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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)苦難の遍路旅

 『社寺参詣の社会経済史的研究』において新城常三氏は、社寺参詣史料を次の三つに分類している(㊺)。

   ① 主として道中記・日記・往来手形等による個々の具体的参詣事例
   ② 藩法・村法等の法規定
   ③ 識者の評論・随筆または風俗帳等の記録

 ここでは①のうち、江戸時代初期に書かれた二つの遍路道中記を取り上げて、当時の遍路のありさまを分析する。まずその特徴として、当時の遍路の所要日数が後世に比してきわめて長日であることである。このことについて新城常三氏は、「寛永15年(1638年)大覚寺宮空性法親王の遍路は、8月から11月まで足かけ4ヵ月にわたり、承応2年(1653年)の澄禅は91日を要し、貞享2年(1685年)の俳人(大淀)三千風は、120日も費やしている。当時、通例100日前後かかるようであるが、これは江戸中期以降の平均日数40~50日に比すれば優に2倍である。かくのごとき交通路・交通施設の大いなる不備と、それに由る100日にも及ぶ長日の難行苦行は、遍路の民衆化を阻んでいたに相違ない。(㊻)」と、交通路・交通施設の不備を理由に挙げ、遍路がいまだ苦行であるとしている。

 ア 空性法親王の御巡行に見る

 寛永15年(1638年) 8月から11月にかけて、大覚寺宮空性法親王が僧賢明を従えて四国霊場を巡拝している。その紀行記録が賢明の筆になる『空性法親王四国霊場御巡行記』である。現存する四国遍路道中記の最も古いものである。
 この二人の人物について宮崎忍勝氏は、「空性法親王は、天正元年(1573年)生。慶安3年(1650年)寂、世寿78。誠仁親王の二男にして後陽成天皇の御弟にあたる。若年にして嵯峨大覚寺門跡准后尊信の弟子となり、後尊信の後を襲って大覚寺門跡となり、晩年退居して瑞庵と号した。(大覚寺門跡次第)『御巡行記』の筆者賢明は、大宝寺、権少僧正とあるが、大宝寺の歴代には見当らず、塔中寺院の院主か大覚寺関係の僧と考えられる。(㊼)」と記している。この『御巡行記』について、近藤喜博氏は、「四国旅日記として、現存最も早いものは、大覚寺空性法親王の寛永15年8月の、四国巡行に随行した沙門賢明の『四国霊場御巡行記』であろう。しかしこれはまことに美文調で終始し、リアルな実感と具体的な感動を引きつけるものがない。(㊽)」と評している。
 また一方、宮崎忍勝氏は、「その足跡は、札所の近くや道すがらの神社仏閣、金比羅山や満濃池といった名所旧跡に立寄りながらの順拝であるが、(中略)八十八番の札所と順路としての遍路道は一応、定まっていたものであろう。(㊾)」と、この記録が札所と遍路道の成立を示唆するものと評価している。
 こうした評を受けて、越智通敏氏は、本書を解題する中で次のように高く評価している。

   この書は、嵯峨大覚寺宮空性法親王が、権少僧正賢明を従え、寛永15年(1638年) 8月から11月まで、四国霊場を巡行
  した紀行的記録で、筆者は賢明である。(中略)賢明は、践文によると、予州菅生山大宝寺の僧となっており、このこと
  は、この記録の内容が、菅生山大宝寺に始まり、ここで終わっていることによってもわかるが、他の傍証に乏しく、必ずし
  も明白ではない。大宝寺の院号を大覚院というから、嵯峨大覚寺との関係もほぼわかるし、本文の書き出しに「此の山里に
  来て見れば菅生の山の影深く」とあるから、あるいはかつて大宝寺に止住していたか、時折嵯峨大覚寺との間を行き来して
  いたか、いずれにしても、大覚寺と空性法親王に関係の深い僧である。この巡行記は、七五調を基調とした美文で、筆者の
  教養を思わせるものがあるが、表現に力を注いだためか、具体的記述に欠け、各地の寺社・城跡などの歴史的記述も、名称
  だけをあげるにとどまったものが多い。一読して気づくことは、伊予に関する記述が全体の半分をしめること、南朝の遺跡
  に関する記述に詳しいこと、四国霊場について欠くところはないが、たいへん簡単で、名所旧蹟の記述が多く、一般の紀行
  文に類する内容であることである。ともあれ、この巡行記は、四国霊場巡行記の最初に位置するもので、四国遍路の成立を
  知るうえで貴重な資料である(㊿)。

