データベース『えひめの記憶』
四国遍路のあゆみ(平成12年度)
(1)遍路の多様化と接待②
イ 遍路旅を楽しむ
(ア)人生の節目の旅
これまで苦行、難行、乞食行としての遍路について述べてきたが、一方、近世の庶民にとっては、その人の一生の節目ともなる旅の一つとしての遍路があった。新城常三氏は、近世の遠隔参詣が民衆にとってどのような意義を持っていたのかを述べているが、それを要約すると次のようである(㉑)。
遠隔参詣は、民衆にとり、生涯一度かせいぜい二、三度であり、その意味で極めて非日常的行為で、いわば一過性のものであった。しかしそれが民衆にとって物心両面にわたり、並々ならぬ事業であるだけに、単なる一度だけの行為では終わらぬものがあった。参詣のために寄合が開かれ、親睦を確かめ合い、また誰かが参詣に出るごとに親類・近隣者は餞別や留守見舞いをせねばならぬから、参詣は何らかの経済的関連を持ち続けていた。
参詣は、大半の人にとり国を出る唯一の手段であり、さらに情報伝達の貧困な当時、広い世間をじかに見、じかに聞く唯一の機会でもあった。旅・参詣が当事者の見聞を広め、社会教育的効果の大きいことは、今日からは想像以上のものがあった。また参詣は、人生行路におけるただ一つの奢(おご)りの追憶として、その後の苦悩や辛労の緩和剤になったであろうし、さらにそれは折にふれて子や孫に語り継がれて、次代の旅を誘発していった。
人々は信仰のため、あるいは観光を兼ねてさまざまな参詣を行ったが、それは元来人々の自由であった。そのほか社会生活の必要上、参詣に出るケ-スもまれではなかった。参詣が通過儀礼化し、それを済まさなければ社会の一員になれぬとか、嫁に行き難いとかいう一種の社会的強制からの参詣もあった。
さらに、参詣は講仲間そのほか、元来、心情的にある程度近縁の関係者と同行するものであるが、それが楽しく苦しい、数十日の異常な人生体験を共にする「同期の桜」となるために、親近さは一段と高まるのが常だった。ここに彼らの間にしばしば地縁・血縁・年齢を超えた「同行」と呼ばれる新しい結合が生まれる所以(ゆえん)があった。四国伊予各地では、遍路を共にしたものは終生仲良くし、何かとことを共にしたという。
(イ)庄屋たちの遍路旅の記録
江戸時代中期から後期にかけて一般庶民の遍路が隆盛となっていく。そうした遍路のなかで、大庄屋、庄屋などの裕福な農民たちが遍路をし、貴重な旅日記・道中記録を残している。これはまた遍路研究はおろか、近世史や庶民の歴史・民俗誌をひもとく上でまことに貴重な記録でもある。近年、地方史研究の進展や遍路史への関心の高まりもあって、貴重な記録が複刻・翻刻・紹介されてきているので、その主なものを次に紹介する。なお、記載については年代順とし、内容は、遍路実施年・記録名・出身地と筆者名・引用の要点とその引用文献名、翻刻がある場合はそれを所収する文献名、などとした。
① 延享4年(1747年)『四国辺路中万覚日記』 讃岐国豊田郡井関村の庄屋・佐伯藤兵衛
引用の要点:木賃記載なしが22日あり、総支出銀65匁余で金換算1両程度、遍路屋泊を避ける、一行4人、2月28
日から4月10日まで、主食接待はなしか善根宿3日あり(㉒)。
翻刻:(香川県『香川県史9 資料編近世史料Ⅰ』1988)に所収
「この日記は大きく二つに分かれている。前半『泊り宿付覚』には、参拝した寺院と交通状況及び宿泊場所
は八十八か所の順に従って、阿波・土佐・伊予・讃岐となっている。後半『銀両かへ覚』と『銀払方』で
は、その費用を細かく記録している。(中略)宿泊は知人や庄屋の家が多く、川の渡しもときには利用して
いる。(㉓)」
② 寛政7年(1795年)『四国中諸日記』 伊予国伊予郡上野村の庄屋・玉井元之進
