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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)諸藩の遍路対策③

 工 讃岐諸藩の対応

 (ア)丸亀藩における遍路屋

 城下町丸亀の港は、阿波国徳島と並び、上方や中国筋からの渡海者が多く上陸するところであった。とりわけ、下津井-丸亀間は中国地方と四国地方を結ぶ上で距離が短く、その上、島も多いので安全性が高く最も往来が頻繁であった。また、この丸亀から金毘羅間の丸亀街道は、近世最も栄えた金毘羅参詣道でもあった((89))。
 真念の『道指南』には、「摂州大坂より讃岐丸亀へ渡海の時ハ、立売堀丸亀屋又左衛門・同藤兵衛かたにて渡り様可相尋。白銀弐匁、丸亀まで船賃、但海上五拾里。」とあって、讃岐丸亀に渡って上陸するには当時、大坂立売堀の丸亀屋又左衛門あるいは丸亀屋藤兵衛に相談をするようにと案内していた。
 天保7年(1836年)3月、丸亀に着船した武蔵国中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、持参の寺往来手形を役所(番所)へ出し、さらに1人前世話料として銭105文ずつを差し出して、丸亀西平山町の備前屋藤蔵の世話で「(船)揚り切手」を貰い受けている((90))。
 また、同年に四国遍路した松浦武四郎は、「下津井の湊に(中略)船を求て海上七り、船賃七十弐文、切手銭十三文、毎夜出船有、渡海し、(中略)故此四国の内二而頓死、病死等二而も有而は、其所の例を受べき手形を持、別て此丸亀二而船上り切手と云るものをもらひ行ことなり。其切手は上陸の上問屋二行而、船改所二国元の寺、往来を書認めもらふこと也。右之代銭八十五文也。此の船揚りを持たざるものは、土州甲の浦の番所等二而甚陸ケ敷云て通さゞること也。故二遍路の衆は皆失念なく此湊二揚り切手を取行かるべし。((91))」と記し、丸亀港での「揚り切手」取得の重要性を強調している。なお、この2件の記録は同年のことでありながら、この両者では代金に1人前20文の差があるのはなぜかという疑問が残る。
 四国への上陸地点として、丸亀は当時、阿波徳島と並ぶ二大拠点であったという。大坂あるいは下津井から丸亀へ渡海してくると、讃岐の遍路道に入り、通例では七十八番道場寺から札打ちが始まるようである。ほかには八十六番志渡(度)寺や七十五番善通寺などから札打ちする場合もあるようである((92))。
 なお、遍路道と重複する金毘羅への道では、丸亀港あるいは多度津港のほか、嘉永・安政期には江戸方面からは熊野から紀州加太浦を経て志度港に上陸し、高松からの参詣道を利用するルートが多く使われたとある((93))。これが志度寺を札打ち始めとする背景かと思われる。
 次に、丸亀には、公設の遍路屋が設けられていたことは先述した。これについては、天明年間(1781~89年)に成立したといわれる丸亀藩法制の「古法便覧」の中の史料((94))によれば、元文5年(1740年)11月に、丸亀藩の許可を受け、城下町中と三浦地区の負担によって、丸亀城下の西平山に遍路屋が建てられたことや、そこには宿守りが置かれ、町会所が運営に当たっていたことが分かる。
 さらに、翌寛保元年(1741年)7月、丸亀の町中・三浦に通達された定目(じょうもく)の中に、廻国遍路人宿に関して細かい規定が定められている((95))。
 それによると、遍路屋では往来手形、寺請手形を改めて間違いがなければ一泊を認めること、身勝手な頼みなどで二夜以上の宿泊を認めたりしないこと、木賃は一人前宵越しで30文以下、米・塩・味噌などは他の店より高値では売らぬこと、遍路のうち病人や貧窮の者には格別いたわること、舟にて渡海してきた者は川口で往来手形を見届け、問題がなければ川口の番所へ報告してその者を上陸させること、出船のときも同様にするよう心得ること、などと定めていた。この定目は2人の町奉行から3人の大年寄を通じ、14町21人の年寄と、三浦の3人の庄屋に通達して、それぞれの請け判をとったものである。