 イ 澄禅『四国遍路日記』に見る

 (ア)澄禅と『四国遍路日記』

 この『四国遍路日記』については、発見者である近藤喜博氏や最初の翻刻者宮崎忍勝氏などの諸説があるが、これらを受けて書かれた越智通敏氏の文献解題の一文を次に引用する。

   承応2年(1653年)7月18日から10月28日までの100日間(四国遍路は7月25日から10月26日までの91日間)にわ
  たる詳細な遍路紀行が「澄禅」の四国遍路日記である。この日記は、近年、宮城県塩竃神社の文庫から近藤喜博氏によって
  発見されたもので、巻末に、徳田氏が正徳4年(1714年)に写して、「右ハ洛東智積院ノ中雪ノ寮、知等庵主悔焉房証禅
  大徳ノ日記也」と書き加えていることにより、証禅の日記であることがわかるが、宮崎忍勝氏によると、証禅は澄禅の誤記
  であるという。この智積院澄禅の日記の写本が松島塩竃神社にあることについては、右の両氏の所説(近藤喜博「四国霊
  場記集」解説、宮崎忍勝「澄禅四国遍路日記」解説)により、この日記の写本は、奉納記朱印等から、もと江戸期の古書収
  集家村井古巖の収書中にあったものが、実弟の忠著によって、天明6年(1786年)冬塩竃神社に奉納されたことがわかる
  ((51))。

 次に、『四国遍路日記』の著者である澄禅について記した、宮崎忍勝氏の一文を引用する。

   澄禅大徳は、慶長18年生、延宝8年寂(1613年-1680年)世寿68。肥後国球磨郡の人である。知等庵悔焉(かいえん)
  と号した。 20歳前後の頃京都智積院の学寮に入り仏道修行の研鑽を積むこと十余年、一時郷里に帰り地蔵院を継いだが程
  なく再び上洛して近代師と称される学僧、智山第七世運敞阿闍梨の門下として、専ら悉曇(しったん)(梵語)学の研究に従
  事し『悉曇愚鈔』2巻をはじめ多くの著作を残した。澄禅は刷毛書(はけがき)梵字の祖ともいわれ、門下数千と伝えられる
  運敞能化の高弟、智積院第一座として鳴った。郷里地蔵院に住したころ、太守の接待優渥、人々の評判もよかったが、澄禅
  大徳はこれを煩わしとしてひそかに郷里を逃れ、その国境で自ら悔焉と号したという。専ら学業に精進し、しかも『悔い
  て焉(や)む』という彼の号からも、世事に疎く名利を厭う高風が偲ばれるのである。承応2年『四国遍路日記』をものした
  澄禅大徳は時に41歳、その師運敞阿闍梨(1614年-1693年)は40歳であり、当時智積院第一座(学頭)の地位にあっ
  た((52))。

 今日、この『四国遍路日記』は、遍路史料としてはもとより歴史的史料として極めて高い評価を受けている。そのことについて、先に挙げた文献解題の中で越智通敏氏は、次のように触れている。

   こうした学殖豊かな真言僧によって書かれたこの日記は、内容もまた豊富で、四国遍路古記中の白眉とも言うべく、近世
  における四国遍路に実態を最もよく伝えるのみならず、関連部門の資料としても価値のあるものである。澄禅の四国遍路
  は、京都からいったん高野に上って弘法大師の霊廟に詣で、ここを起点にして阿波に渡り、四国を一巡して和歌山に帰って
  いるから、最後にはやはり高野の霊廟で満願となったことが想像される。すなわち、これは、四国遍路成立期における遍礼
  のパターンを示すもので、大師一尊化の傾向が濃厚であることと共に注目すべきことである((53))。