引用の要点:旅費は1人分およそ4貫文で全くの自費、一行5人、2月17日出発、4月20日前後帰郷、約2か月、
接待記録皆無(㉔)
翻刻:(喜代吉榮徳『四国辺路研究』第12号 1997)に所収
③ 寛政12年(1800年)『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』 阿波国河内屋某(九皋主人)写
引用の要点:土佐で2回・讃岐で1回接待を受ける、遍路屋等無料施設を利用せず(㉕)。
引用の要点:3月20日出発し、5月3日帰宅で所要日数73日(複刻本の序)
複製:(久保武雄復刻『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』1972)
翻刻:(伊予史談会編『四国遍路記集』1997)に所収
④ 文化元年(1804年)『溝手家文書』の中の『文化元年四月四国遍路道中入用帳』 備中国の地主溝手家の代参
長津氏
引用の要点:5月6日から6月22日までの遍路の支出簿、接待記事無(㉖)
⑤ 文化2年(1805年)『四国中道筋日記』 土佐国土佐郡朝倉村の兼太郎
引用の要点:単独行、2月12日出発、3月13日帰宅で約1か月間の旅、接待17回、ほかに他国接待を受ける(㉗)。
翻刻:(喜代吉榮徳『四国辺路研究』第11号 1997)に所収、ほかに「付説―船渡し、せったい等」がある。
⑥ 文化初年(1804年~)記録名不詳 伊予国風早郡の前大庄屋・門田兎文
引用の要点:井手素文を同行、3月5日に鴻の坂越えで出発し、5月下旬(4月下旬か)までに帰郷の七十余日間
(五十余日か)の旅かと思われる(㉘)。
⑦ 文政2年(1819年)『四国日記』 土佐国安芸郡北川村西谷の名本(庄屋)・新井頼助重豊
引用の要点:接待18か所、善根宿5回、2か所で大師堂泊等(㉙)
引用の要点:一行2人、57日間、出足用意の品、遊山の旅、坂迎え等(㉚)
翻刻:(広江清編『近世土佐遍路資料』1966)及び(高知県『高知県史 民俗資料編』1977)に所収
⑧ 天保4年(1833年)『四国順膿道中記録』 讃岐国三野郡某(新延氏か)
引用の要点:2月20日出発、4月2日帰着、一行9人、42日間などの記事があり、ほかに付説・内容概略・米価と
銀銭交換率表・接待一覧表・土産一覧表などがある(㉛)。
翻刻:(喜代吉榮徳『四国辺路研究』第3号 1994)に所収
⑨ 天保7年(1836年)『四国遍路中并摂待附萬覚帳』 武蔵国幡羅郡中奈良村の庄屋・野中彦兵衛
引用の要点:重蔵を同行、2月某日武蔵国出立、3月7日丸亀に着船、5月7日帰郷、接待50回(㉜)
引用の要点:札打ち仕舞いが4月8日で途中4日を除くと27日間の遍路、全行程3か月か、番所での手続き・接待
には詳しい記事があり、ほかに付記・接待品一覧表がある(㉝)
翻刻:(喜代吉榮徳『四国辺路研究』第4号 1994)に四国遍路関係のみ所収
⑩ 天保7年(1836年)『四国遍路道中雑誌』 伊勢国一志郡須川村の庄屋の出身・松浦武四郎(1818~88年)、幕
末の北方探検をはじめ旅行家として高名
引用の要点:単独行、茶堂・大師堂のほか止宿よしの茶屋36か所と記載あり(㉞)。
翻刻:(吉田武三編『松浦武四郎紀行集 中』1975)に所収
⑪ 天保14年(1843年)『四国順拝諸扣(ひかえ)帳』 阿波国名西郡上山村の前庄屋・粟飯原権左衛門
引用の要点:約60日間の旅費わずか米2俵(㉟)
引用の要点:一行12人・餞別・2月3日出発で4月2日帰宅などの旅程・金銭出納・摂待などの記事(㊱)、留守居
をした息子で、庄屋の庄太夫の日記が残っており、関連事項を伝えていて興味深い。