 (イ)高松藩の場合

 四国遍路に関するもので、高松城下の様子を知るものとして、文化12年(1815年)8月に藩が出した町年寄への達しがある((96))。
 それによると、従来から遍路の城下への入り込みは禁じられていたが、当時乞食あるいは遍路が高松城下に多く入り込んで盛んに托鉢(たくはつ)をしていた様子がうかがわれる。乞食遍路の類や他国者で物貰(ものもら)いをする者に対しては、今後は一切協力をしてはならないという達しであるが、なお、この達しの末文には、この達しの趣旨はすでに天明5年(1785年)や寛政7年(1795年)にも触れ達しているが、それにもかかわらず、近年心得違いの者もあって徹底していないので重ねて通達すること、本家は言うまでもなく裏だな・借家に至るまで趣旨を徹底するようにと、厳しく申し渡している。

<注>
①新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』P1029~1031 1982
②前出注① P1029~1031
③前田卓『巡礼の社会学』P112~116 1971
④前出注① P1070
⑤「阿淡御条目 百」(徳島県史編さん委員会編『徳島県史料 第二巻』P495 1967)
⑥前出注① P1051
⑦平尾道雄『近世社会史考』P169 1962
⑧前出注① P1051
⑨(近藤喜博『四国遍路』P237~241 1977)及び(真野俊和『旅のなかの宗教』P131~137 1980)などに紹介されている。翻刻は、(広江清編『近世土佐遍路資料』)及び(高知県編『高知県史 民俗資料編』)などに所収されている。
⑩前出注① P1056
⑪「郡方2232」(藩法研究会編『藩法集3 徳島藩』P810 1962)及び「阿淡御条目 百」(徳島県史編さん委員会編『徳島県史料 第二巻』P495~496)を参照のこと。
⑫前出注⑦ P169
⑬前出注③ P103・159
⑭前出注① P1064~1065
⑮前出注① P1064~1065
⑯「憲章簿」辺路之部(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1017~1018 1977)
⑰前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1007~1008)
⑱前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1009~1010)
⑲前出注① P1052
⑳前出注① P1052~1054
㉑前出注① P1275~1278
㉒前出注① P1053~1054、1074・1081・1083
㉓香川県編『香川県史9 資料編 近世史料I』解説P1023 1988
㉔前出注① P1053~1054・1081~1083
㉕前出注① P1074・1079・1087
㉖前出注① P1082~1083
㉗前出注① P1079・1091
㉘前出注③ P118
㉙前出注① P1074~1075・1080・1088・1091
㉚真野俊和『旅のなかの宗教』P123~131 1980
㉛讃岐国三野郡某『四国順禮道中記録』(喜代吉榮徳『四国辺路研究 第3号』P1~17 1994)
㉜前出注① P1080
㉝野中彦兵衛『四国遍路中并摂待附萬覚帳』(喜代吉榮徳『四国辺路研究 第4』P1~13 1994)
㉞前出注① P1077・1091~1092・1096
㉟前出注① P1054
㊱[稲飯幸生「上山村粟飯原文書-四国順拝諸扣帳について」(上)・(下)(『徳島教育』8月号P92~97・『同書』9月号P72~77 1972)]及び再録増補の(稲飯幸生『上山村粟飯原文書―庄屋の生活』P46~59 1993)に所収されている。
㊲前出注① P1070~1071
㊳前出注① P1078~1081
㊴前出注① P1083~1084
㊵前出注③ P223~248
㊶前出注① P1089
㊷野田成亮『日本九峰修行日記』(宮本常一ほか編『日本庶民生活史料集成 第二巻』P64~65 1969)
㊸前出注① P1090~1092
㊹(高知県編『高知県史 民俗資料編』P268~269 1977)に所収されている。
㊺前出注① P1085
㊻前出注① P1088
㊼武田明『巡礼の民俗』P76~77 1969
㊽前出注① P1086
㊾前出注① P1378~1379
㊿ 前出注⑤(徳島県史編さん委員会編『徳島県史料 第二巻』P494~495)
(51) 三好昭一郎「四国遍路史研究序説」(真野俊和編『講座日本の巡礼 第2巻 聖蹟巡礼』P13~15 1996)
(52) 前出注⑤(徳島県史編さん委員会編『徳島県史料 第二巻』P495)
(53) 前出注⑤(徳島県史編さん委員会編『徳島県史料 第二巻』P497)
(54) 前出注(51)(真野俊和編『講座日本の巡礼 第2巻 聖蹟巡礼』P12~13)
(55) 前出注㉝(喜代吉条榮徳『四国辺路研究 第4号』P2~4)
(56) 前出注(51)(真野俊和編『講座日本の巡礼 第2巻 聖蹟巡礼』P11~12)
(57) 藤井此蔵『藤井此蔵一生記』(宮本常一ほか編『日本庶民生活史料集成 第二巻』P764 1969)