 (イ)澄禅の歩いたミチ

 江戸時代、全般的には交通路が改善されていくが、承応2年(1653年)の『四国遍路日記』をみると、近世初期における四国遍路は極端な道路の悪条件に悩まされており、これが庶民遍路を阻む一因になっていることが分かる。この日記の随所に、「大難所」、「難所」、「大坂」、「坂」、「大河」、「河」、「川」の文言が見え、澄禅の旅の難渋振りが察せられる。
 このうち、とりわけて河川の渡河の困難と危険が陸路の中で最大の障害であったようである。当時阿波・土佐の河川にはほとんど橋、渡し舟がなく、澄禅は至る所で渡渉の難渋に苦しんでいる。日記から関係河川を抽出してみると(〈 〉内の河川名・湾名は推定)、阿波では〈那賀川〉・〈海部川〉・〈吉野川〉、土佐では野根川・〈奈半利川〉・安田川・言云川・眠り川〈物部川〉・浦戸湾・新居戸ノ渡リ〈仁淀川〉・横浪三里〈浦ノ内湾〉・平節川・仁井田川・大谷川・高島の渡し〈四万十川〉などと列挙されている。そして土佐については総括して、「山海野澤多シ。殊川多シテ行路二苦労在リ。」と澄禅は述懐している。その後の伊予・讃岐についての記述において、新城常三氏は「多く単に河を渡るとのみあり、阿波・土佐のごとき辛労のほどについては触れていない。これは徒渉がもはや普通となり、いちいち詳記する繁に耐えなくなったためではないかと思われる。(中略)単に渡るとあるのは、阿波・土佐で徒渉を指すごとく、伊予・讃岐でも、多くの河川に、渡舟を欠いていたと解すべきである。((54))」と推察している。
 新城常三氏は、貞享2年(1685年)の大淀三千風の紀行『四国逞路海道記』の一節、「……予は隈々までめぐり、あるは橋なく、船なき所にては、其用をいひ、又宿をおしむ山寺の鳥鼠・丘尼(比脱か)には、其諌をなし。」を引用して、この澄禅の遍路から約30年後において、「当時なお、橋または渡船等を欠き、渡河の困難と宿泊の不便が十分に解決されていないことが推し測られる。((55))」と述べている。
 さらに『四国遍路日記』には、四国霊場八十八ヶ所をたどる順歴の道筋について、比較的整備された往還の「大道」のほかは、「村里の中道」、「田中の細道」、「マギラハシキ道」、「深谷ノ人里絶(へ)タル所」、「海辺ノ波打ギワ」、「草深キ細道」、「浅キ瀬ヲ歩(キ)渡り」といったありさまで表現され、道路状況がきわめて悪いことがうかがわれる。そうした所では旅人が道に迷わないように、道標が絶対的必要な交通施設となるが、これまた、当時かなり不備で人々の進路を誤らせていた。澄禅も、「此人二道知ルベセラレテ」、「里人二逢(フ)テ問(ハ)バ」、「前々通りシ人跡見ユル様ナルヲ知(ル)ベニシテ」とか、「道筋ヲ見分(ク)ル様ナル砂」をとか、「終日苦身(心)シテ」遍路道を歩んでいた。先の『四国邊路海道記』の筆者大淀三千風も、道標がなくて道に迷い、道心者に同行してもらっている。
 新城常三氏は、「近世初期四国では土佐・阿波を中心に全般的に、道路が極めて悪い上、渡河施設が不備であったが、当時四国以外では一般に見られぬことであった。河川の渡渉が、かくのごとく不便のまま放置されたのは、その不便が社会問題化せぬほど、交通量が低く、また遍路も少ないためであろう。さらにかかる河川渡渉の困難は交通の発展、遍路の発達にとり、少なからぬ障壁をなしていたことも否定されない。((56))」と述べ、江戸時代初期の四国遍路はいまだ多分に中世的段階を脱するに至っていないとしている。