翻刻:(中山馨編『四国順拝諸扣帳 解読版』1996)に所収
これらのなかで、⑤の朝倉村の兼太郎については素性が判然としないし、⑩の松浦武四郎も庄屋の出身とは言うものの旅行家で庄屋とは言い切れないが、かれらもまた旅の楽しみを味わっているようである。これらの人たちは、苦行の遍路をするとはいえども、結構ゆとりのある遍路旅をしているようである。例えば、③の九皋主人や⑦の新井頼助、⑨の野中彦兵衛は途中、伊予国堀江または三津から海を渡って安芸の宮島・周防の岩国、伊予の大三島などへ参詣に出かけている。他の者もこの三人ほどではないが、途中の高松・徳島・松山の城下見物、伊予道後での逗留(とうりゅう)、屋島の見学、金毘羅参詣など、ほとんど例外なく楽しんでいるようである。そこには従来の遍路のイメージとは違った、多様化した庶民遍路のもう一つの姿が見えてくるのである。
ウ 遍路を迎える接待者たち
四国路では、沿道等の民衆が遍路に対して便宜を与える、「お接待」と呼ばれる風習が古くから行われてきた。
近世において一般に四国外でも、僧侶や修験、真摯(しんし)な求道者に対しては、沿道民衆・共同体の援助が見られ、それによって求道者などは、ほとんど無銭にて、長期にわたる大旅行をなし遂げる者が少なくなかったようである。したがって遍路もまた、四国路を物乞いしながら、その目的を達成することもできたであろう。ところが四国路の民衆の間には、乞われて物を恵み、宿を提供する消極的な援助はもちろんながら、さらに積極的に、遍路に乞われずして物を施し、乞われずして宿泊させる慣行が、広く存在していた。これによって遍路が受ける恩恵は、他地域に比し、一段と大なるものがあった。すなわちこれが「(お)接待」といわれるものである。この接待とは通例、積極的な物品の供与を指すが、そのほか、旅宿の積極的な提供、すなわち善根宿も実質的には接待であり、さらには遍路への無料宿泊施設=遍路屋も接待の一つと解される(㊲)。
(ア)接待の内容
接待または善根宿に関して、具体的に知られるのは、ようやく江戸中期以降、とくに後期に入ってからであるという。新城常三氏は、善根宿以外の接待について、次の要約のような遍路の紀行記録を挙げている(㊳)。これによれば接待は、直ぐ口にする主食を主とし、鼻紙・草鞋(わらじ)などの日用品から、月代(さかやき)その他の労力等多様にわたるが、米や貨幣は少ないようである。
① 宝暦13年(1763年)、甲斐木喰上人の『西国四回順礼手引』
讃岐で大師堂球白、4か村で強飯の接待を受ける。
② 寛政12年(1800年)、阿波国河内屋某の『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』
土佐の2か所で接待を受け、讃岐土居村でも大坂講中の接待を受け、そのほか諸所で「常接待有」と記している。
③ 文化2年(1805年)、土佐国朝倉村の兼太郎の『四国中道筋日記』
17回の接待を記している。その内容は、「木賃なし」・茶・赤飯・餅(もち)・飯吸物などである。
④ 文政2年(1819年)、土佐国北川村の新井頼助の『四国日記』
至る所で接待を受ける。その内容は多様で、小豆飯・飯・月代・草鞋・餅、無料の船渡しなどである。
⑤ 天保7年(1836年)、武蔵国中奈良村の野中彦兵衛の『四国遍路中并摂待附萬覚帳』
50回の接待を受け、その内容は、「飯26回でたくあん漬けが付くことが多い」・草靴5回・銭4回などである。
⑥ 天保8年(1837年)、甲斐国の兵助の「甲州郡内騒動頭取犬目村兵助と逃亡日記その他」(『歴史評論』第338号
の増田広美氏論文)
伊予国道後付近で8回の接待を受ける。
⑦ 安政3年(1856年)、武蔵本庄の日向氏の『四国八十八ヶ所道中日記』