(58) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P984)
(59) 前出注⑦ P295~296
(60) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P989~991)
(61) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P992)
(62) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P993)
(63) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1002)
(64) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1007)
(65) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1008)
(66)(前出注⑦P298)及び(高知県編『高知県史 近世史料編』P1417 1975)にも同様文書が所収されている。
(67)(前出注⑯高知県編『高知県史 民俗資料編』P1015~1016)及び(高知県編『高知県史 近世史料編』P1418~1419 1975)に所収されている。
(68) 前出注⑦ P301
(69)(前出注⑦ P302~303)及び前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1020に同文、ただし前書きを欠く)に所収されている。
(70) 前出注⑦ P169~170
(71) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P985~986)
(72)『皆山集十三』(広江清編『近世土佐遍路資料』P74~75 1966)に制札写しを所収する。
(73) 前出注⑦ P303
(74) 前出注㉝(喜代吉榮徳『四国辺路研究 第4号』P4~5)
(75) 白井加寿志「四国遍路の実態」(石躍胤央ほか編『徳島の研究7・民俗篇』P243~244 1982)
(76) 前出注⑯(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1024~1025)
(77) 前出注(57)(宮本常一ほか編『日本庶民生活史料集成 第二巻』P764)
(78) 前出注㉝(喜代吉榮徳『四国辺路研究 第4号』P5~6)
(79) 愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 資料編 近世下』P602~603 1988
(80) 松浦武四郎『四国遍路道中雑誌』(吉田武三編『松浦武四郎紀行集 中』P 270 1975)
(81) 景浦勉編『伊予近世社会の研究(下)』P60 1997
(82)「上吾川宮内家文書」(愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 資料編 近世下』P103 1988)
(83) 中山馨解読『四目順拝諸扣帳解読版』P7 1997
(84) 英仙本明・胎仙頓覚『海南四州紀行』(愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 資料編 学問・宗教』P775 1983)
(85) 道後温泉については、(松山市教育委員会編『おへんろさん』P164~165 1981)及び(松山市編『松山市史 第二巻』P122 1993)を参照した。
(86)「松山御触書」(愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 資料編 幕末維新』P157~160 1987)
(87) 愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 民俗下』P83~84 1984
(88) 前出注① P1231~1239
(89) 香川県編『香川県史4 通史編 近世Ⅱ』P517 1988
(90) 前出注㉝(喜代吉榮徳『四国辺路研究 第4号』P2)
(91) 前出注(80)(吉田武三編『松浦武四郎紀行集 中』P151・153)
(92) 前出注(89) P538~540
(93) 前出注(89) P514~515・521
(94)「古法便覧」と「解題」(香川県教育委員会編『新編香川叢書 史料編(一)』P1053~1054・1104 1979)及び(近藤喜博『四国遍路研究』P234 1982)に所収されている。
(95)「丸亀城下御定目」と「解説」(香川県編『香川県史10 資料編 近世史料Ⅱ 』P549・550・989~990 1987)及び(近藤喜博『四国遍路研究』P194 1982)に所収されている。
(96)「高松町年寄御用留(抄)」と「解説」(香川県編『香川県史10 資料編 近世史料Ⅱ』P519~520・988~989 1987)