 (ウ)澄禅の受けた接待

 『四国遍路日記』を多角的に分析した近藤喜博氏は、澄禅の受けた接待について次のように考察する。
 「澄禅は真言宗沙門の関係上、道法(みちのり)350里ほどの遍路中、宿泊の点でも、かなり恵まれた遍路であったと思われる。彼の日記からもそうした事情が知られてくるから、一般遍路衆からとは、比較にならない好条件をもっていた。この点は空性法親王一行についても、また真念の場合にもいわれることであろうが、いずれも真言宗籍に属したから、宿泊のみでなく、大師御影像の開帳や、霊宝類の拝観といった面にも、特別の配慮に預かった場合は、けだし多かったに違いない。((57))」
 こうした沙門としての特別な扱いや待遇は別個のこととして、ここに注目すべきことには『四国遍路日記』に、四国遍路に特徴的であるという「善根宿」や「接待」が登場することである。
 新城常三氏は、これを記録上では初見だと指摘したうえで、「彼澄禅は、各地で民家に宿泊しているが、なかに亭主の信仰心による接待もある。伊予宇和島の今西伝介、同久米村の武知仁兵衛ごときは、無類の後生願で、澄禅を誘ったし、さらに伊予戸(鳥)坂の庄屋清左衛門亦同様であり、これらいずれも善根宿であろう。以上のごとく澄禅は、宿泊の接待=善根宿には預かっているものの、物品の供与については、誌していない。しかし彼はとくに阿波と土佐との人情の篤さを讃えているから、この二国から受けた援助は少なくなかったであろう。((58))」と述べて、物品の接待があったものと推察している。また新城氏は、次の大淀三千風の場合についても、「貞享2年(1685年)『日本行脚文集』五に、讃岐金毘羅で一柳軒寸木子は、雅襟(うたぶくろ)ありであったが、『……あるは邊路の窶袋(やつしぶくろ)には、一撮の糧(かて)を分け、あるは朽(おぼろ)衣には一宿の筵をゆづる。……』とあるのは、能動的な接待であろうし、物品の接待もまた辺路屋、善根宿同様早くから始まっていたのであろう。((59))」と解している。
 もう一つ加えておかなければならないものに遍路屋(辺路屋)がある。『四国遍路日記』に登場する「辺路屋」は、阿波海部の大師堂(「是ハ辺路屋也」)、阿波鹿喰の辺路屋(「爰二太守ヨリ辺路屋トテ寺在リ」)、土佐野根の大師堂(「辺路屋在リ」)、伊予宇和島追手門外の大師堂(「是辺路家ナリ」)、阿波佐野の辺路屋(「北ノ山ギワニ辺路屋在リ」)、讃岐弥谷の辺路屋(「弥谷ノ麓辺路屋」)の6か所である。澄禅はこのうちの土佐野根の大師堂と讃岐弥谷の辺路屋のそれぞれには一宿したが、阿波鹿喰の辺路屋(寺)では宿は借りたものの、「坊主樫貪第一二テワヤクヲ云テ追出ス」とてやむなく宿泊を断念し、寺を出ている。
 近藤喜博氏は、「このような難路にも、少なくとも承応年間以前に、すでに遍路屋が設けられつつあったのは、注目すべき事実だ」、「また大師堂は、すでに辺路屋であったことを示しているのは、承応年間という年時を考えても、遍路史には重要なことであろう。」などと指摘し、「澄禅の歩いた承応年間以前には、いまだ充分な遍路屋の設けがあったとは出来かねるにしても、見てきたように、遍路屋の数が増していく趨勢は、すでに出来ていたのである。」と述べている((60))。
 さらに近藤喜博氏は、日記の中に次のように遍路する人々の姿を捉えて、澄禅が歩いたこの当時すでに、相当数の遍路が歩いていたと推論している。

   土佐に入ると、室戸岬の近くに「野根大師堂トテ遍路屋」あり。『四国偏礼功徳記』には「与州宇和郡野井村、たるべ伊
  左ェ門といふ人、遍礼数度せしが、寛文十年の夏遍礼しける時、土州野根村大師堂に一宿」とて、ゆくりなくもその利用を
  伝える。伊左ェ門は遍路数度というごとく、四国内からの遍路も、普及しようとする事情の一面を見せており、事実、澄禅
  が野根川を渡るとき、「当国(土佐)幡多ノ辺路衆ナト云合テ、急キ河ヲ渡ル」とあるように、土佐辺からの遍路も、後に
  なり前になって歩いていた。なお当時遍路衆が群れ歩いていた状況は、澄禅が 焼山寺(十二番)奥院へ登った際は、「同
  行数十人」といい、宿泊に当たっては、高野山小田原谷の行人衆13人も一宿していた。弘法大師によると信じられた遍路
  ミチに、高野の行人たちは、当然としても、さらに澄禅の大龍寺(二十一番)奥院の岩屋に登る時も、「同行衆八人」がい
  た。この連中が相談し、奥院への案内人を頼んでいるといった点を考えると、季節により断絶はあったろうが、遍路ミチ
  300里の上には、相当数の人々が、歩いていたと想像することが出来る((61))。