数か所で接待を受ける。
⑧ 十返舎一九の『金草鞋』
随所で接待を受ける。その内容は、茶飯・飯におかず・米・麦こがし・草鞋などである。
ところが一方で、新城常三氏は、接待を受けたとの記録のない紀行記の存在を指摘して、その理由を次のように解している。例となっているのは、延享4年(1747年)の『四国辺路中万覚日記』、寛政7年(1795年)の『四国中諸日記』、文化元年(1804年)の『溝手家文書』の中の『文化元年四月四国遍路道中入用帳』の3例である。これらは共通して接待記事が皆無で、ほとんど彼等は毎日一定の米を購入しており、主食に関する限り、接待の恩恵は少ないとしている。記録を残すような遍路は、文字を知る有識層であり、一般に旅費も充分に用意しており、行乞(ぎょうこつ)はもちろんしないし、接待も当てにしない。接待は彼等の道行きをより豊かにし、潤いを与え、多少の助けとなっても、絶対必要というものでもなかったのであるとしている。
そして新城氏は、接待を最も必要とした人たちで、しかも記録を残すこともまれな例として、前記の天保8年(1837年)の逃亡百姓甲斐の兵助や、天保10年(1839年)の伯耆国日野郡長山村の百姓惣兵衛一家4人(『鳥取県史』八 近世資料編第447号)などの遍路を例として、次のように接待の意義を強調している。
接待は、零細農・零細市民・女性・または乞食遍路にとってこそ、少なからぬ経済的意義があったのであろう。彼等は遍
路屋・善根宿・堂・庵の無料使用と共に、行乞とこの接待とにより、わずかな旅費またはただで行を進め得たのである。
(中略)さらに彼らは報謝によって結果として遍路をなし終えたが、その報謝は、出発当時からの期待と予定であり、報謝
による遍路の完遂、帰国を多分に確信して家を出たのであろう。しかもこの種の貧しい遍路は常に数多く四国路を往来して
いたのである。四国以外他の参詣・旅でも、報謝期待で計画されることは少なくないが、遍路の場合、その期待の実現性は
一段と高かった。それは一般にある行乞や数多い大師堂のほかに、遍路特有の接待と、遍路屋・善根宿の積極的な援助があ
るからであった。ここに遍路には、この惣兵衛一家のごとき貧困な人々のほか、さらには多数の乞食を参加せしめうる所以
があった(㊴)。
(イ)接待をする人たち
接待について調査を行った前田卓氏は、接待をその種類によって三つに分類した(㊵)それによると、第1は個人接待で、自宅近くの道を通る遍路への接待や篤志家が霊場境内などでする接待などである。第2は、霊場近くの村落民による接待である。第3は、四国以外の人々が団体で霊場に来て行う接待講である。さらに接待の動機としては、第1に遍路に対する同情心、第2に弘法大師信仰のため、以下祖先の冥福のためとか、遍路に出る代わりに善根を積むとか、自分が受けた接待の返礼報謝のためなどを挙げている。
一方、社寺参詣史の立場から新城常三氏は、「接待者は、個人や寺院のほか、郷村等の共同体、さらに藩権力等に分かれよう。」とその資格を挙げ、事例として遍路屋を取り上げて説明している(㊶)。それによると、藩としては阿波藩主による駅路寺があり、共同体としては伊予国伊予郡上野村や同国越智郡国分村での一村共同経営とか讃岐国丸亀西平山の町会所経営があり、個人では土佐国の真念庵などがあるとする。なお、「伊予の国浮穴郡土井村平木と云へる処に常摂待堂」の拡張のために周防国で勧進を求める話(㊷)を、近隣との共同作業の例として紹介している。
