石と道守り』P52~58 1991
(56)前出注(55) P51
(57)前出注⑤ P73
(58)前出注(53) P41
(59)喜代吉榮徳『中務茂兵衛と真念法師のへんろ標石並びに金倉寺中司文書』P4 1985
(60)前出注(53) P40
(61)前出注(53) P41
(62)前出注(53) P41
(63)前出注㉖ P1026
(64)松山市教育委員会『松山の道しるべ』P5 1999
(65)前出注⑱ P39
(66)前出注② P114
(67)白井加寿志「第二節 四国へんろ」(香川県編『香川県史 第十九章』P790 1974)
(68)前出注① P266
(69)九皋主人写『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』(伊予史談会編『四国遍路記集』P302 1981)
(70)牟礼町史編集委員会『牟礼町史』P759 1993
(71)前出注(70) P757
(72)前出注(70) P906
(73)喜代吉榮徳「真念墓碑銘刻字」(『四国遍路研究 創刊号』P25 1993)

写真3-1-3 真念の墓

写真3-1-3 真念の墓

香川県木田郡牟礼町洲崎寺にて。平成12年11月撮影