 そして近藤喜博氏は、「いずれにしても四国遍路は、苦難連続の修行ミチに違いないが、そうした裡にも、江戸時代初期から中期に亘って、遍路ミチの全体は、時代相応に、整備されつつあったと理解することが出来る。((62))」と述べ、江戸初期から中期にかけ遍路道の整備が進んでいると推論している。

<注>
①新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』P1020 1982
②近藤喜博『四国遍路』P140~148 1971
③近藤喜博『四国遍路研究』P189~190 1982
④前出注① P1021
⑤前出注② P146
⑥澄禅『四国遍路日記』(伊予史談会編『四国遍路記集』P47 1981』)、以下、本節での引用原文はこの伊予史談会編本による。
⑦前出注② P140~141
⑧前出注② P147
⑨松山市教育委員会編『伊予路の文化』P89 1991
⑩真念『四国邊路道指南』(伊予史談会編『四国遍路記集』 P113~114 1981)、以下、本節での引用原文はこの伊予史談会編本による。
⑪前出注① P1020
⑫(前出注② P203)、(徳島県史編さん委員会編『徳島県史 第四巻』P42~43 1965)、(前田卓『巡礼の社会学』P36 1971)、(三好昭一郎『阿波の仏教史』P93 1965)などに所収されている。
⑬前出注① P1021
⑭(徳島県史編さん委員会編『徳島県史 第四巻』 P42~43 1965)、(三好昭一郎『阿波の仏教史』 P93 1965』)などを参照した。
⑮前出注② P202~203
⑯前出注① P1072
⑰賢明『空性法親王四国霊場御巡行記』(伊予史談会編『四国遍路記集』 P18 1981)、以下、本節での引用原文はこの伊予史談会編本による。
⑱前出注⑥(伊予史談会編『四国遍路記集』 P27)
⑲前出注⑩(伊予史談会編『四国遍路記集』 P84)
⑳前出注⑥(伊予史談会編『四国遍路記集』 P27)
㉑前出注⑩(伊予史談会編『四国遍路記集』 P82)
㉒九皋主人写『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』(伊予史談会編『四国遍路記集』 P239 1981』)、以下、本節での引用原文はこの伊予史談会編本による。
㉓前出注⑥(伊予史談会編『四国遍路記集』 P51)
㉔前出注⑩(伊予史談会編『四国遍路記集』 P106)
㉕前出注⑩(伊予史談会編『四国遍路記集』 P284)
㉖前出注① P1021~1022
㉗前出注③ P259
㉘前田卓『巡礼の社会学』P103~104 1971
㉙前出注① P1022~1023
㉚景浦勉校訂『松山藩法令集』P14 1978
㉛「憲章簿」辺路之部(高知県編『高知県史 民俗資料編』 P983~984 1977)、この「憲章簿」辺路之部の史料については、先に広江清編『近世土佐遍路資料』に収録されてはいるが、以下、本節では高知県編『高知県史 民俗資料編』収録のものによる。
㉜前出注① P1215
㉝前出注① P1219~1220
㉞前出注① P1216~1217
㉟前出注① P830
㊱前出注㉛(高知県編『高知県史 民俗資料編』P1002)
㊲平尾道雄『近世社会史考』P152 1962
㊳前出注㊲ P158
㊴徳島県史編さん委員会編『徳島県史 第四巻』P44~48 1965
㊵白井加寿志「四国遍路の実態」(石躍胤央ほか編『徳島の研究7・民俗篇』P245~246 1982)
㊶前出注㊲ P152
㊷前出注㊲ P154~156
㊸前出注㊲ P156~157
㊹愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 近世下』P221 1987
㊺前出注① P866
㊻前出注① P1025
㊼宮崎忍勝解説・校注『澄禅四国遍路口記』P107~108 1977
㊽前出注② P246
㊾宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』P170 ・ 172 1985
㊿越智通敏「解題」(伊予史談会編『四国遍路記集』 P317~318 1981)
(51)前出注㊿(伊予史談会編『四国遍路記集』P318~319)
(52)前出注㊼ P108~109
(53)前出注㊿(伊予史談会編『四国遍路記集』P319)
(54)前出注① P1024
(55)前出注① P1024
(56)前出注① P1024~1025
(57)前出注③ P227~228
(58)前出注① P1078
(59)前出注① P1078
(60)前出注③ P215 ・ 217 ・ 231
(61)前出注③ P228~229
(62)前出注③ P224