また物品供与の接待について新城常三氏は、接待者を居住地域によって次のように三つに区分し論じている(㊸)。まず、圧倒的に多いのは遍路の通る沿道の関係者である。とくに宿泊りや善根宿には沿道外の人々はほとんど関係はできないことになる。次に、沿道から隔たった村落の人々で、後述の土佐国安芸郡の諸村や、伊予国伊予郡上野村の天保7年(1836年)12月「辺路家米覚」の例、太平洋戦争前までの愛媛県温泉郡川上村南方(現川内町)の人々による西林寺での接待などの例がある。さらに、四国外の人たちによる接待講がある。現在ないし近くまで行われていた接待には、紀伊有田接待講、同野上接待講のほか和泉・備中・豊後などがあるとしている。このうち、紀伊有田接待講は文化14年(1817年)、和泉接待講は文政元年(1818年)の起源とされ、早いもので大坂講中の寛政12年(1800年)にさかのぼるものもあるが、大半は文化文政期前後のようで、四国民衆の接待の発生よりかなり遅れるようであるとしている。
(ウ)ある村の接待と接待日
遍路が断続的に行き交うとすると、接待する側の負担も大きなものとなってくる。そこで個人あるいは村での接待の量にはある程度の決まった量があると思われるとし、新城常三氏は、「馬路村風上取締指出扣(さしだしひかえ)(㊹)」をもとに、江戸後期における土佐国安芸郡の諸村での接待品目とその数量を次のように示して、負担者は一部のものであろうと分析している(㊺)。なお、これらの村々はいずれも遍路道から外れた村である。
① 東川村 唐黍(とうきび)・大豆等を煎花(いりはな)(あぶりこがしたもの)6升(39軒)(1軒当たり1合5勺)
② 土川村 煎米(いりごめ)3升(8軒)(1軒当たり3合8勺)
③ 相名村 餅1斗・煎米1斗外(60軒)(1軒当たり3合3勺)
④ 日裏村 米8升(29軒)(1軒当たり2合7勺)
⑤ 影村 なし(接待をしない理由は明らかでない。)
すなわち村毎1軒当たりの負担量は、1合5勺から3合8勺くらいのものである。しかるに同じ土佐安芸郡川北村はこれより多く、安政期前には1軒当たり、3月に米1升をたき、8月に焼米5合を、春秋合わせて1升5合分を接待する。本村は当時、家数437軒であり、もし全村1戸残らず負担するとするならば、1年の総計6石4斗5升5合となり、前記の近村より戸数は10倍もあるが、それにしても接待量の差は余りにも大である。
次に接待日について新城氏は次のように述べている。前出の土佐国安芸郡の諸村では春の彼岸と秋の彼岸の2回に2・3人が組となって、同郡川北村では3月と8月の2回で「定日なし」だが、10人が1組となって、それぞれ接待場所へ出向くとある。特に多いのは3月21日の弘法大師の命日であるようで、新井頼助や逃亡百姓甲斐の兵助の記事にも見え、3月21日が接待の定日であることを明らかにしている。そのほかには、江戸時代にさかのぼることができる伝承や習俗として、3月節句の翌4日の例が、土佐国幡多郡大方町田ノ浦、阿波徳島付近にあり、4月4日、4月8日、4月12日の例もあるという(㊻)。
また、民俗研究家である武田明氏は、弘法大師入寂の日である3月21日、盆の月の大師の命日である7月21日、大師が村々を訪ねてくるという日の霜月24日に接待することが多いとし、接待が遍路に対するもののほかに、巡遊する大師のための接待として遍路道を遠く離れた山村でのお堂の接待があることを指摘している(㊼)。
なお、前述のように土佐国安芸郡の諸村、東川村・土川村・相名村・日裏村では、春彼岸または秋彼岸に接待していたが、東川村では、安政元年(1854年)の洪水での損田以来、他の3村は、「大地震大変(安政2年か)」以来、この接待を中止していて、安政4年(1857年)に至るまで復活するに至っていないとあり、また同郡川北村でも、以前には接待していたが、安政4年の数年前よりやめているという(㊽)。